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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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「演る音楽」と「聴く音楽」の間  Between "Music to Play" and "Music to Listen to"
 益子博之が自身のブログ『益子博之うたかたの日々』(*1)で、「地球の裏側と、地球のこちら側と」と題し、南米アルゼンチンの音楽サイト”El Intruso”による2011年ベスト選を紹介している。そこでとても興味深いのは、ミュージシャンによる投票結果と批評家による投票結果の両方が示されていて、その内容が結構異なっていることだ。今回はそれについて考えたことを簡単に記してみたい。
 *1 http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43768


1.ミュージシャンによる投票結果

 まず驚かされるのは投票に参加しているミュージシャンの顔ぶれの多彩さだ。益子が指摘しているように「ジャズ」というくくりではなく、「New Creative Music」と冠されていることもあるのだろうが、確かに通り一遍「ジャズ・ミュージシャン」でくくれる面子ではない。というのは、ジャズには全然詳しくない私にも明白に「非ジャズ」系とわかる演奏者が、多数含まれているからだ。
 たとえばAndrea Centazzo。無調ジャズの先駆者Giorgio Gasliniのグループの元メンバーだったのは確かだが、どちらかと言えばDerek Bailey, Evan Parker, Steve Lacy, Alvin Curran, John Zornらとの共演作を自身の主催するIctusレーベルからリリースするフリー・インプロヴィゼーション畑の演奏者だろう。ポルトガルの誇る名ヴァイオリニストCarlos Zingaloの名前にふむふむと頷きながら、自身のアンサンブルを率いて意欲的なコンポジションに挑戦するなど、密かに注目していたハンガリー出身のSzilard Mezei(vn,va)の名前が挙がっているのには驚かされた。Anthony Braxtonの下で研鑽を積むJason Kao Hwang(vn)もいるし。そうやって見ていくと、やはりインプロ畑のJohn Butcherあたりは、むしろ当然のように思えてくる。それでもJason Kahn(per,electronics)の音響作品にフツーのジャズ・ファンは顔をしかめるだろうし、Tony Conrad等との共演作があるC.Spencer Yeh(vn,vo,electronics)の奇天烈なノイジーさには眼を白黒させかねまい。ましてやMike Pride(dr,vo,electronics)率いるBunda Loveの騒々しいお下劣ぶりは悶絶死モノだろう。そしてWandelweiser流のコンセプチュアル・ミュージックからより美麗なサウンドスケープへと転じたコンポーザーMichael Pisaroまでが名前を並べている。日本で対象者を選定・依頼するとしたら、こうした広がりはとても望めないのではなかろうか。
 選ばれた作品の多彩さもなかなか一筋縄ではいかない。実はNY系の作品は、ほとんど益子博之/多田雅範の選出したベスト10やその他注目盤と重複していて、彼らの耳の確かさを世界水準で立証するものとなっているのだが、他にはP.J.Harvey, Radiohead, Bjork, Tom Waitsなど、結構ロック系が入っている。ちなみに、5票以上を集めた21作品中、私のレヴュー対象作品との重複は1枚(Farmers by Nature)のみ。うう‥(T_T) これには先に挙げた「異端」の連中が1作品しか挙げていなかったり、フリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディング等に積極的に投票していないこともあるのだが。

  
    Andrea Centazzo        Szilard Mezei         Jason Kahn

  
     C.Spencer Yeh           Mike PrideによるBunda Love(CD,DVD)


2.「演る音楽」と「聴く音楽」
 
 さらに各ミュージシャンが何を選んでいるか見ていくと、Kate BushにAC/DCにJohn Cageに‥ともうバラバラでますます面白いのだが、これが何を意味しているかと言えば、原田正夫が2月7日に自身のブログに記しているように(*2)、「演る音楽」と「聴く音楽」の分け隔てのない地続き状態ということだろう。このことはその記事がレヴューしている「タダマス4」にゲストとして招かれたドラマー橋本学が「ミュージシャンもまた音楽を聴く時は1人のリスナーに過ぎない」と発言して裏付けていた。彼はまた「演奏している時って、必ずしもフレーズがこう‥とか、コードがこう‥って言う風に〈音楽的〉に考えているわけじゃなくて、もっと視覚的なイメージを思い浮かべていたり、あるいは「ちょっと暗くなってきたから、もう少し明るくしよう」とか、そんな風に考えていることもある」旨の発言もしていた。
 それでは「演る音楽」を持つミュージシャンたちは、「聴く音楽」をどのようにとらえているのだろう。もちろん「ミュージシャンもまた‥‥」は絶対の真理なのだが、おそらくそれでは事は済まない。
 益子は先のブログ記事の中で、誰が誰を評価しているか、誰が誰と近いか‥といったミュージシャンのネットワークを、その背景に見立てているようだが、果たしてそれに尽きるものだろうか。むしろ、ミュージシャンと言う音楽のフィールドの中をどこかへ向かって移動している人種が、他の音楽(あるいはミュージシャンないしはサウンド)とすれ違ったり、傍らをすごいスピードで追い抜いてあらぬ方向へ舵を切ったり、あるいは反対に相手の進路を横切ったりする時に、「おや」とか「へえ~」と思うのではないだろうか。「おや、面白いじゃないか」とか、「おや、勢いがあるな」とか、「へえ~、こんなの見たことないぞ」とかいう風に。それはミュージシャン同士の直接のつながりを必ずしも前提(あるいは結果)としない。ポイントは〈移動〉中に〈遭遇〉することにある。だからこそ〈知識〉や〈情報〉としてではなく、〈体感〉として刻印されるのだ。
 *2 「masuko/tada yotsuya tea party vol.04」http://timbre-and-tache.blogspot.com/#!/2012/02/masukotada-yotsuya-tea-party-vol04.html


3.批評家による投票結果

 ミュージシャンによる投票が基本的に作品部門だけであるのに対し、批評家による投票は、ミュージシャン、作品、楽器別演奏者など細かく分類されており、また、1作品しか投票しない者も見られた前者と異なり、みんな律儀に投票している。その上位作品を見比べてみると面白いことがわかる。

 【ミュージシャンによる投票結果】
1位 Craig Taborn / Avenging Angel
2位 Tyshawn Sorey / Oblique-I
3位 Julius Hemphill / Dogon A.D. (re-edition 2011)
4位 Anthony Braxton / Trillium E
4位 PJ Harvey / Let England Shake
4位 Gerald Cleaver Uncle June / Be it As I See it

【批評家による投票結果】
1位 Peter Evans Quintet / Ghosts
2位 Bill Dixon / Envoi
3位 Craig Taborn / Avenging Angel
4位 Wadada Leo Smith’s Organic – Heart’s Reflections
5位 Mostly Other People do the Killing / Live in Coimbra

 一見するとCraig Taborn以外、全く一致しないように見えるが、再発作品であるJulius Hemphill『Dogon A.D.』とロック歌手であるPJ Harveyを除いて、なおかつGerald CleaverとTyshawn Soreyが批評家投票によるドラマー部門でダントツの1位・2位であること、またAnthony Braxtonが同じくコンポーザー部門で2位に入っていることを考えれば、両者は最初思った以上に重なり合っていることがわかる。と言いながら、後者の1・2・4・5位についてネットで音源を捜して聴いてみると、私のような門外漢にも「ああジャズだ。それ以外の何者でもない」と思わせるところがある。もちろん、それは単なる定型のなぞりなどではなく、ちょうど「電化」の時期へと至るマイルス・デイヴィスの軌跡のように、歴史を踏まえつつ、しかるべき〈発展〉の方向性を見定めた批評性(時として5のようにパロディックな)を確実にたたえてはいるのだが。
 でも、それは決定的にジャズに〈似て〉いる。「タダマス3」のレヴューで書いたような「ジャズにちっとも似ていないジャズ」になってしまう、あるいはいつの間にか〈ジャズ〉の境界を踏み越えてふらふらとどこかへ旅立ってしまう、さらにはそもそも〈ジャズ〉ではまったくないその外部から出発する‥‥といった可能性を感じさせない。おそらく批評家たちは前述のように、これまでのジャズの歴史を踏まえつつ、しかるべき〈発展〉の方向性を見定めて、未来のジャズがかくあるべき、かくあって欲しい「あらまほしきジャズ」(ヴェテランは相変わらず元気で、中堅はそれを乗り越えるべく意欲的で、若手は‥)をヴィジョンとして思い描き、それとの距離で作品を評価しているのだろう。過去に根ざした固定座標での評価(批評家)と移動する視点からの相対的な速度/運動(躍動)感覚あるいはフレッシュネスによる評価(ミュージシャン)。
 もちろん、彼らがジャズ批評家である以上、こうした営為はまったく正しい。だが私のような門外漢には、その正当性がとっても退屈なものに思えてしまうのだ。


4.オルタナティヴな評価軸を

 「それでは『音楽批評』の看板を掲げるお前はどうなのか」との自問を避けられまい。自分がレヴューしているような音楽、ジャズの近傍でもあるようなフリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディング/サウンドスケープ等と総称される音楽、あるいはさらにその周辺等について、やはりあらかじ定めた固定座標で評価しているだけなのではないか‥と。もちろん、日々、更新を心がけてはいるのだが、それは世の批評を行う者の当然の努めでしかない。むしろ重要なのは、評価軸を新たなオルタナティヴにより複数化し、ずらしてみることだろう。
 私の場合、まず一貫して〈強度〉が評価の基準軸としてある(もっとも〈強度〉というヤツはなかなか他人に説明できるものではなく、描写/分析によって指差すしかないようなものなのだが)。通常フリー系だと次いで〈対話〉が重要視される(「楽器同士が互いにおしゃべりしているように聞こえればと良い演奏」という話)のだが、私の場合、John Zornたちの実践を踏まえて、この問題系について、衝突/交錯、散乱/散布、断片化/コラージュ(ブリコラージュ)、交換/速度、ランゲージ/ゲーム等の諸概念による置換/充実を図っている。
 さらに、Michel Donedaの苦闘の跡をたどり、改めてECMの諸作品やエレクトロ・アコースティックな即興演奏を再発見したり、あるいはフィールドレコーディング等と出会うことにより、空間/風景/遠近法(的構図の変容)、視覚/触覚、図/地、希薄化/充満、生成/流動/変形、視点の移動/体感の移動、多視点/多焦点/オールオーヴァー、コラージュ/レイヤーの重ね合わせ/ヘテロトピア、情報処理/情報消費(象徴的消費を含む)、メディア/媒介性/処理速度の違い、アフォーダンス/機械による知覚/視覚的(聴覚的)無意識‥‥といった問題系を、この間に出会った方たちからの豊かな触発もあって、強く意識するようになってきたのは、これまでブログで書き進めてきた通りだ。
 これらの問題系については、最近になって、モダニズム絵画の空間/視覚論とそこからはキッチュと見なされがちなシュルレアリスムの空間/視覚論が、大きな思考のヒントになるのではないかと考えている。だから、いよいよ開催されるジャクソン・ポロック展はとても楽しみにしている。

