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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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マティエールの感染-「マックス・エルンスト展」レヴュー-  Infection of Matiere-Review for "Exhibition of Max Ernst"-
 横浜美術館で開催されている(6月24日まで)「マックス・エルンスト-フィギア×スケープ 時代を超える像景」を観てきた。今回はそのことについて書いてみたい。
 なお、今回の作品展示はコラージュ、フロッタージュ、挿絵原画、油彩等、多岐にわたるものであったが、そうした幅広さすらもエルンストの広大な作品世界の一端を明かすに過ぎず、かえって彼の多彩さ/多才さを印象づけるものとなった。それゆえ本稿では「エルンスト論」的な構えは採りようもなく、ただ気づいた点、印象に残った点等を幾つか記すにとどめたいと思う。
  
マックス・エルンスト展ちらし


1.精密さへの志向

 今回の展示でまず驚かされたのは、エルンストの精密さへの揺ぎない志向である。挿絵原画は思った以上に小さく(印刷の原寸大?)、ほとんどミニアチュールと言ってよいほどで、(部分によっては)実に細密に描き込まれている。また、コラージュ作品では、各断片を貼り合わせた跡がまったくと言ってよいほど見られない。紙の地の色そのものが違うので、「この部分が貼り付けられた断片である」ことはわかるのだが、その断片の切り抜かれた輪郭を看て取ることはできない。上から貼り重ねられた厚みも感じられない。そこから浮かび上がってくるのは、コラージュによってもたらされるシュルレアリスティックな画面の「あり得なさ」を、魔法のように浮かび上がらせたいという欲望もさることながら、むしろ精密に貼り合わせること自体に対するフェティッシュな志向のように思われる。

 さらに『マクシミリア(Maximilia)』への一連の挿画においては、滑らかなドローイングによるフィギアから〈絵文字〉、象形文字を経て、ばらばらに振り撒かれたアルファベットに至る段階的な形態変化の相の中で、端正に並べられた〈絵文字〉が平面構成の主役となっている。それぞれの〈絵文字〉は、隣接性の原理を絶妙なバランス感覚で適用され、見事に凹凸を組み合わせており、一様な密度のブロックを形成している。それによって現れる空白部分の配置の完璧さは、空間恐怖に突き動かされた「詰め込み」の息苦しさを一切感じさせることがない。エルンストにおいて、細密さは正確無比な精密さを経て、広々とした余白/空間の開放へと結びついているのだ。

 このことは今回展示された最初期の作品から、彼の印刷された文字や図版への嗜好とというかたちですでに現れている。また、彼のコラージュ作品に素材として、雑誌から採られた銅版によるモノクロの挿絵(特に科学実験の場面が多い)が多く用いられているのも、濃淡の度合いをつくりだすために刻まれた線の細密さ/精密さと、印刷されることによって得られる「揺ぎなさ」の感覚ゆえではないだろうか。
    
  「白鳥はとてもおだやか…」       「鏡の中の天使」
わずか8.3cm×12cmという細密さ  同様に12.3cm×11.5cm

        
  『マクシミリア』挿画から  ドローイング集「Fiat Modes」表紙
  絵文字による平面構成  印刷された図版と文字の揺るぎなさ


2.マティエールの感染

 エルンストの作品を画集等で見る時には、「コラージュ・ロマン」のような作品系列が存在することもあって、コラージュはコラージュ、フロッタージュはフロッタージュ、デカルコマニーは‥‥と技法によって作品を分類してしまいやすいように思う。少なくとも私はそうだった。今回の展示を観て改めて気づかされたのは、そうした各手法による効果が、個別の作品やシリーズの枠組み(前述の「コラージュ・ロマン」や一連の挿画等)を超えて、互いに流れ込みあっている点である。

 たとえば油彩作品の一部にもやもやとしたデカルコマニーのマティエールが現れ、それが背景に仕込まれた、パレットナイフによるキュビスム的な切子面と対比されつつ、さらに様々なフィギアがコラージュ的に配される。ドローイングはコラージュ素材の銅版画による線を模し、別の油彩はグラッタージュ(絵具を掻き取る技法)のタイル面にも似た滑らかで硬質な輝きをたたえている。また、ドローイングや油彩の別を問わず、至るところに全体構図とは異なる「別の遠近法的空間」(時にそれは極端に簡略化され、単なる矩形と斜線の組み合わせに至っているのだが)がコラージュ的に仕込まれる。

 こうした効果の「流入」(「導入」と言うほど意図的ではなく、むしろ「なってしまった」感が強い)は、前述のように作品の枠組みを超えて飛び火しており、事後的な「感染」の印象すら与える。すでに描きあげた作品が、後から病に冒されて、そのマティエールをそのように変質させてしまったとでも言うように。
    
       「風景」              「つかの間の静寂」          「三本の糸杉」
 デカルコマニーのもやもやとした肌理やグラッタージュの光沢   周縁部に仕込まれた別の空間


