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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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「新・嵐が丘」讃-『Lupin the Third~峰不二子という女~』レヴュー  Hommage to "New Wuthering Heights"-Review for " Lupin the Third~The Woman Called Fujiko Mine~"
 もう先月のことになってしまったが、6月27日(水)の深夜(実際には日付が変わってもう28日になっていたが)、アニメ『Lupin the Third~峰不二子という女~』が全13話の放映を終え、無事完結した。今回はこの作品について述べてみたい。なお、一部ネタバレを含むので、未見の方は注意されたい。


 『ルパン三世』のアニメ・シリーズについては、第一シリーズ(いわゆる「旧ルパン」)の本放送時から観ており、その作品世界の独自の手触りやよく出来たプロット構成を楽しんでいた(萩原健一主演のドラマ『傷だらけの天使』の放映開始も同日、同じチャンネルだったような記憶がある)。第一シリーズについては、オリジナル演出の大隅正秋による前半と、彼が降板して入れ替わりに宮崎駿たちが加わった後半を明確に区別する見方もあるようだが、当時は一連の流れとして楽しんでいたように思う。
これに比べると、後になって始まった第二シリーズ(いわゆる「新ルパン」)は、ずいぶんと子どもっぽい造りになってしまい失望を禁じ得なかった。もちろん、観る側の年齢の変化も関係しているのだろうが。よく言われるように、宮崎が変名で関わった2回(ストーリー構成や演出だけでなく、作画や背景の仕上がりも含めて、作品の出来がまったく異なる)を除けば、概ね低調と言うことができるだろう。
 その後、シリーズは繰り返し再放送され、映画作品が制作され(実写版もあった‥忘れたい忌まわしい記憶)、2時間枠のTVスペシャル版も多数つくられて現在に至る(『カリオストロの城』以降はほとんど観ていないが)。替えが効かないと思われたルパン役の声優山田康雄の死すら乗り越えて継続しているということは、それだけ『ルパン三世』がコンテンツとして人気があるということなのだろう。

 そして今回。「40周年記念」と銘打たれ、深夜帯ながら30分番組のTVシリーズというオリジナルな枠組みが復活する。スタッフの充実も報道され(私が知っている名前は音楽担当の菊地成孔だけだったが)、期待は否応なく高まった。平日深夜という時間帯設定も、逆に言えば、ファミリー向けでない「尖った」作品内容に向けた冒険を可能にするかもしれないと。


 さて観終わった感想を言うならば、不満は多いが、数々の工夫もあり、総じてスタッフは健闘したのではないだろうか。基本的には1回完結のストーリーを積み上げながら(ただし、終わりには必ず「to be continued」と表示される)、終盤になって実は初回から張り巡らされていた伏線を次々に浮かび上がらせ、ジグゾー・パズルよろしく組み立てていく手並みは、いささか破綻もあり、決して鮮やかとは言い難いが、その意欲は買える。1クールのシリーズものならではの特質を活かしたトライアルではある。
 黒幕と思われていた人物がすでに死亡していて、彼に虐待されていた少女(年月が経過して、彼女はもうすでに少女の年齢ではなく、さらにその外見は実年齢以上に老いさらばえているが)の意識が、峰不二子に「捏造された過去の記憶」を植え付け、その後の人生を監視していた‥‥という種明かしは、屋台崩し的な大ドンデン返しではあるものの、そこまで崩してしまった結果、ルパンがあそこまで不二子に惹き付けられる魅力を与えていたはずの過去の傷跡も消し去ってしまい、結果としてルパンの不二子への執着は根拠を失って空転し、ギャグとして笑い飛ばされるしかなくなってしまう。この妙に「健全」な(お茶の間向きな?)結末はちょっともったいない気がした。というのも後で見るように、今回のシリーズの魅力は、そうしたプロット構成に回収しきれない「痛さ/イタさ」への執着/偏愛のように思われるからだ。

