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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージのヘテロトピア(混在郷)  Giovanni Battista Piranesi's Heterotopia
 国立西洋美術館版画素描展示室で開催中の「ピラネージ『牢獄』」展見てきました。もともと由良君美『 椿説泰西浪漫派文学談義 』(青土社)でド・クウィンシーの阿片幻想の視覚化として、あるいはジョン・マーティンやギュスターヴ・ドレと並ぶメガロマニアックな幻視者として、彼の名前が頭に刻み込まれて以来(何と30年前のことです)、ずっとずっと気になっていた存在でした。それがここに来て建築や都市論を調べていく中で、彼による古代ローマの想像的再構築の試みが視界に浮上し、さらに素晴らしいとは思いながらも、単にねじれた暗い幻想世界と片付けていた「牢獄」のシリーズが、遠近法の濫用による多視点化と質の異なる空間の隣接/接合/共存によるヘテロトピックな実践として見えてきました。そこへ実にタイミングよく今回の展示が。
 国立西洋美術館の今回期間中(3/6~5/20)のメイン展示は、実はピラネージではなく、「ユベール・ロベール-時間の庭-」展です。彼も実は「廃墟のロベール」との異名を取り、画業だけでなく、庭園設計にも秀でた才人。そちらの展示の中でも、ピラネージが触れられている部分がありました。両展共に以下にレポートします。


1.「ユベール・ロベール-時間の庭-」展

  仏ヴァランス美術館(現在改装中のため休館)からの貸出作品を中心に、ユベール・ロベール(Hubert Robert)の歩みを、影響関係や同時代の傾向にも目配りしながら、130点以上にも及ぶ作品展示でたどる企画展。
 ロベールの展示作品の多くはサンギーヌ(sanguine)と呼ばれる酸化鉄が発色した赤褐色のチョークによるドローイング(もちろん油彩の大作もあるが)。作品の様子はチラシ【図1】掲載の作品を参照のこと。興味深かったのは、いわば風景画の基準点としてクロード・ロランの明るく平坦に澄み渡った牧歌的な田園風景(彼の油彩はいつも遠くの空が明るいなあ)や、当時の流行であったピクチャレスク絵画の寵児と言うべきサルヴァトール・ローザによる暗く重くラギット(ギザギザゴツゴツした荒々しい)な風景があわせて展示されていたこと。彼らがいて、その傍らにユベール・ロベールがいた‥という感じが、すごくよくわかる。

 そのロランの作品にも廃墟は登場するが、あくまで画面の片隅の点景に過ぎない。ロベールの作品も最初うちはやはりそうだが、だんだん廃墟やローマの遺構が前面にせり出し、コンポジションの主たる対象となっていく。一方では繁茂する植物に侵され、あるいは庶民の日々の暮らしの中で価値を下落させていく(粗末な木の扉を付けて貯蔵庫に転用され、あるいは男女グループの遊興-釣りや川遊び-の舞台となる)はかない存在として描かれ、もう一方では、古代ローマの遺構(の断片)が、門を正面からとらえた構図による奥行きの強調(開口部の向こうに広がる空間が遠く見通せることにより、距離/空間の巨大さを印象づける)や手前に大きく描かれて視界をふさぐ柱の存在感(重々しいマッスの量感。加えて、柱の左右で異なる質/遠近法的構図の空間を接合する技も)によって壮大なヴィジョンとしてプレゼンテーションされる。

 しかし、サンギーヌによる画面の淡さ、あるいは油彩の画面の典雅な明澄さによって、それらはピラネージの息苦しいほどの量感/圧迫感には到底届かない。ピラネージによる「フランス・アカデミー」(『ローマの景観から』所載)【図2】の延々と彼方まで続く重厚なファサードの連なり(もちろんそれは彼の幻視に過ぎない)。画面内に消失点を持たない極端な遠近法がそそりたつ壁面がマッスとなってこちらに迫り来る量感を、さらに強調している。

 一方、ロベールはさらに画題となるべきモティーフの渉猟を続け、神話的なコンポジションに走っていく。それらは庭園を彩るファブリック(一定の雰囲気を醸し出す装飾のためのエレメント)として、画面を抜け出して実体化していくことにもなる(彼は造園家/庭園設計者としても活躍した)。たとえばチラシに掲載されている「古代遺物の発見者たち」の映画「インディ・ジョーンズ」を思わせる物語的な奇想であり、あるいはエジプト、ギリシア、ローマの彫像のエキゾティックな神話混交的な配置である。なお、後者の感覚は後にルイ16世がヴェルサイユ庭園再整備の一環として、彫像群の再配置をロベールに委ねた際に、新たに設けた人工のグロッタ(洞窟)内部に、既存彫像群の劇的な再構成により「アポロンの帰還」の場面を再現した試みへと活かされているだろう。ちなみにこの業績は高く称えられ、彼は「国王の庭園デザイナー」と呼ばれるまでになった(こうした権力との接近が災いして仏革命時には投獄されてしまうのだが)。

 だが、こうした幻想風景を現出させながらも、たとえば古代ローマが舞台の作品であるのに、そこにはすでに風化した建物やモニュメントの残骸が横たわっているという、死や崩壊への注視、歴史の重層性の感覚が常にあることに注意しよう。プッサン「アルカディアの牧人たち」(ロベールにも同題の作品あり。チラシ参照)で有名となった「我もまたアルカディアにありき」の文言、すなわち「理想の始原郷にもすでに死が存在している」という箴言がそこにはずっと鳴り響いており、それが「廃墟のロベール」の通奏低音となっているのだ。

図1 「ユベール・ロベール-時間の庭-」展案内ちらし


図2 ピラネージ「フランス・アカデミー」(『ローマの景観から』所載)


【追記】
 ユベール・ロベールは、当時は実現に至らなかったもののルーブル美術館の改造案【図3】を油彩で残しており、さらに同時にそれが廃墟化した想像図【図4】を描いている。同様の意趣として、ジョン・ソーンによるバンク・オヴ・イングランド設計に当たり、助手のジョセフ・ガンディがソーンの指示で廃墟図を描いた事例があるが、できればこの2作品も、今回実物を見てみたかった。

   
 図3 ルーブルのグランド・      図4 廃墟化したルーブルの
   ギャラリー改造計画案      グランド・ギャラリーの想像図

※「ユベール・ロベール-時間の庭-」展の構成
 http://www.tokyo-np.co.jp/event/bi/robert/kousei.html
※同出品リスト
 http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/pdf/120301_hubert_robert_list.pdf


2.「ピラネージ『牢獄』」展

 ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(Giovanni Battista Piranesi)の銅版画(エッチング及びエングレーヴィング)作品集『牢獄』の第1版と第2版に所載の全作品(14+16=30点)を展示したもの。この第2版は、ピラネージが自ら制作・出版したもので、新作2点の追加のみならず、ほぼ全作品に多くの改変を加えていることが知られている。その相違を比較対照しながら見ることの出来るまたとない機会。

 全般的な傾向としては、より素描的で空間の多い第1版に比べ、第2版は陰影が濃く、全体が暗く重いばかりか、新たな構築物やオブジェ、モニュメント等が描き加えられ、空間はさらに錯綜を極めている。もともと、暗く冷たい強迫的な閉塞空間として「牢獄」が舞台に選ばれ、そこに奇怪なオブジェ群が配置されていくわけだが、同じく閉ざされた空間に様々な珍奇なオブジェが配列されていくヴンダーカマー(Wunderkammer=独語で「驚異の部屋」)【図5~7】と呼ばれる博物誌的な収集空間(高山宏や荒俣宏がよく採りあげるところの)と次の2点において異なっている。