3.ドイツ・ロマン主義の流れ

 エルンストのコラージュは、必ずシンボリックな物語を連れてくる。これは「コラージュ・ロマン」の作品群に限ったことではない。そこに現れるフィギアは記号的な装飾や類似した部分の拡大/縮小された投影を通じて、夢に似た換喩的な範列をかたちづくり、時に有名な「ロプロプ」のような「キャラクター」すら生み出すに至る。彼(=ロプロプ)もまた作品の枠組みを超えて神出鬼没な活躍を繰り広げるだろう。

 そうしたシンボリックな物語への志向は、彼をドイツ・ロマン派的なものへと結びつける。また、彼が繰り返し描いた奥深い森は、シュヴァルツヴァルト(黒森)のひんやりと湿った空気を連れてくる。そこに途方に暮れたように佇むフィギアとともに。そうした作品を見ると、やはり彼をドイツ・ロマン派、とりわけカスパー・ダーフィト・フリードリヒ以来の流れに位置づけたくなる。
 今回の展示の中で、フリードリヒの代表作のひとつである『海辺の僧侶(修道士)』が巻き起こした騒動(「何て空虚で非人間的な絵だ!」等の轟々たる非難が巻き起こった)を題材とした(非難を揶揄した‥ということはフリードリヒを擁護した)著作に、エルンストが提供した挿画を見ることができた。やはり‥と、そこに通ずる血脈の濃さを思わずにはいられない。
    
      「石化した森」          「少女が見た湖の夢」        「自由の称賛」
    奥深くしめやかな森に潜む神秘的ロマンティシズム     そこに淋しげに佇むフィギア


【追記】

 特別展示であるマックス・エルンスト展を観た後、そのまま同じフロアで横浜美術館の収蔵品による展示を観て回ることができた。現代美術の有名作家の作品(ブランクーシ「空間の鳥」をはじめ立体作品も多い)が幾つも並んでいたが、特に印象に残ったのは写真のゼラチン・シルバー・プリントの展示だった。
 ひとつは「シュルレアリスムと写真」と題された展示であり、マン・レイ、アンドレ・ケルテス、ジャック=アンドレ・ボワファール、ブラッサイ、果てはハンス・ベルメール等による、それこそ教科書で見るような作品が並んでおり、改めてその静謐な喚起力を味わうことができた。特に惹かれたのは、初めて観るインドリッヒ・シュティルスキー(Jindrich Styrsky)の『この頃の針の先で(From On the Needle of These Days)』と題されたシリーズからの作品で、9.4cm×9.0cmという本当に小さな区画の中に、古い家の階段の踊り場に置き忘れられたような記憶が詰まっている。ジョセフ・コーネルの〈箱〉にも似た感慨を覚えた。

 もうひとつもやはり写真なのだが、中平卓馬の作品が彼の第一写真集『来たるべき言葉のために』の頃の作品から、倒れた後、活動再開後の『原点回帰-横浜』所収の作品まで、やはり大判のゼラチン・シルバー・プリント等で並べられていた。
 たとえば1971年にパリで行われた第7回青年ビエンナーレ展に、その場で撮影した写真(新聞の紙面やTV画面の映像等を含む)を即刻展示することで応じた『サーキュレーション-日付・場所・イベント』からの抜粋は、ゴダール『気狂いピエロ』を思わせるポップな速度と切断の美学(性急な切断が更なる加速を招き寄せ、破滅的な加速がさらに痙攣するような切断を呼び込む)が踊っている(今年4月に作品集として出版されていたことを後から知った)。
 『プロヴォーク』時代の「アレ・ブレ・ボケ」によっていまだに森山大道と並べて語られることの多い中平だが、彼が焼き付ける、こちらに向けて問答無用に立ち上がってくる危機的な光景は、森山が都市の片隅に見出す点景とは、ずいぶん距離感やこちらに切迫してくるモーメントが異なっているように思う。
 中平の写真を読み解くカギは、初期のモノクロームに荒々しく切り取られた光景であっても、活動再開後のカラーによる一見凡庸に何かをそのまま「写した」写真であっても(今回の展示にはおなじみの猫やベンチで寝ているオヤジの姿はなかったのだが)、背景や地面がこちらに垂直にせり上がってくるように撮られ、視線が画面上を揺らぎさまよわざるを得ない〈オールオーヴァネス〉にあるように思う。
 画面に写り込んでいるのが猫や寝ているオヤジの姿であるがゆえに、私たちはそれをよく見知ったものとして、ろくすっぽ見もしないでざっと画面をスキャンし、簡単に輪郭をトレースして図像を浮かび上がらせ、被写体として特定し、何か「写真を見た」気になってしまう。だが、彼の写真の特質は、そうした被写体特定のプロセスが発動してしまう手前にとどまることによって明らかになるだろう(図像/フォルムを浮かび上がらせにくくするものとしての色相、写真集見開きページのレイアウトにおける濃淡や形象のシンメトリカルな配置等)。
 視覚や風景について思考を進めていく上で、彼は非常に重要な(そして稀有な)作家ではないかと見当をつけているのだが、まだ、充分に考えることができないでいる。今後の宿題としたい。
  
 インドリッヒ・シュティルスキー『この頃の針の先で』より

    
  中平卓馬『サーキュレーション-日付・場所・イベント』より    『来たるべき言葉たちのために』より
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アート | 21:53:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
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