■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

同じ景色を見詰めること-菊地雅章トリオ『サンライズ』ディスク・レヴュー- Looking at the Same Scapes-Disk Review for Masabumi Kikuchi Trio "Sunrise"-
1. 黙って行き違う音たち
 スラーで結ばれた下降する音階のように、演奏が進むにつれ、冒頭2曲の凍りつくような特異性は次第に緩み、まるで雪解け水がほとばしるようにピアノとドラムの音数が増し、フレーズが紡がれていく。それでもベースだけは、禁欲的なまでに音数を限り、寡黙さを貫き続ける。いやこれは誤解を招く言い方だ。Thomas Morganは自らフレーズを紡ぐことを禁じてなどいない。彼は然るべき地点で、然るべき音を放っているに過ぎない。それを禁欲性とか寡黙さと取り違えてはなるまい。それではこの悠然としたトリオ・インプロヴィゼーションにおいて、然るべき地点、然るべき音とは、どのようにもたらされているのだろうか。

 しんと張り詰めた闇から、その闇をいささかも揺らすことなく、月光に照らし出された冷ややかな打鍵がふと浮かび上がり(吐息が白く映るように)、響きが尾を引いて、束の間、闇の底を白く照らし出す。重ねられた音は「和音」と呼ぶべき磐石さを持たず、宙に浮かび、そのまま着地することなく消えていく。それとすれ違いにブラシの一打が姿を現す。音は互いに触れ合うことなく、一瞥すら交わさずに、黙ったまま行き違う。
 ピアノ自体も同様に、次に現れた打鍵は先に放たれた打鍵と音もなくすれ違う。両者の間を線で結ぶことはできない。間を置いて打ち鳴らされる音はフレーズを編み上げない。そこに受け渡されるものはなく、ただ、余韻だけを残して現れては消えていく音。その只中に突き立てられたベースの一撃が、それらがやがて星座を描くかもしれないとの直感を呼び覚ます。

 ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』冒頭のタイトル・クレジットは、クレジットの各単語がそれを構成するアルファベットの単位に分解され、A・B・C‥‥と順に映し出されていく。だが、そうした「コロンブスの卵」的な単純な仕掛けに気づいたのは、始まってしばらくしてからで、最初のうちはそれがクレジットであることにすら気がつかず、モールス信号を思わせる離散的な配置で、赤い布石や青の石組みが、間を置いてすっと画面に現れていくのを、はらはらしながら、ただ黙って見詰めていることしかできなかった。原色によるフォントのオフビートな明滅に、観ている自分が次第に照らし出されていく感覚がそこにはあった。『Sunrise』冒頭曲の始まりの部分は、その時の張り詰めた気分を思い出させる。


2.寸分違わぬ同じ「景色」

 出来上がりの絵柄に向けて(彼らは寸分違わず同じ「景色」を見ている)、各演奏者が一筆ずつ、セザンヌにも似た矩形の筆触を並べていく。その順序は決してものの輪郭に沿っているわけではなく、連ねられて線を描くわけでもなく、まさにゴダール『気狂いピエロ』冒頭の、あの明滅の感覚で筆は置かれていく。もちろん音は虚空に吸い込まれ、スクリーンに映し出されるフォントのように積み重なることがない。しかし、それでも消えていく余韻を追い、それとすれ違いに現れる次の音の響きを心にとどめることを繰り返せば(通常これはゆったりと引き伸ばされた旋律を追う時のやり方だが)、ピアノの打鍵、ドラムの一打、ベースの一撃が互いに離散的な網の目をかたちづくりながら、それをレイヤーとして重ね合わせている様が見えてくる。
 「網の目」と言い、「レイヤー」と言い、いかにも緊密な組織がそこにあるように感じられてしまうとしたら、それは違う。繰り替えすが、音はフレーズを紡ぐことがない。別の言い方をすれば、閉じたブロックを形成しない。ピアノの、ドラムの、ベースの、それぞれ先に放たれた音とこれから放たれる音の間は、常に外に向けて風通しよく開かれていて、幾らでも他の音が入り込めるし、実際入り込んでくる。しかし、そこでは線が交錯することはない。もともと彼らは線など描かないからだ。

