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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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「耳の枠はずし」について
福島恵一音盤レクチャーin Sound Cafe dzumi「耳の枠はずし」第1回は、3月28日(日)に開催します。詳しくは2/24の記事(カテゴリー:レクチャー日程)をご覧ください。

 「ユリシーズ」3号のディスク・レヴューで採りあげるRichard Skelton「Landings」(Type)やTomoko Sauvage「Ombrophilia」を繰り返し聴いている。音から香りのように風景が立ちのぼり、くっきりとあるいはゆらゆらと像を結ぶ。それは自然が勝手に生成する人間のいない世界だ。もちろん、作品をつくったのは人間で、楽器を演奏したり、PCの前に座って編集に悪戦苦闘したり、あるいは床に座って、水の入った茶碗をスプーンでかき回していたりすることは知っている。Tomoko Sauvageの演奏なんてyoutubeでも簡単に見られるし。けれど出来上がった音響、再生装置を通して私の耳に届けられるサウンドは、決してそうした営みに還元、あるいは解消できるものではない。そこにはどうしようもなく他の何かが宿っている。本当はそう言いたくないけれど、仕方ない、それを「神秘」と呼んでもいいだろう。

 音は我々の外にある。音は決してコミュケーションの道具ではなく、相手の意図を運ぶ乗り物でもない。たとえある意図を込めて発信したとしても(たとえば言葉のように)、必ず他の何かが紛れ込み、憑依する。発信者の意図を推し量ることで、音をわかった気になるのはやめにしよう。それは「聴くこと」を貧しくすることにほかならない。だいたい「聴くこと」は、そんな風に人間の自由になんてならないのだ。

 Tomoko Sauvageの生み出した音の不可思議な手触り、揺れる息遣い、おぼろに移ろう色合いを、「水を張った茶碗をかき混ぜる」動作やそれをコンタクト・マイクで拾う仕掛けに還元してしまえば、それはひとつの「ネタ」へと矮小化され、見て、あるいは知ってさえいれば、「ああ、あれね」と片付けることもできる。それが情報消費のやり方だ。こうしたことを続けている限り、人は「聴くこと」の豊かさへたどり着くことはないだろう。たとえライヴに行ったとしても事情は変わらない。聴衆は音を聴く代わりに演奏者の像(身体の運動)をとらえ、あるいは意図を探り、体験をそこへ帰着させようとする(それゆえ「聴くこと」は貧しく限定される)。演奏者の意図を超えて、様々な亀裂や断層をはらんだ音は、誰にも聴き届けられることなく、むなしく空中に吸い込まれていく。過剰な残滓として。

 もともと我々はあらかじめ知っているものしか、あるいは当面必要とするものしか眼に入らないし、耳にも聞こえない。そこには何重にも枠がはめられている。しかし、我々はそのことをふだん意識しない。音楽を聴くような場合にさえ。不均等な符割のせいで、実際にはとてもそうは聞こえないJ-POPの歌詞を歌詞カードで読み取って話題にすることに、何の不思議も感じていない人々。J-POPなど型にはまった音楽だとして、より「前衛」的なサウンドに耳を傾ける人たちも、先に述べた「演奏者/作曲者への還元」の罠にはまっていないだろうか。

 音盤レクチャー「耳の枠はずし」で、私がフリー・ミュージックを題材に採りあげたいのは、決してデレク・ベイリー論やフリー・ミュージックの歴史ではなく、まさにこのことなのだ。



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レクチャー内容 | 13:06:55 | トラックバック(0) | コメント(0)
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