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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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沸騰する「イズム」の中の交流/交換機-村山知義展レヴュー  A Switchboard in Seething "ISM"-Review for Exhibition of Tomoyoshi Murayama
【前口上】
 世田谷美術館で9月2日(日)まで開催されている村山知義展「村山知義の宇宙 すべての僕が沸騰する」を観てきたのでレヴューしたい。私がもともと村山知義を知ったのは、クルト・シュヴィッタースのことを通じてだった。その時点では彼の多様な活動の全体像など知るはずもなく、単にシュヴィッタースと類似した、「メルツ」的な(ということはまったくマックス・エルンスト的でない)ジャンクなコラージュ作家としてだった。代表作のひとつ「コンストルクチオン」も言わば立体コラージュと見なしていた。今となれば、シュヴィッタースの場合には、彼の作品群を総称する「メルツ」という語自体が、もともとコラージュ用に切り取られた紙片にたまたま残されていた印刷文字から採られているように、語/文字へのこだわりが非常に強く、これは村山との非常に大きな違いだと思うのだが。やがて『マヴォ(Mavo)』の活動の多様な広がりを知り、彼に対する関心をますます深めていくことになる。決定的だったのは音盤レクチャー「耳の枠はずし」で清水俊彦のことを調べていた時、第一次大戦後の各イズムの百花繚乱が日本国内でもほぼ同時期にすでにして展開されており、その中で村山が大きな役割を果たしており、さらに清水の先達にして盟友というべき植草甚一が前衛・舞台美術に興味関心を持ったきっかけが、村山の作品との出会いであったことを知ったことだった。
 村山の全体像はとらえ難い。今回の展覧会を観て、収拾がつかないほど、ますますイメージが拡散してしまった感すらある。それでも逆に言えば、それこそが村山知義なのだろう。ずらりと並べられた彼が表紙デザインを担当した雑誌の数々に象徴されるように、ある意味とりとめなく並列的な展示も、彼の活動を素直にとらえたものと言えるのではないだろうか。それらを収めた図録も、大判の写真が少ない等の不満もあるが(「コンストルクチオン」なんて見開き写真もあってよかったと思う)、多くの資料点数を収録した労作であることは間違いない。
  
 村山知義展ちらし         同図録


1.イズムの沸騰

 村山知義展の第Ⅰ章「前兆:1920」は、彼の子ども時代でも、初期作品でもなく、束の間の雨季の訪れた砂漠地帯のように、各種イズムが一斉に花開いた、第一次世界大戦後の時代状況から始まる。イズムは互いに咲き誇るだけでなく、入り乱れ、互いに影響を与えあった。それは遠くヨーロッパの話だけではない。マリネッティが1909年2月20日に仏フィガロ紙に掲載した「未来派宣言」が、同年5月1日発行の『スバル』に掲載された森鴎外「椋鳥通信」でいち早く日本に紹介されたように、すでに世界は打てば響く鋭敏な同時代性のうちにあった(あるいは電子メディアの発達した現代よりもはるかに。むしろ現代においては《同時代性》なるもの自体が解体し、不可視の存在となってきているのではないか)。当時の日本でも、ダダが、シュルレアリスムが、未来派が、ロシア構成主義が、それぞれに機関誌を発行し、活発にしのぎを削りつつ、新たな交流と運動を芽吹かせていた。
 これらの各種イズムはヨーロッパの地にあっても、後にアルフレッド・バーが作図したツリー状の系統図(事前から事後への一方的な影響関係の連鎖と不可逆な分岐)に到底収まるものではなく、その中で活動していた、いやこの沸騰する鍋の中に否応なく放り込まれることとなった者たちにとっては、そうしたイズムを超えた横断的な、いやむしろ個々人の偶然遭遇を含む、とりとめのないほど多重な交流と相互の影響関係があった。遠く離れた日本においても、幾人かが個人的な窓口となり、たとえばW.B.イエイツやエズラ・パウンド等との個別の交流が始まっていた。
 展示はまさにこうした同時代のイズムの渾然たる沸騰を事実の羅列として物語るべく、カンディンスキーの繊細な力学に基づく抽象を、ジョージ・グロッスの真実を赤裸々に描き出すがゆえに眼を背けたくなるような野卑な描線を、エル・リシッキーの簡明な幾何学的構成を、クレーの暗いファンタジーを、語や文字列に偏執的なこだわりを見せるクルト・シュヴィッタースのメルツ作品(コラージュ)を、ダダや未来派の機関誌類を、我々を取り囲むように並べ立てていく。
      
