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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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日常と伝説-『ドキュメント灰野敬二』レヴュー  Everyday Life and Legend-Review for "A Document Film of Keiji Haino"
【前口上】
 友人たちの評判が良いので、7月7日からシアターN渋谷でモーニング/レイト・ショー上映されている『ドキュメント灰野敬二』を観に行ってきた。観る前にはそれでもいろいろ構えるところがあったのだが、観終わって至極素直に感動したので、今回はこの作品について語ることにしたい。


1.記憶と現実、日常と伝説

 灰野=「灰」の「野原」。
 「本名なんですか」と訊かれることもあるという自身の名前について、灰野はこう絵解きしてみせる。この導入部ではむしろ彼の特異性が暗示される。今の灰野敬二へとなるべくして至った何か宿命的なものが。
 しかし、そうした感覚は、その後たどられる幼年時代からの記憶の中で、いつしか崩れ去り沈んでいく。千葉県市川市に生まれた彼は、川越市に引っ越すまでの間、近くにあった動物園「谷津遊園」へ両親に何度も連れていってもらったと語る。その頃は動物園の園長さんになりたいと思っていたとも。私も母方の祖父母が池袋から市川市に転居した関係で、祖父母の家に遊びに行った際に「谷津遊園」に連れていってもらったことがある。どんなところだったかもう全然覚えていないけれど。灰野の軌跡とのほんの小さな重なり。

 自由にさせてくれた幼稚園、集団の枠にはめようとする小学校、共働きの両親の帰りを待つ親戚の家、バス停まで出迎えに来てくれる母親、おそらくは束の間の息抜きの場となり得たであろう近くの教会の日曜学校、高鳴る期待が残酷に裏切られた子ども会‥‥。
 どこにでもありそうな園舎や校舎の映像、アルバムの古びた写真、ガスタンクのある風景が灰野の語りと共にたどられる。それらはどこにでもありそうな、極めて日常的な(何の特権性も主張し得ない)光景に過ぎない。そこに自宅でインタヴューに応える灰野の姿や、民族楽器のコレクションをうれしそうに取り出す手つき、生演奏シーン(現在の不失者)等が挿入される。
 幼時から小学、中学、高校、ロスト・アラーフへの加入、不失者の結成、初ソロ作『わたしだけ?』の制作、フレッド・フリスとの出会いをきっかけとしたニューヨーク・ダウンタウン・シーンとの交流等まで、時系列に沿った「記憶」の語りと、先に述べた現時点でのインタヴュー、ライヴ映像、CDやDVD制作に向けた綿密なリハーサル等、「現在」のシーンが交錯するが、編集の確かさもあって決して展開が錯綜することはない。過去の記憶は現在としなやかに結びつきながら、しかるべき奥行きを自然とかたちづくっていく。まるで音もなく雪が降り積もるように。

 過去の記憶が、決して現在を説明するために持ち出されているのではないことに、改めて注意しよう。小学校で強い閉塞感を味わい、これに反発を覚え、やがてそれが無視に変わっていったことや、子ども会での悲しい体験が疎外感/孤独感を強めたことが、その後の灰野の形成に大きく関わっているのはもちろん確かだろう。だが、映画はそうやって彼を説明しようとはしない。むしろ記憶の中にある環境を現在の風景や地図でたどり、それらが何の変哲もない、ありふれた街の景色であることを確認する。カメラはちっぽけな現実の手触りを丹念に積み重ねていく。そのことによって灰野敬二という「伝説的存在」を神話化することなく、観客と地続きの日常の中に立たせることに成功している。これは大きな達成だ。


2.伝達の方法-「わたし」と「あなた」を結びつけるもの

 灰野を神話化せず、日常の中に立たせることによって、彼がナスノミツル、高橋幾郎と繰り広げるリハーサルのシーンが、説得力を持つものとなってくる。文字のかたちや大きさを変えた「大」・「中」・「小」にさらに様々な書き込みを加えた灰野自筆の「楽譜」は、神話化されないことによって、訳のわからない御託宣ではなく、彼のやりたいことを何とか伝えるために編み出された、とてもローテクながら真摯に考え抜かれた伝達方法であることが明らかとなる。もちろん灰野は「暴君としての作曲者」ではなく、実現の過程で失われてしまう(あるいは新たに見出される)可能性に極めて敏感な演奏者/共同作業者である。それゆえ実際に試してみる中で、できること/できないこと/改善すべきことが明らかにされ、実際にかたちになったイメージと向き合いながら細かな修正が加えられる。