 最初に記したように、3曲目、4曲目と演奏が進むにつれ、次第に彼らは線を描き、フレーズを紡ぐごとに近づき始める。いや、それはそう意図してのことではないだろう(そこには冒頭2曲のきっぱりとした香りが依然として漂っている)。閉じたブロックを形成しない「開かれた強度」が弱まるにつれ、演奏は自らを宙吊りすることに耐えられなくなり、ついには足が地に触れてしまう、その結果、そうした地点に「着地」してしまうとでも言ったらよいだろうか。急速調の演奏だから、隙間が詰まり線がつながってしまうと言うわけではない。ゆったりとしたバラードであっても、フレーズを排する抽象的な強度は、演奏が進むにつれ、確実に弱まっていく。フレーズを紡ぎ出すことにより線を描き、指先を伸ばして、他の演奏者の線と交わる気配を触覚的に手探りしようとしている。そこには、ここぞという目にぴしりと石を打ち、正確無比にツボに鍼を置き、迷うことなく中心を射抜く冴えはない。

 だが、それは演奏の水準が高くないことを示すものではない。むしろ冒頭の2曲が「異常」なのだ。そこには空が白むまでまんじりともしないような、冴え冴えとした覚醒感がみなぎっている。かつてレヴューしたFarmers By Nature『Out of This World's Distortions』(*1)のやはり冒頭曲、録音の直前に逝った盟友に捧げた名演「For Fred Anderson」にも匹敵する強度がそこにはある。Gerald Creaver, William Parker, Craig Tabornの3人は息も凍るほどしんと張り詰めた空間の中、肌が触れ合う至近距離で交錯しながら(ここで彼らは決して音域で棲み分けることをしない)、「同じ時間を呼吸しない」ことを、唯一のルールとして共有している。彼らが「同期しないこと」の強度を極めていたとすれば、ここで菊地たちは先に述べたように寸分違わぬ同じ「景色」を眺めながら、「同期すること」の強度を究めようとしていると言えるだろう。
*1 http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-119.html


3.「短詩型文学」との印象

 当初録音された演奏から2曲を除き、改めて配列し直したというPaul Motianが意図したのは、音楽批評サイト「com-post」のクロス・レヴューで益子博之が指摘していた通り(*2)、最初と中間と最後にバラードを配した「バラード中心の構成」と言うことで間違いないだろう。しかし、最初に述べたように冒頭2曲の特異性は次第に薄まっていくのだから、本作の魅力は10曲全体の配分(それはそれでもちろん見事なものなのだが)よりも、冒頭の2曲に集約されていると言ってよいのではなかろうか(いやいっそ「尽きている」と言うべきか)。益子も実はそのことに気付いていただろう。だからこそ4月22日の「第5回四谷音盤茶会」では、この2曲をかけたのに違いない。私が本作を初めて聴いたのがその時だった。
 そこでの鮮烈な印象はブログに記した通り(*3)だが、本作を手に入れて、自宅で全編通して聴いた印象はかなり違ったものとなった。いささか当惑して繰り返し聴くうちに、違和感はさらに明白なものとなっていった。ある意味、出会いの「原点」に立ち返って、冒頭の2曲を他と切り離し、むしろ残りの部分と対比させ、それらによって冒頭の2曲を逆照射するような聴き方に至るまで、ずいぶん時間がかかってしまったことを白状しておこう。
*2 http://com-post.jp/index.php?itemid=581&catid=5
*3 http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-163.html

 「第5回四谷音盤茶会」での本作との出会いの際、そこで触れ得たのは益子の選んだ冒頭の2曲だけだったから、それだけ音はピンポイントに像を結び、鮮烈な印象を刻んだ。私はその一瞬に垣間見えたように思えた光景を、「短詩型文学」といういささか風変わりな謎めいた形容を用いてレヴューに書き留めた。そのことについて補足しておきたい。