 ワシリー・カンディンスキー    ジョージ・グロッス    エル・リシツキー    クルト・シュヴィッタース
*展示作品の写真を掲載したため、かならずしも代表作ではありません。


2.《交流/交換機》
 
村山知義がヨーロッパのメトロポリスたるベルリンを訪れたのは、そうした最中1922年のことだった。第Ⅱ章「伯林(ベルリン):1922」の展示はこの時期を対象としている。彼は現地で様々な活動に参加し(というより慌しく駆け抜け)、一定の評価を得て帰国した。しかし、彼の画風は滞欧当時から一定せず、激しく揺れ動いている。女性の肖像の連作においても、フォルムのとらえ方もマチエールも違うばかりか、抽象/具象度すら大きく異なり、神経質な鋭い眼差しの印象だけが共通している。
 翌1923年に帰国した彼は構成主義的な機関誌『マヴォ(Mavo)』を発刊し、絵画、コラージュ、立体構成、彼自身の両性具有的な身体を活かしたダンス/パフォーマンス、子ども向け雑誌からプロレタリア機関誌に至る表紙や広告のデザイン、ポスターやチラシのデザイン・制作、書籍の装丁、絵本や挿絵の制作、評論や理論的著作の執筆、演劇舞台装置の設計、劇場の内装、建築デザイン等を並行して、まさに同時多発的に展開する(後には小説すら執筆している)。第Ⅲ章「沸騰 1923-1931」で展開される、この極端に幅広い活躍ぶりは、あるいはレオナルド・ダヴィンチのようなルネサンス万能人を連想させるかもしれない(今回の展覧会の惹句でも「日本のダヴィンチ」とそのことを暗示していた)。
 しかし私には、彼の縦横無尽な多面的活動は、世界/宇宙との照応関係を背景としたルネサンス万能人とは異なり、より具体的なネットワークによる《交流/交換機》を思わせる。「交流」などと言うと、宮沢賢治「春と修羅」序の「わたくしといふ現象は 假定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽靈の複合體)」との有名な一節がすぐに浮かぶが、宮沢賢治の「交流」がぼうっとしたおぼろな実体のなさ、ホログラム的な淡さ、希薄な熱のなさを示すのに対し、村山における「交流」は、あちらこちらで同時にけたたましく鳴り響く電話のベルに応えて、即座に切り替えられつなぎ替えられる電話交換機の、あるいは発信音を操作するためにコードがスパゲッティ状にパッチワークされる巨大なモジュラー・シンセサイザーのそれであり、実態的な電圧と熱量と回路と運動に満ち満ちた、様々な変化と結果を生み出さずにはいない生産的なものにほかならない。
 ほとんどカオスに等しいイズムの錯綜/混乱から、状況の要求に応えて適切な帰結を引き出す。それはごく狭い周波数帯の中にひしめく短波の中から、クリアに放送を受信してみせる高感度のラジオを思わせなくもない。性格に信号を選び出し、適切なチャンネルに接続する。しかしそれは情報をそのまま情報として処理するのではなく、自らの身体を介し運動/活動へと変化させ、分岐させるものとなっている。『マヴォ』や「三科」の運動/活動をそうした枝分かれの軌跡ととらえることができる。と同時に、村山の画風/作風、色彩や形象への好み、活動領域自体が風に吹かれるようにころころと変化していく。これもまたひとつの軌跡にほかなるまい。もちろん彼のしていることは、単に要求に合わせてとっかえひっかえイズムや様式をアレンジしてみせることではなく、先に述べたように、そこから単なる課題に対する解決を超えた、見事と言うほかはない適切な帰結を引き出すことにあるのだが。
    