 そのことについて語る前に、他の点(アニメ作品としての完成度等)についてざっと振り返っておこう。まずは画調について。昨今のアニメのCG等も多用したクリアーさを嫌い、劇画的なラフなタッチと陰影を目指した狙いはよくわかる。画面に重ねられる手描きの効果線による陰影やあえて細密には描き込まない背景がその象徴だろう。けれど絵の質自体は安定しているとは言えなかった。動きについても稚拙さが目立つことがあった。これは予算上(制作作業期間)の問題もあるのだろうか。均質でない描線の採用が、絵の動きや質の確保を難しくした側面はあるかもしれない。絵コンテ段階のラフな絵だとずっと魅力的に見えたりとか。
 声優陣(先立つTVスペシャル版最新作「血の刻印」と同一キャストとのこと)は概ね好演。特に今回主役の峰不二子を務めた沢城みゆきは、むしろ第一シリーズで同役を務めた二階堂有希子の流れを受け継ぐ感じで、アニメアニメしない気品と知的なセクシーさを兼ね備えていたように思う。銭形警部役の山寺宏一は流石の貫禄。オスカーなる美青年キャラとのBL的な関係(!)も描かれるのだが、その辺も低音を効かせて魅力的に演じていた。ルパン(栗田貫一)、次元(小林清志)、五右衛門(浪川大輔)の三人組では、五右衛門が一番影が薄かったか。これはストーリー構成上の必要から、ニヒルさよりも純情ぶりをキャラ設定で強調され、中途半端にギャグ・メーカーを割り振られたことが大きいかもしれない。

 今回のシリーズ後半になると、不二子が少女時代に受けた忌まわしい虐待と幽閉生活(先に述べたように、実はそれは捏造された過去なのだが、この時点では彼女自身の過去のようにしか見えない)が繰り返し語られる。さらに、虐待とは単に身体的暴力(折檻や陵辱)にとどまらず、精神操作のための薬物投与や電気ショックによる人体実験を含むものであり、背後には巨大な製薬会社が存在し、かつて起こした流出事故により「オイレンシュピーゲル」なる街がまるまるひとつゴーストタウン化し、歴史の暗闇に葬り去られた事実が明らかにされる。
 それとともに、そうした黒幕たる強大な力の暗示として、フクロウ(ドイツ語で「オイレ=Eule」)の形象があちこちに散りばめられる。思えば初回に登場したカルト教団は「フロイライン・オイレ(フクロウの娘)」といったし(実際に背後でつながっていることが後に示される)、「オイレンシュピーゲル」とは「フクロウの鏡」を意味する(どうやらリヒャルト・シュトラウスの交響詩の元となった民間伝承「ティル・オイレンシュピーゲル」とは関係なさそうだ)。フクロウとは作品中でも語られるように「ミネルヴァのフクロウ」として知の象徴であるあるわけだが、ここではむしろ世界の混乱や人生の悪戦苦闘を小高い木の枝の上から距離を置いて冷ややかに見下す気味の悪い存在として描かれている。
 ここで注意すべきは、そうした忌まわしい過去が、単に部分的な「被害」としてではなく、不二子の人生/人格を形成する要因として執拗に描かれることだ。華美で豪奢なものへの執着も、セックスへの貪欲さ・奔放さも、そして盗むことへの押し止め難い欲望も、すべてがこのトラウマ/PTSDがもたらす強烈な依存(あるいは代償行為)のように見える。この狂乱が自意識過剰なまでの自虐的な痛み/イタさを振りまくことになる。シリーズ中には、とある芸術家によって全身に象嵌細工にも似た精緻な刺青を施され、言葉や思考すらも奪われて「生ける芸術品」とされた少女に対し、不二子が我を忘れターミネーターばりの不死身の追撃を見せるエピソードがある。「他人に自分の人生を自由に操られる存在」である彼女を抹殺することにより、不二子は自らの過去を抹消したいのだと説明されるが、これほどイタい行動もないだろう。