 「これは、菊地が次々に詠みあげていく和歌の連なりなのだろう。例の菊地のうめき声は『〇〇にて詠める』という題辞にも似たものであり、そこで示された視点から一瞬垣間見えた景色の閃きに向けて、ピアノが鋭く切り込み、語/音を積み上げ、響き/イメージを掘り進み、ドラムが呼吸を伸縮させ、ゆるやかな弧を連ねて、ベースが点景を指し示し、句読点を打つ。決して弾きすぎることのない菊地のピアノは淀むこと/立ち止まることを知らず、するすると流麗に流れ続けるが、実は至るところで切断され、先端/断面を宙に泳がせている。和歌を綴る筆の軌跡、墨の跡が、そこかしこで余白に遊ぶように。そこに浮かぶ情景もまた。」

 「短詩型文学」という語で私がイメージしていたのは、(自由律を含む)俳句や短歌、特に俳句である。そこでは何よりも世界の切り取り方が重要視される。そして、そうしたきっぱりと切り取られた世界こそ、菊地たちが共に見詰めていた「寸分違わぬ景色」にほかならない。そうした景色に対し、「短詩型文学」は散文や長詩と異なり、語が連なって線を描きながら、ものの輪郭を写していくということがない。また、外から他が入り込めないような閉じた叙述のブロックをかたちづくることがない。
 「短詩型文学」は、きっぱりと切り取られた世界を、これ以上ない正確さで指し示しながら、それ自体を構成する各語や音の響きは、それぞれ別のところからやってくる。はるか遠い別々のところから吹き寄せられて、たまたまここで束の間〈星座〉を形成し、また別のところへと散り散りになっていく。語と語の間を波が通い、音の隙間を風が吹きぬける。切れ字や体言止めが、それに続く空白に余韻を響かせ、あるかたちを鮮明に浮かび上がらせる。あるいは連歌のプロセスを思い浮かべてもいいかもしれない。新たに付け加えられた語/句は、視点/文脈を切り替え、先行する語/句の意味合いをあっさりと塗り替えていく。

 もうひとつ念頭にあったのは、和歌に顕著な「詞書(ことばがき)」の働きだ。和歌本体の傍らに置かれる「〇〇にて詠める」等の規定は、各語が共通に眼差すべき空間をあらかじめ指し示す。それは先に述べた「寸分違わぬ景色」そのものではない。あくまでそれを暗示し、導き、浮かびあがせるだけだ。それゆえ「詞書」は決してかっちりと堅固な枠組みではない。むしろ、そこから遠ざかるためにだけ出発点に置かれる道標のようなものだ。私はこのトリオにおける菊地雅章作曲のテーマを、(もしそれがあるとして)そのようなものとしてとらえている。彼方を指差し、そこに向けて(自分を含め)メンバーを鼓舞しながら、あっさりと始まりに置き去られる何物か。一瞬の目配せ。

 よく非難の対象となる菊地の奇妙な「うなり声」もまた、私には「詞書」的な性格を持つものに思える。それは移ろう指先に先行するように見えて、実はそれを牽引していない。稲妻のように閃いたメロディのイメージが口の端からこぼれ落ち、演奏する身体が闇雲にそれ(脳内イメージ)を追いかける‥‥といった事態が起こっているわけでは決してない(そうした性急さはそこには感じられない)。もしそうだとしたら、あの「うなり声」は不鮮明な歪んだ像かもしれないが、それでも彼の演奏のインスピレーションを指先が実現するピアノ演奏以上に、より直接的に反映したものということになってしまう。そんなことはない。あくまでそれは演奏の傍らに置かれるものであり、そこから遠ざかるためにだけ始まりに置き去られる何物かなのだ。


   
  Masabumi Kikuchi Trio       Farmers By Nature
      『Sunrise』        『Out of This World's Distortions』



                           ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』
スポンサーサイト


ディスク・レヴュー | 19:13:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad