■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

流動化された音響-橋爪亮督グループ『Acoustic Fluid』ディスク・レヴュー-  Fluidized Acoustic-Disk Review for Ryosuke Hashizume Group "Acoustic Fluid"-
 音楽批評サイト「com-post」において、注目作と言うべき橋爪亮督グループ『Acoustic Fluid』が8人の評者(※)によりクロス・レヴューされている。複数の耳の〈視点〉から演奏/作品を照らし出し、そこで繰り広げられている音楽の在り様にある像を結ばせることの重要性については、これまでも指摘してきた。クロス・レヴューはそうした試みのひとつであり、今後、ますます重要になってくるだろう。誰でもが自由に発言を発信することができるウェブ環境の整備が、一見、そうした複数の視点を確保するかに見えて、実は「コピペ」の増殖や「つぶやき」への条件反射的なうなずきにより、視点/思考の単一化がなし崩しに進んでいる現在であればこそ。
 今回はクロス・レヴューの意味合いにも触れながら、『Acoustic Fluid』についてレヴューすることにしてみたい(*)。
※http://com-post.jp/index.php?itemid=611
 後藤雅洋、須藤克治、柳樂光隆、八田真行、林建紀、原田和典、益子博之、村井康司【掲載順】
*多田雅範が音楽批評サイトJazz Tokyoに本作のディスク・レヴューを掲載するとともに、自身のブログで今回の「com-post」クロス・レヴューについてコメントしている。ぜひ参照されたい。
 Jazz Tokyo
http://www.jazztokyo.com/five/five905.html
Niseko-Rossy Pie-Pikoe Review @ Tokyo
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20120520

ACOUSTIC FLUID 
RYOSUKE HASHIZUME GROUP

1. Current
2. Last Moon Nearly Full
3. Conversations with Moore
4. The Last Day of Summer
5. 十五夜
6. Slumber
7. The Color of Silence
8. Journey
                    9. Home

 橋爪亮督 Ryosuke Hashizume (tenor sax, effects)
 市野元彦 Motohiko Ichino (guitar, effects)
 織原良次 Ryoji Orihara (fretless bass)
 橋本学  Manabu Hashimoto (drums, percussion)
 佐藤浩一 Koichi Sato(piano on 2, 3, 8)




1.ディスク・レヴューへの視座

 クロス・レヴューのもうひとつの利点として、複数のレヴューを並べることにより、ディスク・レヴューに対する様々なアプローチを一覧できることが挙げられる。「com-post」の最近のクロス・レヴューではRobert Glasper Experiment『Black Radio』、Esperanza Spalding『Radio Music Society』とジャンル横断的かつ比較的「売れ線」の作品が採りあげられたため、ジャンルの力学を踏まえながら、「一般の」聴き手の受容を「社会学的」に解読してみせる評が多かったように思う。「マス」を意識したマーケティング的アプローチと言えようか。ジャンルを代表する著名な先行作品をリファレンスとして掲げやすいやり方でもある。そこでは「一般の」聴き手との一定の情報の共有(それはメディアへの露出量や売り上げ予測と深く関わっているわけだが)を前提としながら、彼らとミュージシャンの間を評者が結ぶとことが目指されている。

 だが、こうしたアプローチ(むしろ「王道」と言った方がいいかもしれない)は本当に有効なのだろうか。まず、複数のジャンルにまたがることはもはや当たり前であり、そのことだけをもって作品を価値付けることはできない。ジャンルへの純化(根源への下降)もまたその裏返しでしかない。そして何よりも、こうした評は論述に都合の良いリファレンスやキーワードを立てることによって、音/演奏そのものと向かい合うことを安易に回避してしまいがちであるように思う。最初に言葉への置き換えがあり、後はただ言葉だけが変奏され、テーマが繰り返される。置き換えの完了した言葉は、再び音/演奏とあいまみえることなく、綴られた文章が本当に聴取の体験を支え得るものなのか、改めて問われることがない。

 蓮實重彦は映画が「瞳を不意撃ちする」瞬間について語ったが、聴取の体験もまた「耳が不意撃ちされる瞬間」に満ちていなければならない。よく「批評とは作品をダシにして自分を語ることだ」と言われるが、それはこうしたかけがえのない自らの体験が根底にあり、それと測りあうべく言葉がせめぎ合うことが前提である。そのことが読み手を触発し、聴くことを誘い促す。「耳が不意撃ちされる瞬間」と無縁なマーケティング的アプローチは、結局のところ象徴的消費やあらかじめ仕入れた情報の確認しかもたらしはしない。