 そのことを圧縮して集約的に語っているのが(前もって正確に暗示しているのが)、オープニングのタイトル・バック(アニメーションと主題曲)にほかならない。甘美な繰り返しから急速に昇り詰める弦と、錯乱をはらんだ神経質なハープシコードの組合せによる、題曲「新・嵐が丘」は、むしろイタリア貴族の家族室内劇(ルキノ・ヴィスコンティ『家族の肖像』や『イノセント』みたいな)を思わせる(溺れるような精神的危機と近親相姦の澱んだ誘惑が匂い立つ)。
 橋本一子による語りの内容(作編曲同様、作詞もまた菊地成孔が担当している)も、タイトルにちなんで、かなり唐突にあざとく「嵐が丘」の名が語られる場面をはじめ、自意識過剰にして自虐的な、そして自己像と他者から見た像が限りなくズレていく自己耽溺的なイタさに満ちている(「嵐が丘」のキャサリンもまた典型的なイタい女ではなかったか)。このイタさは曲調(編曲を含む)と深夜アニメというカテゴリーとのズレ、あるいは『ルパン三世』のハブリック・イメージとの壊滅的なズレともども、「イタさ」をこそ目指した菊地の確信犯的所業と言うべきだろう(橋本の語りという人選も、イタさ中心に考えれば、ズバリ核心を突いている)。
 エリザベス・テイラーやウラジミール・ナボコフ『ロリータ』への菊地の偏愛はよく知られている。それはそのままイタさへの偏愛/執着なのではないだろうか。菊地は別にいたいけな少女や小悪魔そのものが好きなわけではなく、実はファッションとしてのロリータ好きですらなく、概念としての少女/ロリータがオブジェクト・レヴェルに舞い降りた際に身にまとわずはいられない「苦い」乖離性(それゆえ彼女を取り巻くアイテムが注目を集める)を、とびきり純度の高い「イタさ」として愛しているように思えてならない。

 そう考えると、本質的にイタい女のイタい物語である『Lupin the Third~峰不二子という女~』が、それゆえに菊地に参加を求めたとすれば(というより、よりによって『ルパン三世』の音楽をDCPRGの、ダブ・セクステットの、ペペ・トルメント・アスカラールの菊地に依頼する思考の脈絡が私には思いつかない)、これほど的を射た人選もない(それこそ嘘のように)。この点では、この作品の大要はオープニング・アニメーションに集約されている(尽きている)としても過言ではあるまい。(二人の不二子が交わす熱いキスがシリーズ中のエピソードでも語られる同性愛(レスビアン)的なものというより、二人の不二子の拳銃による決闘シーンに先立たれていることが示すように、ここでは自己言及/自己反復的な自己愛/自己耽溺でしかないのと同様、見せびらかされる裸身の放つエロスも、薔薇の棘に縛られるマゾヒズムも、すなわち自虐であり、肥大した自意識の病でしかない。
 「さあ すべてのことをやめ 胸だけをときめかせながら 私のことを見つめて」と始まる歌詞は一見女王様然としているようでいて、他者を消去し、自分自身だけを見詰めようとする不安に震えている。「盗むこと それは壊すことでも 奪うことでもない 特別に甘い悪徳」と彼女はそれが自らのための聖なる儀式であることを認めている。「心理的根拠は 不明」と念押ししながら(この辺は自称フロイディアンの菊地らしい)。以降、語りは「しゃべらないで逃げて 逃げないで隠して 見つけたら罰して 罰したら殺して 私を救って‥」と高揚は頂点に至る。自分でも止めようのない憑かれたようなモノローグとして、繰り返しの対称性を螺旋状に崩しながら加速を続け、自己愛と自己破壊の衝動の矛盾を祈るように爆発させながら。

 実は菊地は「新・嵐が丘」以外にも結構な量の音楽を、このシリーズのために書き下ろしており、それらは第一シリーズのチャーリー・コーセイを髣髴とさせるシャウトの入るホットなファンキー・ナンバーやピアノのフリーな乱舞など、かなり多岐に渡っている(「サムライ・フレンド」や「みんな大好き峰不二子」等の子どものうたや、古びた遊園地に響く手回しオルガンは演出の要請だったのだろうが)。これらの音楽が演出上効果的に使用されていたかと言えば、いささか疑問が残る。素材を充分に活かせなかったとの「宝の持ち腐れ」感が強い。菊地自身が本作品の音楽担当について、かなり緊張/苦労したと語ってもいるだけに。
 「新・嵐が丘」の終盤、タイトル文字のフラッシュと交錯しながら、昇り詰めた弦がピアノの連打とともにタンゴばりにたたみかけ、最後、ブラシによるスネアだけが残って淡々とコーダを締めくくる(画面は妖しく揺らめきながらモノクロームに沈むケシの花の図柄)あたり、なかなかよく出来ていただけに、本編中でも、こうした画面と音楽のシンコペーションぶりを味わいたいところだった。


『Lupin the Third~峰不二子という女~』OPから

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映画・TV | 16:12:29 | トラックバック(0) | コメント(0)
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