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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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正弦波が描き出してしまう〈風景〉-Lucio Capece『zero plus zero』を聴く  Sinewaves End Up Drawing "Soundscapes" - Listening to Lucio Capece / zero plus zero
【前口上】
 Lucio Capece / zero plus zeroについては少しじっくり考えてみようと思い、ディスク・レヴューの7枚から外して、別枠でレヴューを掲載することにした。こうした話題に関連して、ちょうど触れたかった作品が他にもあったし。
 Lucio Capeceに関しては、『Berlin Buenos Aires Quintet』(l'innomable)やRadu Malfattiとのデュオによる『Berlinerstrasse 20』(b-boim)等で聴いていた。前者では気息音の使用や倍音の重視など、微細な音色に着目したエレクトロ・アコースティック志向の演奏を見せ、後者では長い沈黙を挿みながら、Malfattiの息音(ほとんど「息漏れ」の印象)と重ね合わされ対比されるべき純音(正弦波)的な音色をバス・クラリネットから引き出す演奏を行っていた。共に最近の即興演奏周辺ではよく見られる方向性であって、それゆえ彼に対してこれまで特別な印象も評価も持っていなかった。しかし、今回の『zero plus zero』(Potlatch)は、そうしたこれまでの方向性をさらに純化させながら、演奏楽器等のアプローチを拡張しつつ、ターゲットは理詰めに絞り込んだ意欲作にして注目作と言えるだろう。Potlatchレーベルの厳選したリリースと鋭い問題提起ぶりも評価したい。
 本作について考えてみるきっかけを与えてくれた多田雅範(※)に感謝したい。
 ※http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20120413 参照。



Lucio Capece / zero plus zero
Potlatch P112
Lucio Capece(sruti box,soprano saxophone with applied objects used as preparations, double plugged equalizer,ring modulator,bass clarinet neck,cassete walkman,minidisc walkman,tuned backyard recorded through cardboard tubes of differing dimensions,sine waves,bass clarinet with and without cardboard tubes)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=15976

【楽曲/演奏楽器解説】

 彼の演奏している楽曲/楽器・音源について若干の解説を付しておく。なお、本項の執筆にあたってはLucio Capece自身によるテクスト(*)を参照した。
*http://www.luciocapece.blogspot.jp/

 まず、彼によれば、「zero plus zero」は次の4部構成の演奏によるソロ・ピースである。
  ①シュルティ・ボックス
  ②ソプラノ・サキソフォン及びプリパレーション
  ③アナログ・エレクトロニクス
  ④バス・クラリネット及びプリパレーション
 シュルティ・ボックスは鍵盤のないハーモニウム様で、リードのある空気穴を開閉することで音程/倍音を操作できるインド楽器。ソプラノ・サキソフォンはカーヴのあるものを用いており、プリパレーションとしてベルの中にオブジェを挿入するほか、各部に振動するものを取り付けているようだ。これはバス・クラリネットのプリパレーションも同様である。DPイコライザーは別の箇所で「入力無しのイコライザー」との表記があるので、中村としまるが演奏している「入力無しのミキサー」と同様の原理で音を出すものと考えられる。cardboard tubesは下に掲載した演奏風景の写真から、文字通り「硬いボール紙製の筒」と判断される。様々な口径/長さの筒を介することにより、録音の際に固有の共鳴が加わって、特定の音域が強調されたり、マスキングされたり、エコーが付されることになるだろう。そのことを踏まえれば、tuned backyard recorded through...はこのようにして録音された周囲の音(背景となる環境ノイズ)と考えてよいだろう。


cardboard tubeを操るLucio Capece


■zero plus zero=0+0

 本作で採りあげられている主な音源は、正弦波それ自体とシュルティ・ボックス、アナログ・エレクトロニクス、ボール紙の管等によりプリペアされたソプラノ・サキソフォンやバス・クラリネットであり、そこから生ずるサウンドは最初から正弦波に近い響きと微細で多様な付随音(倍音を含む)に限定されている。表題の『zero plus zero』とはこのことの「絵解き」ではあるまいか。ただし、本作はそうした音素材の限定の段階で完了してしまっている(演奏は付け足しの余禄に過ぎないような)出オチ一発ネタのコンセプチュアル・アートではなく、まさに音に耳を傾けること求めている。