 少女エルスベットの像    ヘルタ・ハインツェ像  あるユダヤ人の少女像
        
             機関誌『マヴォ』表紙 1・2・3・7号

       
ダンス・パフォーマンス    山の手美容院          映画館葵館内装
    
               電話交換機                    モジュラー・シンセサイザー


3.キネティックな機械仕掛け

 ここでカギとなるのが、彼がずっと手放さなかった構成への志向/手触りではないだろうか。立体構成作品「コンストルクチオン」を実際に観ると、さほど大きくないヴォリューム、一見簡素でバランスの取れた配分の中に、様々な雑多な要素が詰め込まれていることに驚かされる。主たる部分は木片で構成されているが、各部分は同一平面に揃うことなく微妙にせり出し、あるいは引っ込んで、でこぼこした不均一さをつくりだしている。そして木質や木目はモンタージュされた各ピースで異なり、枠の部分すら連続した一体のものではない。さらに織り目の異なる布地(もしゃもしゃと絡まりあう毛(?)の部分を含む)や色合いや光沢、反射等の表面の風合いが違った金属板が張り込まれている。
 右上の写真モンタージュや右下のグリッドの中に刷り込まれた記号、あるいは他にも絵柄の配置があることを考えれば、この作品がグリッドやパネル、幾何学的形象の組み立て(単なる組合せではなく)による《視覚的構成物》であることは明らかなのだが、作品を構成する様々なピースの材質間の違いを間近でまざまざと見た後では、これはむしろそれ以前に《触覚的構成物》なのではないかと思わずにはいられない。すべすべと磨かれた表面とざらざらした切り口が接合され、指先に木目が浮かび、それがまた異なる角で組み立てられ、角が丸められていたり尖っていたり、布地の手触りの違いはもちろんのこととして、おそらくは金属板の手触りや温度感すら異なるのではないだろうか。もちろん展示物である以上、実際に作品に触れてみることはできなかったのだが。
 そうした《触覚的構成物》への夢想は、本作品を構成する各パーツがすべて可動で、浮き上がったり沈み込んだり、傾いたり、回転して向きを変えたり、あるいは各部が単独で動くだけでなく、矢印の軸の部分がキューのように動いて先端部を突き動かしたり、グリッドがパタパタとからくり時計のように組み替わったり、円盤が回転して他の部分と歯車のように噛み合い運動を伝えたり‥‥というキネティックな《機械的運動》への空想へと膨らむ。いま眼の前にある「コンストルクチオン」はそうした各部の運動が連動して刻々とつくりだすバランスのうちのひとつの瞬間に過ぎないのではないかと(『マヴォ』の表紙が縦組み/横組みの混在のみならず、逆さの字組みもしていたことが思い出される)。
 築地小劇場を興した小山内薫が「日本最初の構成派舞台」と賞賛した村山による「朝から夜中まで」の舞台装置も、単に様式的/意匠的に構成主義的であるというだけでなく、戦艦の甲板を思わせる舞台が登場人物たちの集合的な運動や照明の明滅/変化等によって、互いに離れた部分、異なる空間同士を新たに接合しながら、自らをいきいきと組み替え、ダイナミックな動きを生み出していくように思われる。そこには「コンストルクチオン」と同様のキネティックな機械仕掛けの感覚、ペーター・フィッシュリとダヴィッド・ヴァイスによるヴィデオ「事の次第」(※)が映し出していく「ドミノ倒し」的に様々な仕掛けが次々に連続し、衝突や転倒、燃焼や気化、物理的/化学的な変化による絶え間ない運動の伝播/連鎖のプロセス(ドゥルーズ/ガタリ的な「諸機械」)が確かに仕込まれている。それはまさに作品/舞台上に立ち騒ぐ様々な要素を適切につなぎ替え、接続し直す《交流/交換機》の作動ぶりにほかなるまい。
※「事の次第」については拙ブログの次の記事を参照
 http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-95.html
 http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-96.html