 そして本作の場合、現代日本ジャズの自主レーベル作品であることから、前述の「一定の情報の共有」が果たせず、リファレンスやキーワードを採用すること自体、かなり強引な絵解きによる既存の音楽ジャンルへの領属化に終わるだろう。つまりは評者の持つ〈ジャズ〉のイメージ次第となりやすい。その点、後藤雅洋によるレヴューの「在らず在らず」のディスクールは、そうしたリファレンスの不在/不能を正直に告白していると言えよう。


2.流動する〈抽象〉

 この演奏が聴く者の耳を不意撃ちするのは、何よりもその響きにおいてである。橋爪の奏するテナー・サックスならば、リードの震えだけでなく、息の粒立ちや管各部の鳴りが、市野元彦のギターならばアタックの不均衡や弦の揺らぎが、折り重なる音色のレイヤーとなって響きを希薄に複層化し、輪郭を複線化して、織物にも似た触覚的な肌理をつくりだす(エッジを強調し、輪郭線の中を単色で塗りつぶした、まるでライトアップしたようなグラマラスなサウンドと比べてみること)。グループのアンサンブルはこうした一音に込められたテクスチャーを、さらに拡張したものと言えるだろう。

 耳の焦点を響きの次元に合わせてサウンドを解き放ち、余白へと広がるにじみが溶け合わさって、そこここで新たな色彩を芽吹かせる。かすれた筆の跡が、点々と振り撒かれた飛沫が、ゆったりとしたサウンドのたゆたいを刺し貫く思いがけぬ速度を伝える。Fluid=流体と題される通り、ここには冷たく透き通った素早い流れがある。眼には見えず、響きに浸した指先でしか感じ取れないような乱流/分岐/層流/渦/複数の異なる速度。ここで触覚的とはただ指先に触れるザラザラやブツブツではない。運動/変化そのものである。ナウシカが自在に読み取った眼に見えぬ〈風〉のような。

 響きの次元への集中は、サウンドを〈声〉から遠ざけているかもしれない。演奏は驚くほどメロディアスでありながら温度感は低く、肉声の厚み/重さを経ることなく、旋律が空間に直接描き込まれるように感じられる。そこには繊細に彫琢された〈抽象〉の力がある。と言っても、幾何学的とか構造的ということではない。ここで〈抽象〉とは、演奏者の意図や身体の運動、そうした軌跡や痕跡から切断された(離れた)自立した強度を指す。そうした〈抽象〉の手触りは、CDジャケットに掲げられた原田正夫の作品がよく表している。眼に見えるもののかたちから切り離されて再構成されたフォルムの、はらはらとした淡さときっぱりとした力強さ。演奏に自分語り(「俺は〇〇だゼ」)や楽器語り(「俺はテナーを吹いているゼ」)を求める耳には、とらえどころなく「散漫」に聞こえるかもしれない。しかし、それはやはり、こうした演奏の核心に耳が届いていないと言うべきだろう。


3.ECM/NY

 ECMレーベルの作品におけるグループ・サウンドのあり方が、ひとつのモデルとして設定/参照されるのはこの後である。響きに耳の焦点を合わせ、音色を複層化し、余白へのにじみ、空間へのたゆたいを見詰めながら、〈抽象〉の力にすべてを賭ける。そのための手法として、ECMが有する〈ジャズ〉への距離感、冷ややかな色調設定、響きを活かすための音の絞込み、空間を浮かび上がらせるための時間軸のコントロール(リズムの微分的な緩急/粗密の配分により、夏の日のいつまでも明るい夕暮れのように、どこまでも引き延ばされていく時間)等が参照されていよう。もちろん、ここでのグループ演奏/サウンドがヤン・ガルバレク、テリエ・リプダル、ライナー・ブリューニングハウス、エバーハルト・ウェーバー、ヨン・クリステンセン、あるいはパット・メセニーやライル・メイズ等の強い影響下にあることは事実だろう。しかし彼らは「まず形をまねる」ことから入ってはいない。そのようにすべてをモデルに頼る仕方は耳の網目を粗くする。「何を演奏すべきか」を徹底的に突き詰め、「いかに演奏すべきか」のモデルを広範に渉猟する中で、耳は鋭くまた細やかに研ぎ澄まされていったことだろう。