■5. Spectrum of One / 6. Inside the outside Ⅲ

 正弦波だけで構成された「初めて宇宙から撮影した地球の写真50周年記念」と副題された5曲目「Spectrum of One」(ここで「one」は「oneness」あるいは「unity」等の含みを暗示していよう)が本作の「零度」に位置する(この曲は最初の楽曲解説に記した「zero plus zero」のもともとの構成に含まれていない)。すなわち〈zero plus zero〉の第1項である。そうした構成上の必要性から置かれたトラックということもあって、他のトラックのような魅惑的細部を持たない(それゆえ5分程度で早々と終了してしまう)。様々な音程の正弦波音が空っぽの空間に去来するだけの真空的な時間は、確かに「宇宙から見た地球」、すなわち空気のないところで眺められた風景の滲みのないきっぱりとした輪郭と、その孤独な寄る辺無さを感じさせるところがある。しかし、これは響きに対する大雑把な、それゆえ叙情的な印象に過ぎない。ここで鳴っている音に改めて耳を傾けるならば、本来なら一切の倍音を持たないはずの正弦波が、実際の空間においては、発音/空間への放射/録音・再生の各プロセスで、ルーム・アコースティックや電子回路の影響を受け、様々な付随音を伴うことにより、あえかな風景を描き出してしまっていることに気付くだろう。このトラックでは各音10秒程度と持続が短いことあり、とりわけ低い音域の正弦波がそれだけ倍音を生じてしまいやすく、バス・クラリネットに似た音色を示している。その結果、このトラックの終了後、ほとんど間を置かずに次の「Inside the outside Ⅲ」が始まり、冒頭のバス・クラリネットの音色が鳴り響くと、正弦波にごうごうと風が唸るような「鳴り」を加わっていることが驚くほど鮮やかに(ほとんど手触れるほどに)浮かび上がる仕掛けになっている。ここで2項目の〈zero〉が確かに値を有しているのだ。
 バス・クラリネットのごうごうとした響きは、チューブによる効果だろう、幾つかの突出する部分音を持つように感じられる。最低域のウワンウワンとしたうなり、上層に浮かぶ息のかすれ、真ん中の音域のウェストを絞り込んだようなぼうっとした間歇的な広がりと、その少し下の音域の腹に響く動物的な力強さ。〈zero plus zero〉を聴き取るべく、そこに焦点を合わせた耳は、本来ひとつのヴォイスであるべき楽器の響きを解体してしまう。もちろんそれが彼の狙いなのだろう。ここで風景はそうした解体された各部分の関係性/対比の中に現れてくる。
 通常の音楽アンサンブルは複数の楽器の音を溶け合わせることを主眼とする。ここで働いているのは、それとは反対方向のモーメントだ。音が音楽/楽曲というより、空間に振り撒かれた点景の集積、あるいはそれらが編み上げる移りゆく風景として、立ち現れるのはそうした理由によるだろう。強調された部分音/互いに切り離された点景が、多くの場合異なる周期で巡りながら、おぼろに重ねあわされる。耳はそこに様々なリズムで作動する機械仕掛けの寄り集まりを聴き取り、町工場を覗いた時や、あるいは(飛躍に聞こえるかもしれないが)自分の身体の内部に耳を澄ました時の響きを思い浮かべる。
 揺ぎ無い構築に向け組織されるのではなく、ゆっくりとほぐれ、はらはらと崩れ落ちながら、ゆるやかに編み上げられる焦点のおぼろな風景。多田雅範が本作に鋭敏に感じ取った「心地よさ」(そこに私はどうしても「懐かしさ」を読み取ってしまう)の源泉は、こうしたところにあるだろう。


