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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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勢いあまって踏み外す-多田雅範の耳の旅路がとらえた風景-  Stepping Out by TOO Much Full Force-Soundscapes from Masanori TADA's Listening Travelogue-
 音楽批評サイト『Jazz Tokyo』連載の多田雅範(=Niseko-Rossy Pi-Pkoe)によるコラム「タガララジオ」が更新された。今回の「タガララジオ27」(*1)はKing Creosote&John Hopkins『Diamond Mine』のディスク・レヴューから始まる。
*1 http://www.jazztokyo.com/column/tagara/tagara-27.html

 「場所はきっとイギリスのどこか。ゆったりとした賛美歌の下降を漂わす木製ピアノの響き、食器が用意される音や若い労働者の話す声、給仕のおばさんの話し声、そして、郊外の空気の響き、空き缶に水が落ちる小さな音‥‥」

 一見、楽器編成やオーケストレーションの推移をなぞるようでいて、実は空気感やそこにたちこめる匂いや湿度を通じて、細やかに響きの佇まいを伝える。こうして音の鳴っている空間に身を置くようにして、一挙に全貌を把握する幻視力が彼の武器のひとつだ。何て言ったって、かつて耳にした音源にピンと閃いて「地下にある石造りのスタジオ」とつぶやき、メールを交わした当のミュージシャンに驚かれたというエピソードの持ち主なのだから。

 だが、そのような透徹した耳のあり方は、彼にとってスタート・ラインに過ぎない。「タガララジオ」の本領はもっと別のところにある。ECMから東大寺お水取りまで、NYダウンタウンの先鋭的なジャズから児童合唱団まで、エレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションや凍てついたサウンドスケープからコンビニで流れるJ-POPまでという、圧倒的な(あきれ果てた?)耳の踏破距離がそれだ。こんなパリ・ダカール・ラリーみたいに長距離を(しかも「悪路」はかり)走り通す音楽コラムなんて見たことがない。
 今回もフォーキーなヴォーカルに添えられたアンビエント彫琢の繊細さから、プリペアドされたサクソフォン等によるフィードバックまで駆使したハードな音響インプロヴィゼーションを経て、NYジャズやJ-POP、英国フォークへと多田の耳は足を伸ばしていく。一篇のコラムの範囲内でこうした長距離の探索を可能としているのが、彼の語りのうちに開ける〈飛躍〉の素晴らしさである。群がるDFを一瞬で置き去りにするステップの切れの良さは、ジャッキー・チェン『酔拳』の足さばきを思わせもするが、単に躓いてよろけているだけかもしれず(笑)、簡単に先読みを許さない。

 いま思わず「(笑)」と書いたけれど、視点を変えれば、凡人がただなんとなく通り過ぎてしまうところに躓いて何物かを見出さずにはおかないことこそが、まさに才能なのだ。しかも普通の才人が躓いたら立ち止まって考え込むだけなのに対し、彼は思いっきり蹴躓いて、その勢いのまま立ち止まることなく一歩も二歩も大股に踏み出し、「予定のコース」を踏み外して彼方へとそれていく。「糸の切れた小惑星の軌跡」(多田雅範)。その自由奔放、変幻自在、向こう見ずな思い切りの良さに、何度眼を見張らされたことだろう。
 つい先日もLucio Capece『zero plus zero』(Potlatch)を耳にして、ここには何かあると思いながらもとらえあぐねていたところを、彼の高らかな関心表明(それはもはや「宣言」と言ってよいきっぱりとした確信に満ちていた)に触発され、何とか思考を先に進めることができた。この顛末は今回の「タガララジオ27」で一部触れられている。

 ある程度長い批評文(別に批評には限らないが)を書いたことのある方はご存知だろうが、批評は方程式を解いたり、幾何学の証明を書き下ろすのとは異なり、飛躍無しには論理を組み立てることができない(もし必要十分条件を満たしながら論を進めているとしたら、それは単にトートロジーに過ぎない)。言葉へと移行する段階で当然飛躍/不連続が入り込むことが誰にも明らかな音楽批評や美術批評はもとより、最初から言葉で書かれている作品を対象とする文芸批評であっても、このことは基本的に変わりがない。作品からある部分を引用するとして、その引用の際に、たとえ一字一句そのまま書き写したとしても、そこに飛躍が入り込む。なぜなら引用の際には作品全体の読みを踏まえてしかるべき箇所が切り出されるのであって、引用された箇所の〈読み〉は、引用されていない残りの膨大な部分に対する〈読み〉によって裏打ちされているのだから。それを事細かに文章で述べることは到底できるはずもない。
 このようにして、言葉は、文章は、至るところに口を開けたクレパスを飛び越えていかざるを得ない。そもそも思考が地続きの大地だけを安全に進めると思ったら大きな間違いだ。そのような本質的な不連続/飛躍を単線的にしか読みようのない(断章形式やアフォリズムは決して万全の解決策足りえない)文章のうちでどう展開していくかが問われているのだ。
 そうした時に連続性/一貫性に重心を置いた文章よりも、速度と飛躍に賭けた語りの方が魅力的に映るのは当然のことかもしれない。だが、ここで勘違いしてはいけないのは、単に情報量の圧縮(一例として固有名詞の羅列)や切断の強調(一例として先に挙げた断章形式)で技術的に解決できるほど、批評ってものは甘くないってことだ。

 以前に多田が紹介していた次のようなエピソード、ECMで活躍する作曲家/ピアノ奏者ケティル・ビヨルンスタがムンク研究者として来日し講演するのを知った彼は、すぐさまノルウェー大使館に電話してコンサートの開催を訴え、ついに実現された大使館でのミニ・ライヴをノルウェー大使とソファに並んで座って聴き、あまつさえ寄贈されたビヨルンスタの著書の貸し出しを大使に直訴して、居並ぶ大使館職員たちを青ざめさせる‥に明らかなように。多田の思考/語りの速度とは、ドミノ倒しのようにバタバタと連鎖して起こる出来事の速度にほかならない。それは彼のバスター・キートンばりの疾走によってもたらされる。笑いすら追いつかないほどの傑出した速度は、その代わりにどこかから悲しみを連れて来てしまう(キートンの無表情がかもしだす悲哀)。多田の語りもまた、読み手をそうした遠い悲しみの中へと連れていく。記述を幾度となく死の影が過ぎり、失われた時間が思い出の中で硬く凍りつく。

 だがそれにしても、「タガララジオ」にしろ、音楽批評サイトmusicircus掲載のブログ「Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review」(*2)にしろ、なんて多くの喪失の経験に満ち満ちているのだろう(村上春樹の初期作品のように)。聴くこととは指の間からこぼれていく音の手触りを感じ取ることだとでも言わんばかりに。それはたぶん多田が類稀なる「記憶の人」であり(彼と話していると、20年前に聴いた曲名が昨日のことのように出てくるのに驚かされる)、同時に「忘却の人」(すでに経験したはずの事態と何度でも新しく出会ってしまう才能)だからなのだろう。彼の文章を読む者は、いつどこともしれない風景の数限りない(しかも鮮明な)フラッシュバックに打ちのめされ、思わず涙ぐむことになる。
 切れ切れの風景のフラッシュバックがなぜそのような強い感情喚起力を持つのか、私にはよくわからない。youtubeに山崎まさよし「One More Time, One More Chance」MVの『秒速5センチメートル』版というのがアップされていて(*3)、同題のアニメーション作品からの抜粋編集画面が流れるのだが、いかにもアニメ調な登場人物に対し、背景は実に丁寧に愛情を込めて細部までリアルに描かれ、誰もいないがらんとした教室にカーテンが舞う様や、やはり人影のない長距離列車の車内に吹き込んだ雪や、アパートの集合郵便受けの下にたまったチラシの山がカメラ・アイの動きとともにとらえられ、次々にフラッシュバックされる。画面中に人物がいないだけでなく、登場人物の視線からとらえられたのでもないだろうそれらの視覚(小津安二郎の「枕ショット」を思わせる)の連鎖は、作品で物語として描かれているらしい幼馴染の別離とはまったく違ったところから悲しみを連れてくる。そうした距離を置いた視線の冷ややかに乾いた悲しみ(それはある種の「残酷さ」を静謐に見詰める眼差しと言ってもいいのかもしれない)は、多田の文章に通ずるところがあるように思う。
*2 http://www.enpitu.ne.jp/usr/7590/
*3 http://www.youtube.com/watch?v=aAUi1NuOnJ0

 「タガララジオ」の連載ではトリミングされてわかりにくくなってしまっているが、ブログ「Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review」では、彼の撮影による写真も楽しむことができる(下にほんの一部を抜粋してみた)。最近、スマートフォン付属のカメラによる風景撮影に目覚めたらしく、独特のけぶるような曖昧な広がりを観ることができる。景色は輪郭を溶かしながら空間に響きを広げ、いつまでも消えずに茫洋と漂いながら、夢見るような不安を呼び覚ます。
 これらの写真はレンズの性能や限られた画素数の割には明るく鮮明な画像を撮ることを目指した、「画像エンジンがレンズを従えている」(原田正夫)スマートフォン付属カメラの機能/目的を裏返しているような印象がある。本来なら画面中央に主たる被写体が位置し、それを中心に画像を構成するようプログラムされた画像エンジンは、中央が抜けて、対象が画面の縁へと退いた視覚に、思いっきり空振りさせられているのではないか。言わばここに示されているのは、そうした〈構築〉が崩壊した果ての廃墟としての〈風景〉になのだ。夢の甘い苦さが口中に広がると同時に、見たことのない懐かしさが湧き上がってくるのは、たぶんそのせいに違いあるまい。


        
「Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review」から 撮影:多田雅範
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批評/レヴューについて | 22:13:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
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