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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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どこまでも伸びる線と閉じていく世界-ジャクソン・ポロックとオーネット・コールマン-  Lines Extend Far Away without Limits But the World Becomes Closed -Jackson Pollock And Ornette Coleman-
 国立近代西洋美術館で開催された(2012年2月10日~5月6日)ジャクソン・ポロック展を見て考えたことについて書いてみたい。それにはまず、私のポロックへの関心のありかを説明する必要があるだろう。それは言うならば「音楽的」な関心にほかならず、音について思考する際のメタファーとしての〈線〉と深く関わっている。ここで〈線〉とは力線であり、力の軌跡、いや力動そのものと言ってよい。それゆえ、本稿はいわゆる展覧会評にはなり得ないことを最初にお断りしておく。
 その一方で、本展が非常に充実した展覧会であったことは、最初に述べておかねばなるまい。実際に観る前は『秋のリズム』や『ラヴェンダー・ミスト』をはじめ、代表作たる傑作が揃っていないことに不満を感じていたのだが(初期や晩年はいいから、成熟期の作品をもっと‥)、結果としては、そうして初期の作品から晩年の作品までをたどることにより、「繰り返すということをしない作家」(と言ってしまうのは、やはりフロンティア開拓者としてのアメリカン・ヒーローのイメージ投影があまりに強すぎるのではないか)ポロックが、随所でリズミックな、そしてほとんど宿命的な反復をしていることを観ることができ、とても興味深く感じた。


ジャクソン・ポロック展ポスター



1.白い光

 私がポロックの作品(複製)を初めて見たのがいつなのか、記憶が定かではない。だが、ポロックの作品を単に現代美術の(著名な)一作品としてではなく、何か自分に関わりのあるものとして意識した瞬間ははっきりと覚えている。それはオーネット・コールマン『フリー・ジャズ』のジャケットに、ポロックの作品「ホワイト・ライト」が用いられていることを知った時だった。多方向からの力線/力動の交錯/衝突を視覚化した象徴的なイメージとして、それは私の記憶に深く刻まれることとなった。
 その後、同じくオーネット・コールマン『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』や彼が率いたプライム・タイムの諸作品における、サウンドが互いに互いを切り刻みあい、沸き立つ鍋の中で削り節が踊るような演奏に耳を傾ける時、私の頭の中にはポロック「ホワイト・ライト」のおぼろげなイメージがいつも浮かんでいた。それだけではない。デレク・ベイリーのギターによる、まるでウィルソン泡箱がとらえた電子崩壊の軌跡のような、やはり切れ切れのフリー・インプロヴィゼーションに耳をさらす時も、水面下で多方向から交錯しあう不可視の力動が、その衝突の瞬間に、ぶつかりあう力の差異を一瞬水面に閃かせるイメージを、私はほとんどオートマティックにいつも思い浮かべていた。それは言わばポロック「ホワイト・ライト」の切片のようなものだった。
 こうしたことからわかるように、ずっと以前から私は(ソロにせよ、グループによるものにせよ)インプロヴィゼーションを、主体的な行為の結果というより、何者かに突き動かされて位置を、速度を、かたちを変えていく過程ととらえていた。なぜそのように感じるのかは自分でもよくわからない。音盤レクチャー「耳の枠はずし」で、先ほど触れた原子崩壊の軌跡の画像を掲げたり、宮川淳「アンフォルメル以降」を引用したりしながら、デレク・ベイリーのフリー・インプロヴィゼーションの方法論を説明したことがあるが、ここで白状しておけば、論理的な手順を踏んで最終的にそうした理屈やイメージに到達したわけではまったくなく、むしろ最初から「インプロヴィゼーションとは多方向からの力動の交錯/衝突にほかならない(他のものではあり得ない)」という闇雲な直感が動かし難く存在したのだった。そうした「確信」の根底には、ポロック「ホワイト・ライト」の衝撃が、いつも鳴り響いていたように思う。