 ECMと同時に、NYダウンタウンの先鋭的なジャズ・シーンが参照されていることも間違いない。こちらはまさに同時代の展開であり、橋爪や市野が短期間とは言えシーンに参加し、生で体験していることを考えれば、時間的な前後関係、あるいはオリジナル/コピーの対比が前提となりがちな「参照」よりも、「同時的発生」ととらえるべきかもしれない。いずれにしても、益子や多田がかねてから指摘しているNYシーンの様々な特質(試行錯誤のとりあえずの到達点)、すなわちソロよりもアンサンブルへの志向、フレーズに対するトーンの優先(自然とサウンドは浮遊感を帯びる)、音色とリズムの複層化、余白/間/沈黙の重視、複数の異なる速度の共存(フロントよりもバックが素早く遷移し、相互の同期/非同期を使い分ける)、空間的コンポジション(空間を浮かび上がらせるための時間時の微分的コントロール)等を、橋爪たちは視点として共有し、必要に応じて自在に使い分ける等、もはや自家薬籠中のものとしている。

 ECMとNYを結ぶ象徴的ミュージシャン(卓越した演奏者にして組織者/教育者)はポール・モティアンにほかなるまいが、クロス・レヴュー中で林がECMと白人イースト派の親近性に言及し、ジミー・ジュフリーの名前を挙げているのが興味深い。ジュフリーがポール・ブレイ、スティーヴ・スワロウと組んだトリオの2作品(原盤は1961年にヴァーヴからリリース)は、ECMから再発された唯一の他レーベル作品であり、このことについて多田は『ECM Catalog』で「ECMは父の名を明かしたのだ」と象徴的に記している。実際、彼らの室内楽的とも言うべき緻密にしてしなやかなアンサンブルは、ECM(マンフレート・アイヒャー)が自らのサウンド・ポリシーを確立するに当たり、大きな役割を果たしたと考えられる。以前にこのトリオ作について、オリジナル盤とECM盤を聴き比べる機会を得たが、後者では空間に広がる響きが明らかに豊かになっており、特にポール・ブレイのピアノに関し差異が顕著だったことを書き添えておこう(ゴンゴンと乾いたリズム/コードだけが鳴る前者に対し、馨しい香りが立ち上り音の輪郭が濡れたようにみずみずしく輝く後者)。

     
Jimmy Giuffre 3, 1961(ECM) Jimmy Giuffre 3 / Fusion(Verve) Jimmy Giuffre 3 / Thesis(Verve)


4.〈伝統〉のありか

 今回のクロス・レヴュー中で、ECMやNYとはまた異なる角度から参照軸に設定されているのが「日本的感性」とでも言うべきものだ。それは特に5曲目(全編の中央)に位置づけられた唯一日本語の曲題を持つ「十五夜」の演奏に関して語られている。
 擬音的あるいは効果音的な表現をはじめ、風景の構成要素へのメタモルフォーゼを演奏者に求めた(橋本は「虫」の役柄だったと言う)「十五夜」は確かに特異なコンポジション(グループ・インプロヴィゼーションのための仕掛け)ではあるが、そのことを直ちに「日本的感性」に結び付けてしまうよりも、NYシーンで顕著な同期/非同期のヴァリエーションととらえた方が、耳の網目がより細密になるように思う(おそらく「満月」をイメージ・テクストとてグループ・インプロヴィゼーションを展開することは、様々な文化圏で可能だろう。ケルトでも、漢字文化圏でも、トルコ/アラビアでも、アル・アンダルーズでも‥‥)。

 ここで目指されているのは音による〈風景〉の生成であり、そのためには以前に見たように多元的かつ多層的な音/響きの創出が必要となる。グループ演奏において同期してしまうことは演奏者の本来的な生理だが(聴かずとも聞こえてしまう音、眼に入る他の演奏者の動きや息遣いが同期/同調を促さずにはおかない)、ここではそれに抗って非同期を保ち続けることが求められる。明確なフレーズがあった方が意識的にズレを起こしやすいため、むしろ非同期を確保しやすいかもしれない。しかし、彼らは環境音的なざわめきに、響きの海に身を沈めようとする。そのとき、「十五夜」を巡る様々なイメージ群は、グループがサウンドのヴィジョンを共有するための重要な鍵となるに違いない。しかし、そうした共有は非同期の確保にとって、かえって足枷ともなる。
 非同期を保ち離散的な演奏を続けながら、なおかつひとつの〈風景〉を織り成し、その中で共存するためには、先に触れた「演奏者の生理」とはまた別様の(というか相反する)身体感覚が必要なように思う。オーネット・コールマンが言うところの「ユニゾン」性やジャクソン・ポロックに関して語られるオールオーヴァネスがそれに相当するのではないだろうか(※)。

