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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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多田雅範の文章世界-疾走する眺めは人生の本質的なランダムネスを思い出させる  Masanori Tada's Composition World-Views Running in Full Career Remind Me Essntial Randomness of Life
 多田雅範のブログ『Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review』にウェブ・マガジン『Jazz Tokyo』掲載予定の「タガララジオ31」の元原稿がアップされている(*1)。執筆している本人は「CDジャケット写真の掲載やレイアウトあっての連載コラム」と謙遜(自嘲?)しているが、むしろレヴュー対象盤のジャケット写真はおろか、アーティスト名も作品名もなく、ましてやレヴューの区切りすらわからないノンストップ・パワープレイのこの掲載方式の方が、彼の言葉の力、文章世界のマジカルな魅力が伝わってくるように思う。
 *1 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20120924

 それは「疾走」の力だ。言葉が走っているのではない。描き出され浮かび上がる眺めが場面が風景が、矢継ぎ早に後ろへと飛び退り、疾走しているのだ。以前にも例えた「笑わない喜劇王」バスター・キートンの疾走のように、彼自身は走り続けながらも画面の中央から動かず、背景だけが物凄い速さで流れ、くるくると入れ替わり、彼は切り立った急な崖を転がり落ち、汽車に追われながら鉄道線路をひた走り、さらには走る列車の屋根の上を爆走し続ける。

 だからまわりの景色は気がつくともう変わっている。筆者の眼差しも、口調も、話題も、それに対する読み手の位置関係も。事実とフィクションの垣根を軽々と跳び越え、美化されているだろう思い出を散りばめ、錯誤を含んだ記憶のかけらを振り落としつつ、風景はあてもなくひた走る。以前に彼の「ノルウェー大使館コンサート事件」を例に挙げて、事件を出来事をドミノ倒しのように起こし続け、地球の自転の速度を遥かに追い越していく彼の爆発的な行動力を伝えたが、今回の速度はさらに言葉/文章の力に拠っている。

 この「いつの間にか変わっている」滑らかな不連続性、切断面を明らかにしない飛躍は、まるで夢の展開を思わせる。気がつくと場面が転換し、物語が変容して、物の形や大きさ、有無さえ移り変わり、忘れかけていた誰かがふと姿を現し、自分だけしか知らないはずの記憶が「みんな」によって繰り返され、「私」はいつの間にかそのひとりとなって私の視界の中に姿を現し、何やら聞き覚えのないセリフを話している。

 実際、多田はよく夢の話を書いている。そこに横たわる夢にしかありえない「リアル」な手触りは、背筋をぞくりとさせ、胸をぎゅっと締め付ける。他人の夢なのに、まさに「夢である」そのことによって私の中に入り込んできてしまう夢の不思議さが、そこには確かに保たれている。

 「ふと気がつくと変わっている」からには、時間の経過が飛躍あるいは圧縮され、そこで起こっている移動や変形、出現や消失の瞬間が欠落しているのではないかと、後から訝しく疑ってみたりもするのだが、そのようには感じられない。夢の世界を支配しているのは夢の論理や夢の感覚なのだから。そうした夢の論理をフロイディズムやバイロジックがどれほど明らかにできているのか私にはわからないが、多田の夢には性的な隠喩/象徴があからさまに欠けているのは確かなように思う。あるいは(無意識的な)事後の検閲によるものかもしれない。たぶんそうなのだろう。だがそれでも、そこには後から順序付けられた夢の「わざとらしさ」が感じられない。話題は、場面は、言葉は、自由気ままに散乱しながら、常に思い出や記憶と強く結びついている(たとえそれが仮に事実とは異なる誤った思い込みである場合でも)。ここで「いつの間にか変わっている」唐突さは、人生そのものの剥き出しの唐突さ、ランダムネスにほかならないと言うかのように。

 といって、それは決して拾い集めただけの記憶のかけらのブリコラージュではない。それは彼による引用の特異さ、再文脈化の力の強さを見ればわかる。今回の文中に「あるいはうつらうつらとした夢うつつのうちに気がつくともう遠く通り過ぎている夜汽車の踏み切りや、鳴り終わってから気づく階下の大時計の打刻鳴鐘、とうに灯明を消したはずの仏間から漂ってくる香の匂いを。古井由吉の作品から聴こえてくる誰のものともつかぬ(死者の)声を思わせる音の手触り」と私(=福島)自身によるJakob Ullmannの作品に対するディスク・レヴューからの一節が引用されているが、もはや書いた本人にすら身に覚えがないような変貌した固有の輪郭、不可思議な独特の響きをたたえている。もともとの書き手が自らの書いた文章の自身への帰属を希薄に感じ、誰か他人の言葉のように思えてしまうのは、それだけ文章が遠く奪い去られ、新たな文脈に深く埋め込まれているからだ。そして多田の場合にはもうひとつ、先に述べた疾走する風景の一片としてたちまちのうちに通り過ぎ、そこへ他の異なる景色がひしめきあうように押し寄せてくるからにほかならない。彼は「これは夜中の天空の集会所で鳴っている音楽だ」と高らかに宣言するや否や、その響きのかそけさが静かな場を要することを指摘し、虫の音の喧騒さに言及し、宮沢賢治や稲垣足穂を召喚し、「タルホロジー」を歌うあがた森魚を連れてきて、彼がプラネタリウムでライヴを行った際の限定CD「雪ヶ谷日記」が聴きたいと言い出す。多田の記憶を介して、回想/想起/連想の一部として再浮上することにより、書き写された言葉はまったく別の輝き/手触りを放っている。

 喪失を笑い飛ばし、出会いに涙しながら、記憶の風景は疾走を続ける。偶然を喜んで受け入れ、錯誤を深く愛しながら。それは以前に述べたように踏み外しの連続でもある。そうした中から、夢を、記憶を、人生を、高らかに肯定する宣言が力強く響いてきて、読み手の背中をドンと叩いて元気づけてくれる。











※写真はすべて多田雅範のブログから転載
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批評/レヴューについて | 22:59:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
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