  
   オーネット・コールマン     ジャクソン・ポロック
     『フリー・ジャズ』        『ホワイト・ライト』

   
     デレク・ベイリー          原子崩壊の軌跡


2.線の交錯/衝突としてのポロック

 「出発すること、脱出すること、それは線を描くことである」(ジル・ドゥルーズ)。線の交錯/衝突。幾つにも分岐し、絡まりあいながら繁茂する線。ビリヤードの図解のように弾け、あるいはスピンして不可思議な渦や曲線を描く原子崩壊の軌跡。互いに切り刻みあい断片化した、まるで傷跡のような線のかけら。アンドレイ・タルコフスキー『惑星ソラリス』で故郷の小川の流れに揺らぐ水草のように、もつれては解け、多数多様なリズムで揺らめく線の束。黒くきっぱりとした線が銀色に輝く円弧と交錯/衝突し、鮮やかに赤い軌跡とオレンジ色の飛沫を飛び散らせる。
 そうした自由に息づく線の生態、開放された速度のユートピアを、私はポロックに対し勝手に思い描いていた。幻想のポロック。だが本当のところどうなのだろう。今回、実際に作品を生で観るにあたり、私は次のA・Bの2点を確認することを自らの課題とした。

A 描かれた線は作品の縁を横切っているか。彼はポーリングによるオールオーヴァーな絵画を、キャンヴァスを床に置いて描いた後にトリミングしたのだから、どこまでも伸びていく「解き放たれた線」は、外部に向け縁を横切っているに違いない。
B 描かれた線同士はどのように交わっているか。交錯/衝突は描かれる際にどのように感じ取られ、また、どのような痕跡を残しているか。これは線や交点がメディウムの物質性をどのようにたたえており、それによりどのようなマティエールを形成しているかということでもある。
 
 果たして結果はどうだっただろうか。
 まずAから言えば、線はほとんど縁を横切っていない。線は外へとまっすぐ出て行かないし、外から直線的に入り込んでくるわけでもない。そこにはポロックのごく初期の作品「西へ」(1934~35年頃)に描かれているような、世界の不思議な湾曲があるように感じられる。ポロックが最初に絵画を習った画家トマス・ハート・ベントンの強い影響下に描かれたこの作品では、まるで凸面鏡に映したように世界が湾曲し、百八十度の視界がキャンヴァスの中に畳み込まれているように感じられる。

 ポーリングによって描かれたオールオーヴァーな作品の個々の線の軌跡を追い、あるいはハンス・ネイムスによって撮影されたフィルム(展覧会会場で上映されていた)によって、ポロックが実際に描いている様子を観察すると、線は直線的に走っているのではなく、むしろ手元から「行って還ってくる」木の葉の形(あるいは紡錘形や涙の形)の軌跡を描く。そうした曲線がそれ自体としては完全に閉じていない曖昧な領域をかたちづくりながら、隣接性を原理として並べられていく。

 ここで隣接性とは、手の動きの連続性が視覚によって断ち切られるところに現れる。ポーリングを用いることにより、描くことは支持体であるキャンヴァスと直接の接触を持たず、それゆえポロックの線は、サイ・トゥオンブリ的な紙の面とペン先との直接の接触/抵抗に支えられた触覚的な連続性を持たず、あくまで〈視覚〉的にコントロールされ、ハブとなる集中する核(放射の中心)を持たないよう、離散的に並べられていく。オールオーヴァネスを確保しているのは、そうした配置にほかならない。もしパリの街路構成のようにハブとなる集中点を持っていたならば、画面へ向かう視線はただちにそれを発見し、そこにひとまず滞留して、そこからまた別の集中点へと視線を巡らせていくだろう。だが、ポロックの作品はそうした集中点を持たず、視線の滞留を許さない。

 一方、Bに関しては、ポロックの線は塗料の盛り上がりや筆触といったメディウムの物質性をほとんど感じさせない。それゆえ、線の交点は、色の重なりによりどちらの線が「上」か(後から描かれたか)こそ明白なものの、マテリアルな〈もの〉同士がぶつかり合う交錯/衝突の手触りはほとんど意識されない。先に走る塗料の線がかたちづくる山脈(盛り上がり)に、後から描かれた線が突っ込んでいく‥‥といった手応えはそこにはない。異なる色による線は至るところで交わっているが、そこでは基本的に混色は起こっていない。物理的な力動においても、化学的な変化においても、線と線の交点はいささかも特権的な場所ではない。それは各色により描かれた線が構成するレイヤー(同じ色が重ね描きされることにより、ひとつの色が複数のレイヤーを有している場合もある)が敷き重ねられた際に、たまたま重なって見える点に過ぎない。それは星座にも似て、後から視覚によって見出されるものであり、また視覚に対してしか現れないものなのだ。

 ここにオールオーヴァネスの不思議さがある。通常、絵画がそれを見る者に対し視覚的に現れてくる時、一望性の下に全体の(遠近法的な)構図や簡明な幾何学的構造がとらえられ、さらにその細部が注視により充填されていくか、あるいは継起性の下、ある一部に眼が止まり、そこから物語の空間が開かれていくように(たとえば描かれている人物の視線や指し示しに導かれて)、順次各部分が立ち現れてくるかのいずれかだろう。だが、オールオーヴァー絵画においては全体的な構図/構造は与えられず、また、視線の滞留点も得ることはできない。絵画へと向けられた視線は、仕方なく画面上をさまようことになるが、本来ならそうした移ろいを支えてくれるはずの物質的な触覚性の次元も、また手に入れることはできない。多方向から交錯し、衝突しあっているかのように思えた線は、実は互いに幽霊であるかのように素通りしあい、視覚の中で重なることはあっても、実際にぶつかりあってはいない。隣接性によって配置された線の構成する各レイヤーが幾重にも重ねられることにより、稠密な「輻輳する隣接性」へと至っているにもかかわらず。


アンドレイ・タルコフスキー『惑星ソラリス』から
画面奥で水に浸る草の揺らめきに注目

  
 ジャクソン・ポロック『西へ』  トマス・ハート・ベントンの作品     凸面鏡に映る世界

  
        ジャクソン・ポロックによるポーリング           サイ・トゥオンブリの作品


3.〈図像〉との闘い

 〈図像〉についてはどうだろうか。一般に〈図像〉こそは、ポロックにおいて成熟期のオールオーヴァー絵画とその前後を分かつものと考えられている。あるいは「図像にヴェールをかける」という作画法が、ポロック自身の発言として伝えられてもいる。
 結論から言えば、図像的かそうでないか、同様に具象的か非具象的か、というのは、ポロックの場合、分水嶺とならないのではないかと考える。先に見た木の葉形(あるいは紡錘形/涙形)の線によって描いていく以上、そうした曲線がそれ自体としては完全に閉じていない曖昧な領域をかたちづくることとなり、言わば放っておけば〈図像〉的なものが否応なく浮かび上がってしまうからである。これは「絵描き唄」を思い浮かべてもらえば明らかだろう。あるいは至るところに〈顔〉を見出してしまう心霊写真のメカニズムを。閉じた曲線が何らかの〈かたち〉をもたらし、ひとつひとつは取るに足らないそれらの〈かたち〉が寄り集まって、結果としてある〈図像〉を避け難く描き出してしまう。それを避けるためには、〈図像〉が出現していないか注意深く観察し、もしその気配が感じられたならば、ただちにそれを解体/抹消し続けなければならない。

 出来上がった図像にヴェールをかけるのではなく、出来かけた〈図像〉を線の海に溺れさせ、解体/抹消する。もし、そこに深さ/奥行きがもたらされてしまうならば、手前でさえぎるものとの対比を通じて、かえって解体/抹消すべき〈図像〉をかたちとして浮かび上がらせてしまうことになる。よって、すべては奥行きのない浅さの中で行われなければならない。
 線がどんなに逃走を企てようと、不可避的に集積/繁茂してしまうもつれの中から、投影を通じて、やはり逃れ難く〈図像〉が浮かび上がらざるを得ないことを、ポロックは精神分析のための一連のドローイング(1939~40年)で嫌と言うほど思い知ったのではないか(今回の展示では「無題 習作シート」(1939~42年頃)や「無題 失われたスケッチブックのページ」(同)等がこれに当たるだろう)。そこにはオートマティスム(自動筆記)が本来宿しているはずの喜びや楽しさがまったく見当たらない。この「ハッピーでない」感じは彼の最初期の「無題 自画像」(1930~33年頃)や母親を描いたと思しき「女」(同)等からずっと、ほとんど生涯を通じて彼の作品に付きまとい続けているように思う。それは彼の生来の本質/宿命であるばかりでなく、後で見るように、描くことに対する彼の本当に孤独な苦闘/苦悩の反映ではないだろうか。

 筆触やメディウムの抵抗を活用することなく、マティエールの物質的な力を頼ることもなく、触覚を排除して視覚だけを研ぎ澄ます。けれどその頼みの視覚は、進行中の作品の全貌をとらえることができない。ポーリングによる線はあまりに細く繊細で局所的であり、対して作品の全体は巨大にしてオールオーヴァーなものとなっているのだから。抽象的な形象や幾何学的形態を含む何らかの〈図像〉を用いるならば、シンボリズムの活用をはじめ、また別の活路が開けたことだろう。しかし、ポロックはそうした選択を潔しとしなかった。彼は自ら描く線以外の拠り所をことごとく排除してしまった。反対に線に関する限り、速度やリズム、運動や進展/屈曲、不連続に至るまで、ありとあらゆる要素と可能性がそこから引き出された。ただひとつ「もののかたち」を描くことを除いて。