 このリハーサルや、その後で灰野自身によって説明される、擬態語的(?)に用いられた大きさや形の異なるひらがなに、音の推移を示すと思われる曲線が付された別種の「楽譜」(どこかかつての具体詩というか前衛詩的ではある。私はなぜか村山知義のことを思い出した)、あるいは音の「立ち上がり」や「濁り」をパラメータ/符号化した、また別種の「楽譜」等を見ていくと、これは一種のグラフィック・スコアではないかとの考えが頭を過ぎる。もしそうであれば、パラメータの管理を工夫して、ダイアグラム的な表現や、あるいは電子音楽の楽譜のようなグラフィックの作成も可能なはずだが、おそらく灰野が意図しているのはそんなことではあるまい。彼は音楽を彼の頭の中だけにあるもの、そこだけで鳴っているものとは考えていまい。むしろ「わたし」と「あなた」を結びつけるものとしてとらえているのではないか(ここで「あなた」とは共演者であり、スタッフであり、聴き手でもある。要は広義の「共同作業者」にほかなるまい)。彼が手っ取り早く一人多重録音で作品をつくりあげようとしないのは、そのためではないだろうか(たとえ自分で演奏したものであっても、あらかじめ録音された、その場で変わらない/反応しないものに対し、重ねて演奏する彼自身が嫌になってしまうということもあるかもしれない)。

 Plan-Bにおけるパーカッション・ソロの演奏の映像収録において、彼は照明のオンオフや照度/絞りの変化、カメラのズームのタイミングや度合いを、先ほどの「大」・「中」・「小」を用いた「楽譜」に似たやり方で組み立てようとする(もちろん彼自身の身体の運動や打楽器からの出音、響きの広がり等を含め)。実際、それは不失者の演奏に近い(具体的にはやはり『光と名づけよう』か)。異なる周期で(間歇的にあるいは伸び縮みしながら)繰り返されるリズムが重ね合わされ、ずれ、衝突し、砕け散る。灰野は撮り終えたパーカッション・ソロの映像について「たとえ音が聴こえなくとも音楽を体験できる」と語っているが、まさにこれこそが目指したことだろう。しかも極めて灰野的な仕方で。ねらいを説明し、理解を共有した上で、実際の手順・やり方について提案し、実際に試してみながら、できること/できないこと/改善すべきことを明らかにし‥‥という進め方は、まさにナスノや高橋とのリハーサルと同じである。むしろPlan-Bの方が灰野の撮影や照明に関する知識・経験が少ないため、それだけ試行錯誤が多くなり、集団創造の比率が高まっているが。

 彼は「やりたいことがだんだんできるようになってきた」と語りながら、「もっとこうしたい‥ということを、以前よりちゃんと説明し伝えられるようになった」と付け加えるのを忘れない。彼は亡くなった盟友小沢靖のことを毎日思い出すというが、長年苦労を共にし、阿吽の呼吸で事を進められたであろう彼を失ったことが、灰野に意志伝達の手段について改めて考え抜くことを課したのではないかとも思う。いずれにしても、彼の演奏/音楽が閉ざされた秘術などではなく、こうした開かれた地平を踏みしめ、度重なる挑戦と試行錯誤に支えられていることを、とても丁寧にかつ自然体で示し得たのも、本作の大きな功績だろう。


3.芽生えたばかりの決意

 終盤、がらんとした野外音楽堂で、灰野が「ここ」をひとり弾き語る。声は柔らかな吐息をはらんで聴き手の肌にそっと触れてくる。と同時にその声/言葉は、初めて自分の2本の足で立ち上がったような、まっすぐで瑞々しい決意に満ちている。優しく聴き手を包み込む子守唄であると同時に、自我が芽生えたばかりの子どもの痛々しい決意のひたむきな表明でもあるうたは、観客の心の奥深くにすっと触れてきて、これまでスクリーンに映し出されてきた幼稚園入園以前からの各場面、様々な出来事の甘苦いフラッシュバックを呼び起こす。ぐるぐると巡る、「いま」でも「遠い昔」でもあり、「わたし」のものでも「あなた」のものでもある記憶の群れが立ち騒ぐ。にもかかわらず、映像がとらえるのは、がらんとしたステージの上にぽつんと立つ、たった一人のアーティストに過ぎない。音楽や映画の力の偉大さを感じる瞬間だ。

 映画では屋外の映像であるため意識されないが、サウンドトラックCDでこの部分を聴くと、最後のギターが鳴り止んだ後に続く長い沈黙で、小鳥の声が聞こえる。そして灰野が「終わります」とぼそりとつぶやく。響きの行く末を見定めながら、音楽は永遠に続くことなく、一回一回いつも終わってしまう(終わってしまわないわけにはいかない)という運命、厳正な事実と正面から向かい合うように。


4.終わりに

 本稿でこれまで何度か書き付けてきたように、灰野の伝説化/神話化に与することなく、観客と地続きの日常の中に彼を立たせている点で、本作品を高く評価したい。そして、にもかかわらず、音や映像の力を存分に引き出している点においても。
 むしろ本作品は灰野を聴いたことがなく、名前すら知らない人に観てもらいたいと思う。他の作品との併映や(ドキュメンタリー)映画祭/特集のプログラムに組み込まれる等により、思いがけず灰野の姿を眼にして、あるいは声や演奏を耳にしてしまう人が増えればと願わずにはいられない。



【上映情報】
上映会場:シアターN渋谷(http://www.theater-n.com/)
モーニンク゛・ショー 11:00~
レイト・ショー 21:10~

映画『ドキュメント灰野敬二』公式サイト
http://doc-haino.com/
予告編等も見ることができる

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映画・TV | 18:01:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
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