■1. Some more upward uncertainly / 2. Zero plus zero / 3. Inside the outside Ⅰ

 冒頭の「Some more upward uncertainly」におけるシュルティ・ボックスのアコーディオンや足踏みオルガン、そしてもちろん重ねあわされた正弦波に似た音色とそれぞれの音域でウワンウワンと反響しながら伸び縮みする響き。リードの不安定な揺らぎがもたらす風のうなり。様々な音程がぶつかりあう際のざらざらとした軋み。〈zero plus zero〉を聴き取らぬ耳には、単に瞑想的な単一のドローンと聞こえてしまうかもしれないミクロな風景の生成。
 続く「Zero plus zero」と「Inside the outside Ⅰ」は一聴して多種多様な音源によって構成されていることがわかるだろう。
 前者では緩やかな金属質の回転音の揺らめきに、時折それより速いピッチのより輪郭のはっきりしたやはり金属質の摩擦音や震えが重なり、ソプラノ・サキソフォンのぼーっとした管の鳴りとそこに付随する墨の滲みのような複数の層から成る共鳴、息音(シューという滑らかな音からブツブツザワザワと粒だったざわめきまで)、さらには息音を様々な比率で含むリード音等と混じりあい、互いに干渉しあう。
 後者はシュルティ・ボックスの重ね合わせで始まるが、間合いを置いて音が発せられるために、ずらしながら重ねられた冒頭曲とは異なり、立ち上がりの不揃いさ(音が立ち上がる瞬間の様々なパラメーターの素早い推移による音の揺らぎ)や、他の音が止んで残された響きのゆっくりとしたコマの軸のようなブレ(あるいはダイナモのうなり)が印象に残る。そこにさらにぬるぬるとウナギのようにとらえどころがなく、変化し続ける不安定な音色の管の吹奏音(クレジットによればバス・クラリネットのネックか?)が重ねられることにより、墨の滲みに似た、質感が連続して濃淡の分布だけが異なる不定形の広がりが現れ、その度に形を変えていく。
 これらの曲で共通に浮かび上がってくるのは、触覚的要素を伴ったミクロな風景であり、それは同一の発音原理/動作から分岐して異なった音域/周期/音色を持つサウンドの切れ端/点景の集積が、さらに複数重ねあわされることによって構成されている。


■4. Inside the outside Ⅱ

 アナログ・エレクトロニクスが前面に押し出された演奏であり、ブザー音のように強烈で不透明な粘性を持った電子音が視界を塞ぐ。小刻みに震え、モジュレートされてのったりとうねり、あるいは希薄に引き延ばされ、溶けたゴムのように流れ落ち、かきまぜられてゆっくりと螺旋を描くゼリーのような手触り。だが、そうしたなかにも、表面の「照り」が分離したような持続する高域成分や、奥の方で作動する機械音、さらには後から加えられる蝉時雨のようなノイズ(さらにそこから鈴虫の鳴き声のような高音が分離するように聞こえる)が風景を編み上げずにはおかない。
 そうした電子音がふと止むと、ボール紙の筒を通して録音された環境音が現れる(一瞬、それを隠していた覆いが取り除かれたように感じる)。だが、それは奇妙に歪んでいる。鍵穴から覗いたような視界の暗さと焦点の合わなさ、ぼけた輪郭、視界の明度を落とすぼーっとした「鳴り」。そこには同じボール紙の筒でプリペアされたバス・クラリネットの、あの「ごーっ」とした鳴りが微かにこだましている。
 そして、暗く輪郭の不確かな世界が映画のアイリスのように閉じると、何もない中空にふと現れ、何事もなかったように消えてしまう正弦波音が短い間を置いて提示される(5. Spectrum of One)。そこには、先ほどまでのもやもやとしたざわめき/ゆらめきが映っているようにふと感じられる。


■ノイズの中のピッチ/ピッチの中のノイズ

 「ここ何年かの音に関する経験から、ノイズの中に隠れたピッチを、ピッチのある音にたまたま伴ってしまうノイズを発見することを楽しむようになった」とLucio Capeceは書いている。それは共演者を見つける時のことの隠喩にもなっていると。「深く共通性のある(deep common)アイデアに基づいていながら、人とは異なった風景の中にある。ことなるやり方で、でも同じく本質的な側面を取り扱っている。」そして、注意深く耳を傾けるなら、必ず二つの要素(ピッチとノイズ)を互いの中に聴き取ることができる、それがこの作品の原理であると。その意味では〈zero plus zero〉の各項はピッチとノイズであると言うこともできよう。
 だが、私たちがこうした音を聴く場合、響きに耳を傾け、物音に注意を払う時、ピッチとノイズの二分法に従っているわけではない。むしろ触覚的なものを含んだ音色のマチエールによって描き出された風景を見ているのではないか。ある特定の音色/響きにより、一定の(不定形の)広がりや微小面の集積を伴ったマッスが提示され、あるいは輪郭や境界等を描き出す手触りのある線が浮かび上がる。
 私たちの耳は何よりも「警戒」のためにあり、聴覚は発音体の所在(方角と距離)を定位し、それが何であるか(自らに危険を及ぼすものか)を判別することに努める。そうした感覚にもともと備わっている向性を抑制して音楽に耳を傾ける時でも、楽器や演奏者の判別/特定に注意が向かいがちである。そのことが演奏者(作曲者)の意図を探る聴き方と結びつく。音をそれ自体として聴くことは難しい。厳密には不可能なのだろう。けれども、そこに〈風景〉(あるいは響き/アンビエンス)という媒介項を設けることにより、個別の要素の特定とそれらの意図に基づいた体系的構築という「耳の枠」(それは「耳の宿命的な病」と言ってもよいかもしれない)から、少しだけ自由になれるのではないだろうか。