      
     えかきうた(笑)         ジャクソン・ポロック     ジャクソン・ポロック
                  精神分析のためのドローイング 失われたスケッチブックのページ
  
 ジャクソン・ポロック    ジャクソン・ポロック
    『自画像』            『女』


4.輻輳した隣接性

 一連の身体の運動が、その軌跡を交錯する線の集積として残す。逆に言えば、描かれた線はアーティストの身体の動作の痕跡として価値付けられる。ジョルジュ・マチューのような生粋のアクション・ペインターなら信奉していたであろうこうした美学を、ポロックは決して信じることがなかった。その一瞬には限られた視野しか持たない身体の運動の軌跡は、すぐさまねめつけるような厳しい視線の走査にさらされ、また新たに線が重ねられ、時に作業は長期間中断し、その間何度となく視線の試練をくぐり抜けた後、また作業が再開される。それゆえ完成した作品に彼の動作の痕跡をただちに認めることはできない。彼の身体の動きはいわば多重露出的にキャンヴァスに投影され、最終的にそこに現れる(看取することのできる)動きは、実際に絵筆を振るう彼の身振りとは似ても似つかない、寸断された痙攣的な、あるいは蠕動的なものとなってしまっている。

 彼自身の発言により「ギヴ・アンド・テイク」として知られているこうしたプロセスの中で、いったい何が彼に線を描くこと、線を配置することを可能にしていたのだろうか。「ジャクソン・ポロック-隣接性の原理」(『Art Trace Press』第1号掲載)で沢山遼は、ポロックがドローイングに見られる隣接性に基づいて描いていた可能性を指摘している。先に見たように、自らの線以外に拠り所を持たずに描いていく以上、彼が視覚的な隣接性(サイ・トゥオンブリのような触覚的な連続性の次元を持たない)に基づいて描いていたのは間違いないと私も思う。しかし、余白へと伸びていく線本来の性質だけで、結果としてのオールオーヴァネスを説明するのは無理があるだろう。彼の「成熟期」の作品に見られるように、そこには異なる色彩によるレイヤーの重ね合わせが含まれているからだ。そうした重ね合わせにより、ここで隣接性は言わば「輻輳した隣接性」(とは語義矛盾を含む概念だが)へと変容している。そこでは先に挙げたポロックの引き出した様々な線の特性/特質が等しく取り扱われる。あたかもオーネット・コールマンが彼の提唱するハーモロディック理論について「メロディ、リズム、ハーモニーは等価の関係にある」と語ったように。

  
 ジョルジュ・マチューの作品 マチューのアクション・ペインティング

  
   ジャクソン・ポロック         ジャクソン・ポロック
  『ラヴェンダー・ミスト』          『秋のリズム』


5.ユニゾン/オールオーヴァー

 「ロンリー・ウーマン」におけるオーネット・コールマンとドン・チェリーのテーマ・ユニゾンには、傷つきやすい粘膜を互いにすりつけあうような痛々しい生々しさが脈打っている。ここで演奏は決してあらかじめ書かれたテーマ・メロディをなぞるだけではない。両者の声のミクロなせめぎあいの中から、束の間生じた危うい均衡(勢力分布の境界線)が、たまたまテーマ・メロディのかたちをしているとでも言った方がよいだろう。フロントの二管が音域を分け合う安定したテナー+トランペットではなく、同じ音域でぶつかりあい、領土を奪いあうアルト+トランペットなのは、そうした闘争を準備する仕掛けでもある(ジョン・ゾーンはコールマン曲集『スパイvsスパイ』で、これを彼とティム・バーンの2アルトに移項し、高速のブロウイングをまるでローラー・ゲームの肉弾戦のようにぶつけあっている)。
 一方、冒頭に掲げた『フリー・ジャズ』では、テーマを設定しない集団即興演奏が次の3つのルールにより構造化されている。

①ダブル・クワルテット編成により、すべての演奏者を対称性(同種楽器2名ずつの対面構造)のうちに置く空間的コンポジション。
②各演奏者のソロの順序と時間をあらかじめ定めておくことにり、時間を分割する時間的コンポジション。
③冒頭及びソロの変わり目に「ハーモニック・ユニゾン」と呼ばれる短いセクションを設けること。これは各楽器が一定の音域を保って水平に積み重なる部分と、これに続くあるいは先立つソロの演奏者以外の全員による集団即興演奏で構成される。