※いわゆるドローンに分類される作品/演奏にもそうした感覚を認めることができるのだが、ドローン=単一性のイメージが強いので、議論を簡明にするため、ここでは採りあげなかった。個人的には優れたドローン作品/演奏は決して単一ではなく、その厚みを耳が掘り進むうちに次々と新たな風景が切り開かれていくものであると考えている。

 文化伝統を言うのなら、むしろNYにおけるジャズの伝統感覚を、橋爪たちも共有しているのではないか。クロス・レヴューの中で益子は私の発言を引いて「ジャズにちっとも似ていないジャズ」の出現可能性について語っている。伝統の外部にある者たちがどうしても不安に駆られて〈定型〉の輪郭を内側からなぞりがちなのに対して、伝統の内部にいる者たちはそんなことにお構いなく、伝統は自分たちの進む後をついてくるのだと言わんばかりに、そうした約束事を大胆に破り捨て踏みにじる。ジャズが〈世界音楽〉となって、各地各国のジャズが様々な〈辺境〉から生み出されて当たり前の時代が到来したからこそ、そうした「辺境ジャズ」にはマーケットのつくりだした「ワールド・ミュージック」の枠組みにはまることなく、ジャズの底板を踏み抜いて欲しいと願わずにはいられない。橋爪たちには「和ジャズ」的な意識/感覚は皆無だろう。彼らか目指しているのは、盆栽的な閉ざされた細部の洗練でも、あるいはキッチュな結合による奇形化でもなく、まさに同時代のジャズの継続的な革新にほかなるまい。


5.羽ばたく翼への期待

 彼らのライヴを幾度となく聴いている益子と多田は口を揃えて本作を「橋爪のインプロヴァイザーとしての側面よりも、コンポーザーとしての側面が強く出た作品」、「インプロヴィゼーションに点火する前に演奏が終わってしまう」、「コンパクトにまとめ過ぎた」、「彼らの実力の65%」等と語っている。橋爪と市野が入ったトリオのライヴを一度聴いたきりの私には詳細は判断できないが、本作が美しいメロディのショー・ケースとなっていることは確かだ。

 それは裏返せば、これまで述べてきたような演奏の特質が、すべてメロディの抑揚に奉仕するもののように聞こえてしまいかねないことを意味している。演奏はメロディの分泌する空間の連続性を断ち切ろうとしない。メロディの流れにダメージを与えるほどには決して深く切り込まないのだ。紡がれたメロディが匂うように情景を喚起する見事なものであるだけに、そうしたことはさほど欠点とは感じられない。しかし、その一方で、インプロヴィゼーションの翼が羽ばたくのを今か今かと待ち焦がれている耳が欲求不満を募らせて、その挙句にここで繰り広げられている演奏を「表層的」と斬って捨てたくなるのもわからなくはない。素材の持ち味を活かす調理/調味法とは刺身や薄味ばかりではない。強火で焼きしめることにより別の味わいを目覚めさせ、全く異なる風味や香りをぶつけることにより、さらに深い味わいを引き出すやり方だってある。

 粉の焼ける甘い匂いを思わせるメロディが風にそよぐうち、彼方から黒い雲が湧き起こり、あたりが真っ暗になって、かすかに遠雷が聞こえたかと思えば、空を断ち切るような稲光と鋭い風切り音に続き、耳を聾する轟音が崩れ落ちる。橋爪たちの演奏を聴いて、かつてビル・フリゼールたちが描き出した、そんな景色を懐かしく思い出した(それは「アメリカーナ」と言うより、もっと普遍的な何かだった)。

 彼らに「もっとこれ以上」と期待する権利を、私たちは確実に持っている。

スポンサーサイト


ディスク・レヴュー | 21:36:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad