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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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唐楽の平坦さと高麗楽の起伏-伶楽舎雅楽コンサート・レヴュー- Flatness of Togaku And Undulations of Komagaku-Review for Reigakusha Gagaku Concert-
 伶楽舎による雅楽コンサートに行ってみた(5月31日(木) 四谷区民ホール)。きっかけとなったのは、日本伝統文化振興財団のホームページ『じゃぽ音っと』(*1)掲載のスタッフ・ブログ「じゃぽ音っとブログ」に書かれていた紹介記事(*2)である。
 雅楽の演奏団体である伶楽舎について知ったのは、同財団がCDにより復刻再発した紫絃会演奏による『舞楽 春鶯囀一具』を聴いたことによる。この雅楽大曲の魅力については本ブログでも以前にディスク・レヴューで採りあげた(*3)。そもそもこのCDの存在自体を知ったのが、前述の「じゃぽ音っとブログ」の紹介記事(*4)で、この中で芝祐靖率いる伶楽舎が紹介されていたのだった。私はその記事を頼りに、伶楽舎演奏による武満徹『秋庭歌一具』のCDを入手し、手持ちの東京楽所演奏による同曲のLPと聴き比べたりした。

 コンサートのちらし
*1 http://www.japo-net.or.jp/
*2 http://d.hatena.ne.jp/japojp/20120524/1337828927
*3 http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-159.html
*4 http://d.hatena.ne.jp/japojp/20120222








 そのようにして伶楽舎の演奏と出会った私は、予約2,500円という料金の安さ(超良心的!)にも後押しされて、コンサート会場である四谷区民ホールへと向かった。名称からの勝手な想像(会議室兼用の多目的ホール)とはまるで異なり、会場は音楽専用の素晴らしいホールだった(もちろんここで「音楽」とは主として西洋音楽、それも所謂「クラシック」ということになろうが)。幸い、舞台中央にセッティングされた太鼓の真正面(高さにおいても)の席に着くことができた。前後・左右とも中央となろうか。

 最初に説明があり、本日は「番舞(つがいまい)」と呼ばれるペアとなる2曲の舞楽「散手」と「貴徳」の上演を後半として、前半にその2曲を管絃により演奏するプログラムであることが告げられる。舞楽は管楽器と打楽器のみで演奏されるのが一般的であり、絃楽器(琵琶と箏)は通常用いられないとのことであった。しかし、「貴徳」については絃楽器の楽譜が残っていることからこれを用い、さらに「散手」については、他の曲の楽譜を参考に絃楽器部分の学を新たに作成したとのこと。演奏のみならず、廃絶曲の復曲、原譜からの訳譜、復元楽器による合奏、新作雅楽の作曲等を幅広く手がける芝祐靖が率いる伶楽舎ならではの意欲的な趣向と言うべきものだ。

 管絃による「散手」の演奏が始まると、笙と篳篥のアンサンブルに描き込まれる琵琶と箏のゆっくりとした刻みに耳が惹きつけられる。それをあえて「違和感」と言ってみてもいいかもしれない。龍笛を加え、厚みを増しながらたなびいていく管、タンタンタンタンタンタン‥‥と次第に速くなっていく打刻により、むしろ平らかで等速な定常状態をつくりだしていく打楽器に対し、ゆるやかに絃が弾かれ、また、主奏者に少し遅れて助奏者が奏でる音色は、地に溶け込むことも、図として浮かび上がることもなく、一幅の音景色のうちに置きどころなく漂う趣があった。ここで主奏者に遅れて助奏者が追いかけるように奏でる演奏法(「退吹(おめりぶき)」と言うとのこと)は管にも適用されていたのだが、それが厚みやたゆたいに直結する管に対し、絃の場合は不安定なもつれやほころびの感覚が増すように思われた。