 さて、最近、もうひとつ興味関心を抱き始めたこととして、〈プリミティヴ〉ということがある。もともとトラッド・ミュージックからMichel Doneda、さらにはギリシャ正教アトス山の典礼等を結びつけて〈野生の音景〉などと言っていた時から頭に引っ掛かっていたのだが、シュルレアリスム周辺を〈掘り〉始めてますます気になりだし、ついには次に掲げるような音楽作品にも行き着いて、プリミティヴでなければ達することのできない(モダニズムでは行き着けない)優雅な洗練というものがあることを、改めて思い知らされた次第である(これらの作品についても、いずれディスク・レヴューをアップすることを宿題としておこう)。
 なお、ここで言う〈プリミティヴ〉とは「そうした問題意識に引っ掛かってくるものの総称」なので、ずいぶんと包括的で混乱した、およそ概念やテーマとは言いがたいものであることをあらかじめお断りしておく。「〈プリミティヴィスム〉と〈プリミティヴィズム〉」(大久保恭子)の違いも、ここでは全く意識していない。それゆえ下記のリストも現地録音による「純正な」エスニック・ミュージックなどではなく、レコード盤制作のための録音のアンソロジーだったり、人々に深く愛される歌謡だったり、遡行的な(幻想の)コミュニティ探求だったり、「アメリカの民族音楽だった」と名指されるような実験音楽だったり、フルクサス的なパフォーマンスだったりと、いささかとりとめがないことに注意されたい。

 Various Artists / The Rhythms of Black Peru (Secret Stash LP 273)
 Jesus Vasquez / Con la Guitarra de Oscar Aviles (Xendra Music XM-1039)
 Kelan Phil Cohran and Legacy / African Skies (Captcha Records HBSP-2X-010CD)
 The Mystic Revelation of Rastafari / Grounation (Recording Arts 2X604)
 Juma Sultan's Aboriginal Music Society / Father of Origin (Eremite MTE05456LP)
 Joe Jones / Joe Jones in Performance (Harlekin Art Records 01038)
 Angus MacLise, Tony Conrad, Jack Smith / Dreamweapon Ⅰ (Boo-Hooray SMRGS-1)
 Angus MacLise, Tony Conrad / Dreamweapon Ⅲ (Boo-Hooray SMRGS-2)
 Philip Corner / Piano Work (Slowscan vol.10)

  
The Rhythms of Black Peru      Jesus Vasquez    Kelan Phil Cohran and Legacy

  
  The Mystic Revelation        Juma Sultan's            Joe Jones
     of Rastafari        Aboriginal Music Society

  
    Dreamweapon Ⅰ        Dreamweapon Ⅲ         Philip Corner

 中井久夫は『分裂病と人類』の冒頭部分で、S(分裂病)親和性と強迫症親和性を対比させ、エティオピアを「私の知るかぎりもっとも非強迫的社会であったのではなかろうか」と記しており、もっとも強迫性の高いヴェトナム平地民の文化と比較している。後者の例としてヴェトミン軍の徹底した鉄道破壊(レールをジャングルに持ち帰り、土堤を崩し、まわりの水田と同じ高さにして稲を植えてしまう)を、前者の例として戸籍も結婚届もなく、外国人以外に対する殺人は、まず加害者・被害者の実在性が問題となってしまう(この辺は諸星大二郎の不条理な佳作「黒石島殺人事件」を思わせる)ことを挙げる。彼によれば「言語的な伝達に信を措かないこの社会の人々は、しかし、一瞥にして相手の信頼性を正確に把握秤量する比類ない直感力をもち、生のよろこびは、徹夜で踊り、ついには乱交するコーヒーハウスの夜々にある。わが国人からみれば怠惰とだらしなさの極致だろう。しかし、彼らの価値とするものは別のところにあり、生の甘美さもまた別のところにある。それを象徴するのは、一本の木から切り出され、一個の製作に数ヵ月を要し、もっとも幾何学から遠く、もっとも坐り心地のよい椅子である」とのことだ。
 中井の著作からの引用は極端な一例に過ぎないが、こうした〈プリミティヴ〉を巡る視線/思考が、新たなオルタナティヴとして、思わぬ補助線を引いてくれるのではないかと、目下のところ勝手な期待を抱いている。

      
中井久夫『分裂病と人類』  「黒石島殺人事件」収録の
                   諸星大二郎作品集
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批評/レヴューについて | 20:45:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
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