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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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「現在進行形のジャズ」を巡って  Around "The Shapeof Jazz Now Coming"
 【前口上】
 音楽批評サイト「com-post」に先日掲載されたばかりのクロス・レヴューで、益子博之が「現在進行形のジャズ」という語を用いている(*)。私はジャズについてはおよそ語る資格がないが、自分の好んで聴いている音楽を、やはりどこかで「現在進行形」とみなしているところがあり、そうした自分の姿勢や考えを整理するためにも、この機会に「現在進行形」について考えてみるのも悪くない。というわけで、今回は「現在進行形」を巡って書いてみたい。
 *http://com-post.jp/index.php?itemid=630


1.「現在進行形」の魅惑

 「現在進行形」とは確かに魅惑的な語だ。そこには産み落とされたばかりのみずみずしさがあり、と同時にそれを見出す者の眼差しの強さを感じさせる。先ほど述べたように、私も自分が好んで聴いている音を、ある種の「現在進行形」ととらえているように思う。いま思わず「ある種の」と書いたが、それだけ「現在進行形」という語が指し示してしまう範囲が広いということだ。それゆえ混乱を避けるために、まずは「現在進行形」の諸相(と私が考えるもの)を概観しておこう。


2.「現在進行形」とは(1) 現況/現状としての「現在進行形」

 まずは「現在進行形」の語が「現況」とか「現状」という意味合いで、現在のあるシーンの全体的な布置を指し示すために用いられる場合がある。この種の「現在進行形」を語ることは、どうしても状況論になりやすく、大雑把な「標語づくり」に陥ってしまいがちであることを注意しておく必要があるだろう。「いま〇〇の時代って言われてるじゃない。で、オレが思うにはだね‥」と始まる話は、たいていこの陥穽にはまっている。音楽であるならば、作品や演奏の具体的な細部に触れることなしに、批評たり得ることは難しい。そして個別具体的な細部から状況までの距離の何て遠いことか。もちろん、細部から積み上げて状況を語るのではなく、その細部を有する作品や演奏を、時代状況を突き抜ける特権的なものとして語るという論法はあるのだが、それはそれで典型的な物語にはまりやすい。革新者/革命者の系譜としての音楽史。たとえばロックの「歴史」は、いったいどれだけ多くの革命の象徴を抱えているのだろう。


3.「現在進行形」とは(2) 最新モードとしての「現在進行形」

 続いて、今までのモードを書き換える最新モードを「現在進行形」と称する場合がある。ジャーナリズムが用いる「現在進行形」はたいていこれだ。この場合、「今までのモードとは何か」、「最新モードの〈新しさ〉とは何か」を論者が規定するところに、一種のトリックが生じ得る。「今までのモード」とは「これまでの流行」であったり、「業界標準」であったり、「とりあえず聞きなれた『いつものやつ』」だったり、何でもござれだ。同時に〈新しさ〉の定義も千差万別、多種多様、自由自在。すると当然のことながらある種の逆転が生じて、売り手側が勝手につけた「キャッチ・コピー」が〈新しさ〉を保証し、当の対象を「現在進行形」に祭り上げるということが起きる。「〈新しさ〉の捏造」とでも言うべきか。
 そもそもモードの移り変わりの中で評価されるのは、過去と地続きの延長線上に現れる「わかりやすい未来」でしかない。瞳を、耳を不意討ちするような存在は、そもそもモードたり得ない。印象派、ダダイズム、未来派、キュビスム、シュルレアリスム、構造主義等、かつてのようにわかりやすい宣言や党派が運動を主導する「イズムの時代」はもうとうに終わってしまった(それはアルフレッド・バーが作成した有名なフロー図として歴史化されている)。いまやモードはもっと消費中心の並列的な(横一線にずらりと並べられて、どれでもよりどりみどりの)何かだ。だが、たとえそうだとしても、では最新流行の、いま一番売れているものが「現在進行形」なのだろうか。「そうだ」と言うなら話は早い。ならばAKB48が「現在進行形」なのだ。彼女たちがジャズ・ナンバーを採りあげたなら(決してあり得ない話ではあるまい)、それが「ジャズの現在進行形」ということになる。だが、そんなにもわかりやすい話で果たしていいのだろうか。


4.「現在進行形」とは(3) 〈不意討ち〉するものとしての「現在進行形」

 そして三番目に、前二者と比べて、いかにも不安定な「現在進行形」がある。ふらふらとさまよいでて、あてもなくただよい、いまのところ位置づけも帰属先もよくわからない音の群れ。それが〈新しさ〉なのかどうかも未だ明らかではないが、それが聴き手の耳を不意討ちし、途方に暮れさせ、いまのはいったい何だったのか‥‥と、それについてまた聴きたい、語りたいという欲望を強く惹き起こす限りにおいて、それを「現在進行形」と呼んでしまおうというわけだ。それは潮流のぶつかりあいがたまたまつくりだした砂洲のようなもので、しばらくしたらかげもかたちも消え失せてしまうような、束の間の儚いものかもしれない。歴史の流れに痕跡すら残さないかもしれない。たとえそうであっても一向に構うまいというのが、ここで「現在進行形」の語に込められた潔さと解すべきだろう。
 先ほど「イズムの時代」の話をしたが、「前衛の時代」ももう過ぎ去って久しい(両者はほとんど同じものだった)。先の「現在進行形」が前衛として時代を革新し、やがて光栄舞台がこれに追いついて、前衛は古典となり、歴史化されるという物語はもう成立しようがない。「今日のチャーリー・パーカーは、昨日のパーカーとはまったく違う姿でこの地上のどこかで演奏しているだろう」(高橋悠治)。だが誰もそれに気づかない。逆に言えば、将来古典となる可能性が「現在進行形」を支えているわけではない(同様に「将来の値上がり可能性」もまた。音楽は株券ではない)。
 と言って、それはもちろん単なる「マイ・ブーム」とは異なる。それは「語りたい欲望」が紡ぎ出した思考をたどれば明らかになるだろう。耳を不意討ちしたのがいったい何物であるのか。思考はこれまでの体験や知見を懸命にスキャンしながら、この未曾有の事態をとらえ名指すべき言葉を探し求める闘いを展開する。それが思わず惹き込まれるように魅惑的なものであるならば、それは彼/彼女が見出したかけがえのない「現在進行形」なのだ。そしてその「現在進行形」の闘いに参加するならば、それはあなたにとっての「現在進行形」ともなり得るだろう。


5.「現在進行形のジャズ」

 益子博之の言う「現在進行形」を、私はこの最後の定義において受け止めている(今回のディスク・レヴューの「余白」に書き留められた言葉は、具体的な細部の描写分析に欠け、そのぶん状況論やモード論に傾いているが、それはしょうがない)。彼は、多田雅範とともに主催するイヴェント「四谷音盤茶会」で、彼の耳がとらえた「現在進行形のジャズ」を提示し続けている。そのセレクションを「偏りがある」と非難することは簡単だ。だが、シーンの方向性や将来像が共有され、誰の眼から見てもそれに合致する作品があるとしたら、先ほどの定義からすればそれは「現在進行形」ではあり得ない。
 それゆえ「現在進行形のジャズ」はジャズの将来をまったく保証しない。それは後になって、ジャズとは似ても似つかぬ異なる名前で呼ばれるかもしれない音楽である(もちろん後になって、「これこそがジャズだ」と言われる可能性だってある。それは否定しない)。フリー・ジャズが登場した頃には、単に「ニュー・シング」と呼ばれていたことを思い出そう(現在の「フリー・ジャズ」は古色蒼然たる伝統芸能としてのジャンルか、あるいは依然として歴史化されることのない「よくわからないもの」をとりあえず放り込んでおく「隔離室」の名称みたいになっているが)。
「現在進行形」として指差されているものが、ひとまとまりのまま推移して、後に名称が与えられる可能性は決して高くはない。それは空を流れる雲のようにすぐに形を変えてしまうし、だいたいが夜空に輝く星座みたいに、たまたま〈いま/ここ〉から見ているからあのようなかたちをしているだけかもしれないのだ。


6.「現在進行形」と批評的瞬間

 私が自分の好んで聴く音をとらえる場合の「現在進行形」の感覚も同様である。それは何よりも素早く変化/推移している。植物の根の先端の最も細胞分裂が盛んな「成長点」。それゆえ輪郭を明確にとらえ難いにもかかわらず、そこには共通の匂いや手触りがあって、ひとまとまりに論じたい欲望を掻き立てられる。いや、むしろひとまとまりにとらえることによって、かろうじて目鼻がついてくるような気がする‥‥と言った方が正確かもしれない。魅惑的な相貌をたたえた細部が、様々な予兆や暗号めいた符合、思わせぶりに交し合う目配せを通じて、探索を思考を誘っているように感じられる。それは端的に「魅力的な謎」と言ってもいいかもしれない。
 「そこに何かある」というのは、研ぎ澄まされた直感の帰結であるとともに、批評の到達点にして新たな始まりでもある。その点で批評とは「賭けること」にほかならない。

 耳を不意討ちされて立ちすくみ、思わず音のした方を見据える。眼が暗闇に慣れてくるにつれ、何か景色のようなものが浮かんでくる(これは言葉の世界でも同じだ。意識が深みへと降り立ち、視界が澄んでくるにつれ、新たな言葉のつながりが見えてくるようになる)。景色が明らかになるに従い、そこから逆に照らし出されるように、見詰めている私自身の身体が浮かび上がる。それとともに同じ方を見詰めている人影が他にもあるのに気づく。「ここには何かある」との確信をいよいよ深める瞬間がそこにある。


      
    私の耳のとらえた「現在進行形」の音盤からの5枚
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批評/レヴューについて | 23:23:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
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