■参考作品

 本作との関連で、最近耳にした中から類似した景色(まあ「正弦波」的な電子音とその周辺というか)の広がるLINEレーベルの作品を3点挙げておこう。もちろん関連や類似は私の個人的な感覚に基づく判断であり、各プロジェクト自体につながりがあるわけではない。

Seth Cluett / Objects of Memory
LINE LINE_048
試聴:http://www.lineimprint.com/editions/cd/line_048/
 笙の音色をさらに引き延ばして平坦な響きだけを残し、楽器音の断片が、蒸らしている最中の紅茶の茶葉のように、ゆっくりと浮き沈みする。胸のうちでゆっくり膨らんでいく不安にも似た電子音のたゆたい。震える持続音(冷蔵庫のコンプレッサーのような)の重ね合わせ(次第に空間に染みこんでひとつになる)、鉱物標本を打ち合わせているようなカチカチという乾いた物音、僅かにひゅうひゅうと鳴る空気の動き。昼前の空に取り残されたおぼろな月のようにぼんやりと宙に浮かぶ正弦波、どこかでいつも響いている隙間風、微かに耳に触れるハウリングの気配、視界にうっすらとかかるしろい靄。ここには、どこから聞こえてくるとも知れず、ふと気がつくと鳴って/止んでいる夢うつつの響きが吹き寄せられている。Seth Cluettは静止のイリュージョンを目指したと語っている。

Richard Chartier / Transparency (Performance)
LINE LINE_049
試聴:http://www.lineimprint.com/editions/cd/line_049/
物理学者ルドルフ・ケーニヒの制作による692個の音叉を並べ4オクターブ以上に及ぶ音域を持つ「グランド・トノメーター」(米国歴史博物館所蔵)と金属や木製の共鳴体等を用いた作品。叩かれた音叉の響きが長い長い尾を引いて空間に消えていく(高音はまるで口笛のように響く)。柔らかく打たれ続けた音叉は平らかな水面を、同心円を描きながら広げていく。セットされた共鳴体の種類により、様々な色/かたちの響きが浮かびあがり、鏡のように滑らかな面を僅かに乱す。耳ではなく指先で感じ取るべき、暗闇に沈んだ不可視の水面の舞踏。



Steve Roden / Proximities
LINE LINE_052
試聴:http://www.lineimprint.com/editions/cd/line_052/
 陸軍の兵舎を転用/改装したドナルド・ジャッドによるミニマルな金属彫刻(箱を模したミニマルなコンストラクション)の収蔵庫での録音。がらんとした空間に簡素なシンセサイザー(Paia OZ)の音が放たれ、録音される。広大な空間ヴォリュームを満たすほどに音はゆるやかに引き延ばされ、並べられた多くのジャッド作品をわずかに震わせながら、次の音へと受け継がれる(彼自身によるハミングや以前の演奏の再生音もまた空中へと放たれ、先の音やバックグラウンド・ノイズと混じりあう)。陽が射すにつれ、ジャッドの作品をかたちづくる金属板は膨張し、それぞれ歪み、振動して、そこに別の響きを付け加える。ゆらゆらとたちのぼる陽炎の響き。



【補論】正弦波音に押し付けられる象徴的意味合い(oneness / unity)について

 正弦波音が即興的な演奏に用いられることが、近年多くなっている。だがその多くは、正弦波音の持つ象徴的な意味合い(「すべての根源」であるというような)に寄りかかり、あるいはウルトラ・ミニマムであることをそのまま存在理由(レゾン・デートル)としているように思われる(演奏の素材として正弦波を選択した時点で終わってしまっている、演奏の名に値しない「演奏」)。「すべての根源」といったイメージは、フーリエ解析によりあらゆる波形が正弦波の重ね合わせによって表現できることに対する「誤った理解」と言っていいだろう。フーリエ解析は振動波の時間的推移をとらえられない。それは豊かな変化を持つ音を、音程の重ね合わせとしか見なさない。アフォーダンスを提唱したJ.J.ギブソンは『生態学的知覚システム』(東京大学出版会)で純音について次のように述べている(p.100)。

「純音は、推移を無視し、普通、事項的な刺激が与えられたときにのみ経験できる。それは、一定の周波数と振幅に設定された音波発振器を耳から一定の距離に設置し、一定の時間作動することで可能となる。その結果得られるのは、その周波数に対応する音程、その振幅に対応する音量、ある一定の持続時間をもった無意味な感覚作用である。一方、意味のある音は、単に音程や音量、持続時間だけではなく、遥かに精緻に変化する。意味のある音は、単純な持続時間に代わり、始まりと終わりの突然さ、反復、速度、速度の規則性、リズム、その他の微妙な点で変化する。意味のある音は、単純な音程に代わり、音色もしくは音質、音質の組み合わせ、母音の質、ノイズからの距離、ノイズの質のすべてが時間で変化する。意味のある音は、単純な音量ではなく、音量の変化の方向、音量の変化の割合、また、音量の変化の「変化」の割合で変化する。意味のある音は、これらの変数が結びつき、目も眩むほど複雑な高次の変数をもたらす。」

 一方、ミニマル・テクノや音響派的即興演奏における正弦波の使用に注目し、これを顕彰した佐々木敦は『テクノイズ・マテリアリズム』(青土社)で、フーリエ解析の「基本単位」である正弦波の有する特別な「oneness」あるいは「unity」についてシュトックハウゼンの指摘を引用しつつ、次のように述べている(p.64)。

 「シュトックハウゼン(や、ケルン電子音楽スタジオに集った複数の音楽家たち)によって、「作曲=音楽」は「正弦波音」から成るスペクトルの合成」、すなわち「音色」の完全操作にまで還元された。ここには、われわれの論議において、極めて重要な意味が顕れている。先のテクストにおいて、シュトックハウゼンは、ピエール・ブーレーズのピアノ作品に触れつつ、次のように述べている。

 それは一つの音がもつ(電子音楽以前には決して存在したことのない)意義と、個々の音を集合的な音群へ、そして音楽的なかたちへと統合する上位の形式理念のあいだの奇妙な弁証法である。(中略)たったひとつの倍音、あるいはスペクトルからたったひとつの部分音を抜き取ったり付け加えるだけで、全体のサウンドが変容するのである。

 「一つの音」が持つ意義、そしてそれが「電子音楽」の発生以前には決して存在したことがない、ということを、ここでは強調しておこう。」

 ここで佐々木によって引用されたシュトクックハウゼンの文章の原文(「シュトックハウゼン音楽論集」(現代思潮社)p.42)に当たればすぐにわかるのだが,シュトックハウゼンはここで正弦波音に対して「一つの音」という語を用いているのではない。単にブーレーズ作曲による二台のピアノのための「構造」の統計的な形式基準が揺ぎ無いものであることを指摘するために、多くの音の中のどの一つの音も‥という意味で「一つの音」という言葉を用いているに過ぎない。それは正弦波を指し示しもしなければ、「oneness」や「unity」といった特殊な含みも持たない。だいたい、シュトックハウゼンは正弦波音を単独では評価したり、そこに象徴的な意味合いを見出したりはしておらず、同じ著作の中で次のように素っ気なく語っている(p.50)。正弦波音に「oneness」や「unity」を見出すシュトックハウゼン師の有難いご託宣は存在しない。

 「正弦波音は周波数ジェネレーターによって任意の音高、持続、強度において生成できる。単一の正弦波音はだいたいフルートの音のように響く。そういえばフルートの音は楽器のなかでも最も倍音の乏しい音である。」

 にもかかわらず、佐々木は次のように正弦波音の使用/聴取を特権化する(p.70)。

 「ありとあらゆる「音楽」と「音響」の根底を成す「最小単位」を、そのままの形で切り出して、現実に聴くことが出来るようになったばかりでなく、それを可塑的な物質のエレメントのようなものとして、具体的に扱い、あまつさえ加工することさえも可能になった、という事実は、もっと驚くべきことなのではないか?・・・・
 つまるところそれは、「一つの音」を可能足らしめる「正弦波音」というもの、それ自体を、紛れもない「音楽」として聴取するということのラジカリズムである。そして、そのラジカリズムが、思いも寄らぬ形で息を吹き返したのが、他ならぬ「ミニマル・テクノ」と更にそれ「以後」の展開だと言えはしまいか?」

 こうした根拠付けを、先に指摘した「演奏の素材として正弦波を選択した時点で終わってしまっている、演奏の名に値しない『演奏』」を擁護する理屈の典型ととらえることができよう。


         
        佐々木敦      カールハインツ・シュトックハウゼン
  「テクノイズ・マテリアリズム」  「シュトックハウゼン音楽論集」
         青土社              現代思潮社
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