 ここでもまた〈ユニゾン〉が特異な現れ方をしていることに注意しよう。かつてコールマンのマネージャーを務めたジョン・スナイダーは次のように語っている。

 「彼はよくユニゾンについて話す。それはふたりのミュージシャンがひとつの音を同時に演奏するということじゃない。彼の言うユニゾンは、どんな音のグループでも、それが突然ひとつになってサウンドの純粋さを持つことなんだ。透明な音、ほとんどベルの響きのようなね。」

 「ロンリー・ウーマン」において、先立つ二人の〈ユニゾン〉から癒着した組織を引き剥がすような痛々しさとともにテーマ・メロディが現れたように、『フリー・ジャズ』でもまた、各演奏者のソロに先行する闘争/響存状態として〈ユニゾン〉は設定されている。それは〈いま・ここ〉で演奏の基盤をなすべき状態であり、各演奏者のソロとはその中からこそ立ち現れてくるものにほかならない。

 コールマンのハーモロディクスを、こうした彼独特の〈ユニゾン〉感覚を全面展開することにより、それだけで音楽を生成させる方法ととらえることができるのではないだろうか。ここで〈ユニゾン〉感覚とは、言わば拡張されたアンサンブル感覚にほかならない。合奏で「合って」いるとは単に音符が縦に並んでいること(音程とタイミングの正確さ)ばかりではない。木村敏(精神医学)はアンサンブルを成立させているのは、まさに人と人との〈あいだ〉の働きであると指摘している。ハーモロディクスはこうした〈あいだ〉をさらに励起/活性化させることにより、そこにメロディの断片を放り込めば、各演奏者がそれ触発されてすぐさま多種多様なグルーヴをつくりだし、跳ね回るようにポリリズミックなテクスチュアをたちどころにグループとして織り成すことのできる状態をつくりだす。ここで重要なのは、各演奏者が音の衝突/交錯を、その場で身体同士がぶつかりあい、触れあい、さらには近づき遠ざかることを繰り返すような体感レヴェルでとらえることだ。マヤ・デレンが『聖なる騎士(Divine Horsemen)』で撮影したヴードゥー教の集団トランス・ダンスのように、互いが互いを突き動かす場の沸騰として。

 ハーモロディクスのコールマン自身による実践である『ダンシング・インユア・ヘッド』において、『フリー・ジャズ』以降ずっと潜在的なままにとどまってきた不断に生成される〈ユニゾン〉は、間断なく織り成されるポリリズムの、まさにポロック的な交錯と散乱という眼に見える運動/層として実現されている。ここでは演奏の総体がすべて〈ユニゾン〉の自己更新として進められる。イヴァンカ・ストイアノーヴァ「反復の音楽」による次の指摘は、初期のミニマル・ミュージックだけでなく、オーネット・コールマンのプライム・タイムによる実践にもよく当てはまる。

 「アメリカの反復音楽は、結局、その内的な恒常性にもかかわらず、非定常的なものである。つまりそれは、反復的なテクスチュアとしてはそれ自身に同一なものにとどまっているひとつの共時的な状態を、更新しようとするものなのである。」

 先に述べたポロックによる「輻輳した隣接性」を、こうしたハーモロディクスの相同物としてとらえられないだろうか。彼の言うところの「ギヴ・アンド・テイク」の後半、描かれた線の集積を視線が走査し、皮膚全体で線の交響を感じ取る時、彼は単に線の軌跡を距離を置いて眺めているのではなく、画面の中に入り込み、まさに一本一歩の線となって交錯/衝突を生きているのではないか。物質的な衝突の痕跡は画面にほとんど残されてはいないが。いやむしろ痕跡が残されてはいないがゆえに、そこでぶつかりあい、触れあい、掠めあう身体をありありと感じているのではないか。なぜなら、それは決して痕跡を通じて描いている時の動きや身体感覚を想起/再現することではなく、重ねあわされた各レイヤーを一挙に刺し貫く集合的な体感なのだから。「多数多様なポロック」の〈いま・ここ〉でのひしめきあい。〈ユニゾン〉感覚の相同物としての〈オールオーヴァー〉感覚。 【次回に続く】

  
  オーネット・コールマン          ジョン・ゾーン
  『ジャズ 来るべきもの』        『スパイ vs スパイ』

    
   オーネット・コールマン         同『ボディ・メタ』     同『オヴ・ヒューマン・フィーリングス』
『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』         この頃のジャケットはみんな現代美術感覚

  
  マヤ・デレン『聖なる騎士』から ハイチのヴードゥー・ダンス
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アート | 12:28:01 | トラックバック(0) | コメント(0)
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