 唐楽の「散手」に対し高麗楽(こまがく)である「貴徳」では笙が用いられないため、笙奏者が退席してから演奏が始められる。韓国巫楽ほどに強烈ではないけれど、空間をたわめ、時間を引き絞るようにして打ち込まれる打楽器の一打に、半島に脈々と流れる熱い血筋を思わずにはいられない。どこまでも平らかな唐楽の呼吸の推移に対し、高麗楽は息を詰め、鋭く吐く、切り立った起伏を宿しているように感じられた。持続を司る笙がいないこともあって、管もまたうねりを増しながら、一息ごと吹ききるように演奏は進められる。そうした粗密の明らかな、濃度の勾配のある空間/時間に対し、絃もまた先ほどよりは落ち着いた居場所を見出していたように思う。

 休憩をはさんだ後半は2曲の舞楽としての再演。舞台上は中央を舞のために四角く空けて、管と打楽器が両側に居並ぶ(左手に笙と篳篥、右手に龍笛と打楽器)。やがて左手の壁が開いて、面や竜甲(たつかぶと)、装束を着けた舞人が登場する。面の赤、装束の赤と朱、鉾の金色と赤系統のいでたち。
 演奏は前半よりもまとまりよく、さらに平坦に聴こえる(前半に驚かされた龍笛の響きの強さ-ほとんど耳元で鳴っているような-もない。これは舞台上の配置の違いによるのだろうか)。絃がないからか。あるいは視覚をとらえる舞があるからか。
 舞は様式化された所作を連ねていくもの。能のように動かないわけではなく、次々に動作を連ねていくが、その動きは演奏同様、等速性に深く浸されており、平坦で起伏や呼吸を持たない。タンタンタンタンタンタン‥‥と次第に速くなっていく打刻が繰り返され、さらに平坦さに磨きをかけていく(次第に速くなる打刻の加速は、演奏や舞の運びにではなく、舞台の手前から奥へと向かう聴衆の視線の動きに投影されるように思われる)。平らかな響きを背景としたゆるやかな身体の動きは、たとえ撥音/促音的な動作(床を爪先で蹴って、そのまま足を伸ばし踵から下ろす)を含む時でも、その等速の流れをかき乱すことがない。面と装束で全身を隙なく覆っていることもあって、身体(性)が露出/露呈する瞬間はここにはない。原稿用紙の桝目を埋めるように、動作言語が連ねられていく。

 対して続く「貴徳」では、笙奏者が退席した後、右手の壁が開いて舞人が登場する。こちらは対照的な緑系のいでたち(鉾は銀色)。演奏の起伏/呼吸に応じて、舞も弾んでいく。たとえば肩の高さに両腕を左右に上げて止め、掌をくるりと返す瞬間をはじめ、随所に撥音/促音的な(より音楽的に「付点音符的な」と言うべきか)身体の運動が現れる。全体としてはゆるやかで様式化された所作も、「散手」の等速性と比べると、緩急や加減速、いきいきとした身体の運動が際立つ(それは舞人の巧拙の問題ではないように思う)。息を詰め、あるいは鋭く吐く演奏の呼吸と、面に隠されて直接には窺えない舞人の息遣いのしなやかな連動。唐楽が構築的とすれば、こちらはさしずめ生物(メタボリズム)的か。私はそこにふと身体の〈素顔〉を見た気がした。舞が視覚的な焦点として現れることにより、演奏も空間/時間をたわめ、引き絞り、解き放って、さらにリズミックになったように感じられた。

 プログラムが意図した管絃と舞楽の響きの違い以上に、雅楽における唐楽と高麗楽の本質的な差異を教えられたコンサートだった。


【参考文献】
□「散手と貴徳 ~管絃で聴く、番舞を観る~」
 当日、会場で配布されたプログラム・リーフレット。



  
       「散手」              「貴徳」
いずれも天理大学雅楽部公演より(撮影:gagakubiz様)
http://gagakubiz.dreamlog.jp/より許可をいただいて転載しました。


   
   『舞楽 春鶯囀一具』   伶楽舎演奏による武満徹『秋庭歌一具』

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:06:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
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