 まずピラネージ『牢獄』においては、それがそそりたつ巨大な壁、何層にも渡る階段、空間を浸食する圧倒的な強度の闇といった、メガロマニアックな空間構築に向け、幻視的想像力がとりわけ垂直方向に駆使されている点である(『牢獄』の各作品も本の版型/装丁もあってほとんどすべてがタテ構図)。ヴンダーカマーの図版は部屋の広さや展示空間の奥行きなど、せいぜい水平方向にとどまり、闇などない透明極まりない空間である。もうひとつは、少なくとも図版に残されているヴンダーカマーは、その驚異を一望の下にさらすため、まさにミシェル・フーコー言うところのタブロー(表)の空間を現出させている。それは分類体型や進化系統への認識の有無の問題ではなく、様々な事物が混沌と隙間なく、だが、ある意味整然と均等に並べられている‥ということだ。これは閲覧の便宜を考えれば当然のことであるし、体系の構築のための網羅ではなく、客に見せびらかしたいがゆえの奇物コレクションであればこそ、当然のことと言えるだろう。これに対し、ピラネージ『牢獄』の空間は、後で詳しく見るように、2次元のタブローになど展開しようもない(いや3次元空間ですら完遂しかねる)驚くべき錯綜空間にほかならない。

  
図5~7 〈表(タブロー)〉の空間としてのヴンダーカマー(驚異の部屋)


 実際に第1版と第2版を比較対照しながら見ていくとしよう。対象としては写真を入手できた「煙を噴く火」、「跳橋」、「鎖のある迫持台」の3点とする(2点目は第2版のみ検討する)。

 まずは「煙を噴く火」から見てみよう。まず全体の印象として、第1版【図8】に比べ第2版【図9】はさらに細部が克明に描き込まれ、また陰影がその濃さを増し、画面/空間の閉塞感/圧迫感を強めている。さらに細部に眼を凝らすならば、構造物としては中央の大きな柱の手前と向こうをつなぐブリッジとその上に並行して張られたライン、右下のアーチ部分に見えるはしごやロープ、鎖をかける梁のようなもの、また、オブジェとしては、右下隅の拷問具(?)や左手前下から中央下にかけて配置された砲弾型の物体(錘のように見える)等が新規に追加されていることに気がつくだろう。これらの構造物やオブジェは先に指摘した画面全体の陰鬱化に貢献するだけでなく、描かれた空間の性質を変えてしまっている。

 第1版では、空間は2層の直交するアーチで構成されており、2層目アーチの右の開口部からは、おそらくは牢獄の外部にあるだろう尖塔のようなものがうっすらと一部を覗かせている。しかし、第2版では、前述のブリッジにより2層目の空間はさらに垂直に2つの部分に分断されてしまう(第1版でもうっすらとした線が階層を暗示してはいるが実体化していない)。もともと奥の壁は画面内に遠近法上の消失点を持たず、視界を塞ぐようにそそり立ち、両側にどこまでも際限なく続いているように見える。この画面をとらえた視点の背後にあるはずの壁も同様と考えれば、奥の壁、中央の柱の列、視点の背後の壁にそれぞれ仕切られた2つの細長い空間が浮かんでくる。第1版ではこれが上下2層に別れてはいるが、2層目は床があるわけではないので、視点さえ変えれば、広大な空間を、あるいは外部をすら見通すことが出来るだろう。しかし、第2版では、画面手前と奥を結ぶブリッジが描き込まれ、空間はタテヨコに仕切られ、見通しを失って稠密化し、外部もまた消去されてしまう。

    
【図8】「煙を噴く火」第1版  【図9】「煙を噴く火」第2版

 ブリッジの新設により、単に仕切りがひとつ増えたというだけでなく、眼前に立ちはだかる「向こう」の壁と不可視の「こちら(実際には背後の)」の壁が接続されることが重要である。この作品に限らず『牢獄』の第1版と第2版の相違を検証していくと、新たに描き加えられているのは、アーチ、ブリッジ、橋げた(その他構造物の支えとなるべきカンティレバー)、階段、柱、窓の格子、そしてロープや鎖、植物の蔓等、空間を貫通あるいは横断しながら、水平あるいは垂直に「向こう」の空間と「こちら」の空間を、新たに(それまでには描き込まれていなかったかたちで)接合させるものばかりであることに気づかされる。