  
    コンストルクチオン      「朝から夜中まで」舞台模型
  
           「朝から夜中まで」舞台風景


4.不連続なモンタージュ

 村山の代表的作品というべき「コンストルクチオン」や「朝から夜中まで」の舞台装置は、このようにして、キネディックな機械仕掛けの連続的なメタモルフォーゼから、ある瞬間を取り出したように見えてくる。ずらりと並んだ、彼がデザインを担当した雑誌の表紙群やポスターの数々を見ても、それらが彼の作品世界の全体像を明らかにする感じはしない。それは美術作品や舞台装置、建築作品をはじめ、多くの作品が失われ、写真パネルでしか展示されていないことによる「欠落感」のためではあるまい。むしろここで感じられるのは、恣意的に抜き取られ並べられた「不連続なモンタージュ性」とでも言うべきもので、先程「コンストルクチオン」や「朝から夜中まで」の舞台装置について述べた「キネディックな機械仕掛けの連続的なメタモルフォーゼから、ある瞬間を取り出した」感覚と同じもののように思われる。
 そのことが最もわかりやすく示されているのが、彼が驚くほど数多く手がけた子どものための作品群ではないだろうか(第Ⅳ章「こどもたちのために」)。ヴィクトリアン調も、アール・ヌーヴォー風も、モダニズムのデザインも、様々なスタイルを見事に消化し、ほとんど1作ごとに画風/作風を変えて描かれていったこれらの作品群は、その1冊ずつ、1篇ずつを見るのではなく、まずはトータルに全体をとらえ、そこに立ち現れてくる横断的に構成された巨大なアーカイヴから、ランダムにあるいはテマティックに1枚ずつを選び出し、不連続なモンタージュとして眺めるべきものではないだろうか。それと言うのも、その方が彼が1枚1枚に仕込んだ構図の巧みさ、画面構成と色彩配置の鮮やかさ、総合的な造形の見事さが、不連続であるがゆえにより一層明確に景色として浮かび上がってくる気がするからだ。
 これは彼がデザインを手掛けた雑誌やポスター群にも当てはまる。同じ雑誌のバックナンバーや上演作品の内容傾向からポスターを選び並べるのではなく、ほとんどランダムに配置され、互いが重なりあい衝突しあう中から様々な類似や相違が浮かび上がり、これらを通じて初めて、彼が一生手放すことのなかった「構成への手触り」が明らかになってくるように思われるのだ。
 反対に村山の残した原稿や書簡、ハガキを見ると、そのデザイン性(における自己主張)のなさに逆に驚かされる。彼の作品に共通する「構成への手触り」はそこには一切見当たらない。字体に強い個性はなく、小さめのおとなしい文字が、やや間を空けて規則正しく並んでいる。そこには達筆やレタリングのデザイン性はおろか、余白を許さない強迫観念も押し付けられてくるグリッド性も、あるいはそうしたものから逃れた天衣無縫さや融通無碍ぶりも感じられない。「構成への手触り」が彼に逃れ難くまとわりついた運命や宿痾ではなく、あくまで彼自身によって選び取られた結果、《交流/交換機》による切替/接続の適切な帰結であることがわかる。
       