 繰り返しになるが、ピラネージ『牢獄』においては、閉塞感を強調するため、立ちはだかる向こう側の壁が画面内に消失点を持たない(すなわち奥を見通すことのできない)、極端に偏ったパースペクティヴが採用されている。にもかかわらず、細部まで克明に描き込まれた付属的構築物やオブジェ類は、そこから立体的に浮かび上がる。偏ったパースペクティヴに従属して、不自然に歪んだ姿形を見せることはない。それらの事物が自然な「見え」で浮かび上がるのは、それらが濃い陰影により自らを周囲から孤立させつつ、各々固有のパースペクティヴを確保しているからにほかならない。私たちが何かを見る時、その「見え」は暗黙の前提としての(無意識に設定されてしまう)パースペクティヴに拠っている。言わばピラネージ『牢獄』の空間は、そうした個別の事物がそれぞれに持つ固有のパースペクティヴのモザイクなのだ。

 異なる視点からとらえた空間/見えのモザイクと言えば、すぐにピカソやブラックが探求した分析的キュビスムによる作品が思い出されよう【図10】。あれは多視点からの立体の「見え」を切子状の面として、画面(=平面)上で接合したものだった。そこでは各断片の切断/接合面が切子の辺として明瞭に浮かび上がる。しかし、ピラネージ『牢獄』においては、モザイクの各断片の切断/接合面は明らかにされない。前述のように個々の事物は互いに切り離され、孤立した状態で陰影から浮かび上がる。そして分析的キュビスムにおいては、個々の切子面を統合するのは(作成者の意図/配置と)対象の一体性だけであり、それ以外に各断片を結びつけるものはない。しかし、ピラネージ『牢獄』の場合、先に掲げたアーチやブリッジ、階段からロープや鎖等に至る範列が、まさに離れた事物/空間同士を結びつけるのである。これにより、実際の3次元空間では実現不可能なねじれた空間構築が生じ得ることになる。
 遠近法上異なるパースペクティヴを事物間の結び付けにより撹乱した例として、ホガースのだまし絵【図11】を挙げておこう。

    
図10 パブロ・ピカソ    図11 ウィリアム・ホガース
「カーンワイラーの肖像」  「誤った遠近法」

 このように異なる質の空間の断片を結びつけ、モザイク上に構成された空間に不整合やねじれを生じさせた顕著な例として「跳橋」【図12】を挙げることができる。ここでは「向こう」と「こちら」の壁の間の吹き抜け状の空間自体がねじれて分裂を来しているだけでなく、「向こう」の壁自体も確固たる輪郭/面を持たず、波打つように歪んでいるように見える。そこで中空に漂う跳橋は、まるで大地震に引きちぎられた鉄筋のように所在無い姿をさらしている。


 図12 「跳橋」第2版

 最後に変わった変更の例を挙げておこう。『牢獄』の最後の図版である「鎖のある迫持台」は、全編中最も改変の著しい一葉だが、わけても第1版【図13】の中央下部分に見られる階段を降りる2つの人影が、第2版【図14】ではデスマスク(?)入りのモニュメントに取って替わられている。その他にもモニュメントから伸びるパイプ状の構造物やら、その奥に描き込まれた上に何も載っていない装飾的な柱やら、古代ローマ的なエレメントが縦横に詰め込まれ、空間は錯綜の極みに達している。

    
図13 「鎖のある迫持台」第1版   図14 「鎖のある迫持台」第2版

※「ピラネージ『牢獄』」展出品リスト
 http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/pdf/piranesi2012_list.pdf


3.ピラネージ『牢獄』の視点で世界を見詰めるレッスン



図15 冬のある晴れた日の新宿
     【撮影:原田正夫】

 まず、上の写真【図15】をご覧いただきたい。これは私のブログにもよくご登場いただく原田正夫氏(月光茶房店主)が今年2月27日に、「すごく乾燥していて、しかも強い北風がスモッグを吹き飛ばしたのか、見たことがないくらい遠くまで見渡せる日だったので、その覚えとして」撮影した新宿の写真である。JR山手線で新宿近辺を通りかかったことのある方なら、「ああ、あそこだ」とすぐにわかってしまう風景だ。これを「ああ、あそこだ」と合点してしまわず、すなわち確認/想起のモードに移行してしまわずに、「見ること」にとどまってみたい。ティエリー・ド・デューヴは『芸術の名において』において、火星から来た人類学者として「芸術」をとらえる思考実験を行っているが、ちょうどあんな感じで(コントとかでは「○○の体(てい)で‥」ってよく言いますね)。

 この写真を見る者が日本語を解さなければ、あるいは日本語がわかったとしても、周囲の風景との調和を破壊するようなけばけばしい原色が、屋外広告物(看板)だとわからなければ、赤や緑のアコムやレイク、エスパス日拓の広告看板がいったい何であるのか、きっとわからないだろう。この写真には道路が写っていないので、建築物の向きもわかりにくい。どこが正面かと探しても、日本特有の細長いペンシルビルは「ファサード」の感覚がほとんどないし、ましてや屋上広告以外に建物に取り付けられた広告看板や幕の存在が、建物の輪郭をますます不分明にしてしまう。実際のところ、これを見慣れた風景だと感じている私でさえ、広告の境界線と建物の境界線の関係はよくわからない。こうした風景を初めて見る者にとっては、街路に沿って並ぶ建物の列があり、それに屋外広告群が一種の皮膜としてオーヴァーラップしているようにはとても見えず、ただ、青い空の下に、商業サイトのポップアップ広告のような原色だけが「図」として浮かび上がり、ところどころに無機質な白やグレーが(「地」として?)覗いているようにしか見えないのではないだろうか。もちろん部分部分は(屋外広告がその目的を果たすために強化されたアイキャッチ力によって)痛いほどの強さで眼に飛び込んでくる。しかし、それらが全体として像を結ぶことはないだろう。まさに異なるパースペクティヴの断片を組み合わせたモザイクだ。ピラネージ『牢獄』との違いは、陰影/陰鬱さを徹底的に欠いている点だろう。晴れた日の昼間の新宿は、まるでラスヴェガスのような蜃気楼都市なのか。

 さらにもうひとつ。画面は下部を水平に走る緑色の線と、それ並行する何本もの黒い細い線、さらにそれらと斜めに交わるグレーあるいは銀色の太い線で仕切られている。形態の連続性からして、先ほど見た原色群よりも、これらの線が手前にあることは確実だが、それらがJRの線路(のガード)やこれに付属する電線、さらに線路をまたぐゲートのような形態の構築物であることがわからなければ、これらの線と写真に写っている空間の関係には首をひねることになるだろう。おそらくレンズの焦点距離のせいで、画面は手前から奥までピントの合ったパンフォーカスであり、そこから奥行きを判断することは難しい。前後が圧縮されて、ひとつの平面にたたみ込まれることにより、これらの線、とりわけ最後に挙げた斜めに交わる線は、ピラネージ『牢獄』の跳橋等のブリッジや階段、鎖やロープと同じ効果を発揮することとなる。

 異なるパースペクティヴのモザイクが、各断片を貫き接合する〈斜線〉により、切り離され、結び付けられる。遠近法的構図の撹乱、空間のヘテロトピアは、我々のすぐそばにいつも存在している。我々はふだんからそれらを眼にしながら、注視せずにやり過ごし、あるいは自らに都合よく、無意識に辻褄を合わせている(改竄している)だけなのだ。風景写真やフィールドレコーディングは、そうした裂け目をこそ明らかにしてしまうだろう。



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アート | 16:46:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
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