    夢のくに         あめがふってくりゃ           せいの順
  
    ブランコブラリン          童画集表紙


5.花森安治の《定点》

 世田谷美術館では、村山知義展と同時開催で『暮しの手帖』の編集長を長く務めた花森安治による『暮しの手帖』表紙原画展を行っていた。この展示がまた村山の作品世界を別の角度から照らし出すように思われるので、そのことについて少し触れておきたい。
 イラストレーターであり、デザイナーであり、編集者であり、エッセイストであり、ジャーナリストであり、コピーライターであった花森は、時代こそ違え、村山と同じく多様なメディアを活動の舞台としたアーティストと言ってよい。そこには類似点がある。
 一方、相違点は花森の《変わらなさ》である。数多くの表紙原画を通して見ると、時期によってかなり画風が変化するだけでなく、ちろんモティーフが違い、絵具等のメディウムが異なり、時にはコラージュや写真のモンタージュに手を伸ばし、抽象的な色彩の広がりを描いてもいる。にもかかわらず、ここにはやはり《変わらなさ》の感覚が確かにある。それは女性、西洋風の塔のある城、キッチンやカップ、ポットといった幾度となく繰り返されるモティーフの枠組みを越えて、暖色系の色彩や柔らかな曲線的な形象/輪郭への好みであり、何より安定した配置への志向にほかならない。
 村山の子どものための仕事が、同じく柔らかな色彩や形象を用いながら、ぽつんと立ち尽くすような奥行き/向こう側へと視線を誘うのに対し(そこには確かな「構成への手触り」がある)、花森の絵は視界を隅から隅まで安心と暖かさで満たし、見えない(あるいはあるかどうかすらわからない)向こう側へと視線を誘うことがない。ここで眼差しは心を許しきって画題/画面と向きあうことができる。
 このことは、彼の絵が『暮しの手帖』という揺ぎ無い視点を据えた個性的な雑誌の評始原画であることと、当然深く関わっていよう。ましてや彼は雑誌の編集長だった。『暮しの手帖』において表紙は単に書店におけるアイキャッチや、雑誌の存在を示すファサードである以上に、生活に向けた提案/メッセージそのものであったろう。そこには《定点観測》的な眼差しの揺ぎ無さが込められている。



6.岡田史子のこと

 さらに補足として、村山知義の作品を観ていた時にふと思い出した岡田史子のことを少し書いておきたい。第Ⅰ章の説明で述べたように、村山知義展の会場には彼と同時代の、彼に様々な影響を与えもした多くのアーティストたちの作品が展示されていたにもかかわらず、展覧会を観終わって私の頭の中に浮かんだ名前は、なぜか岡田史子だった。
 『COM』でデビューし、萩尾望都はじめ多くの作家に衝撃を与え、すぐに筆を折り、やがて活動を再開するも、すぐに再度中断し夭逝した、この寡作の漫画家について改めて長々と説明する必要はないだろう。
 幼い頃から世界文学全集に親しみ、各国の童話や民話をはじめ、児童文学、詩、小説に通じ、作中にはボードレールやトーマス・マン、宮沢賢治、吉本隆明等が引用される。それだけでなく、画風自体がレイモン・ペイネやエドアルド・ムンク、ビュッフェ等の幅広い影響を受けながら、ほとんど1作ごとに変わっていく(作者自身によれば1作でその絵柄に飽きてしまうからだそうだが)。画面表現上の効果に関する実験も、ロウケツ染めによる不定形な模様や黒コンテによるラフな線(陰影)、削って尖らせた割り箸によるかすれをはらんだ描線の利用など多岐に渡っている。
 その作品はストーリーに導かれてキャラクターが動いていくドラマというより、1コマ1コマが独立した絵画/イラストレーションであり、隠喩/象徴であり、舞台装置のスケッチであり、肖像であり、モノローグであり、詩の断片であり、世界の片隅の風景であるような、独立したイメージの連鎖/モンタージュとなっている。そこではキャラクターは印象的なオブジェや点景、あるいは記号(文字や矢印)と同様、そのモンタージュを可能とする(イメージとイメージをかろうじて結びつける)換喩的装置のひとつでしかないように見える。その点、特に印象的なのが、そうした危うい綱渡りの連鎖をすら大胆に断ち切って挿入される大ゴマのカットである。そのひとつの頂点が萩尾望都も絶賛したという「墓地へゆく道」の列車に轢かれる幻想にふける少女の見開き一杯を使ったカットだろう。突進してくる列車の前に(というよりはどことも知れない薄明るい空間に)すべてを解き放ち、宙に浮かぶように投げ出される伸びやかな肢体。
 私はそうした岡田史子に多様な文化/影響による精神/記憶の沸騰に突き動かされながら、それらをつなぎ替え、結び合わせて「不連続なモンタージュ性」を生み出していった、村山知義同様の孤独な《交流/交換機》の姿を見ずにはいられないのだ。

    
    ガラス玉     ほんのすこしの水  「墓地へゆく道」扉絵


2ページ見開きの少女のカット
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アート | 14:09:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
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