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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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沢井一恵ライヴ@ロゴバ再演  Kazue Sawai Live in Rogoba Again
 2012年11月16日(金)にROGOBA DESIGN ON LIFE_Tokyo(ロゴバ)て行われた、「平河町ミュージックス」主催による沢井一恵コンサート『没絃琴~二十五絃、瑟から一絃琴まで~』について以下にレヴューしたい。なお、彼女はこの「平河町ミュージックス」公演の第一回(2010年5月28日『アジアの絃~5つの類』)で演奏しており、このコンサートについては本ブログでレヴューした(*)。文中「前回ライヴ」とあるのは、このコンサートのことを指すものである。
*http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-34.html


【アンコールに代えて】
 予定された曲目の演奏が終わると、「アンコールに代えて、皆さんに自由に楽器に触れていただこうと思います」と沢井自身によるアナウンスがあり、いったんは片付けられた各種の箏が、また改めて演奏スペースに並べられ始めた。アフター・アワーズとなり、聴衆がみな立ち上がって、あちこちで挨拶が始まる中、幾人かは前に出ておずおずと箏に触れ始める。私も手を伸ばしてみた。あんなに間近で観ていたのに、演奏者の側に回ると楽器は思ったよりはるかに大きかった。絃は太くて固くざらざらとしていて、指でそっと弾いてみても微かに「ぶーん」と唸るだけで碌な音をたてなかった。先ほどまであれほど荒々しく息づき筋肉を躍動させていた獣は硬く表面を閉ざし、まるで硬直した死体のようによそよそしく横たわっていた。ピアノやギターのような近代西洋楽器や多くの民族楽器が触れると思いのほか大きな音で「鳴って」しまい、弾き手を次なる指の運びへと誘うのに対し、少なくとも沢井の弾いていた箏はそうではなかった。

【開演前の空気】
 前回のロゴバでのライヴが、空間内の各所にあらかじめ配置した楽器の間を経巡っていくものだったのに対し、今回は道路側のコーナーに演奏スペースが設えられ、すでに演奏台の上に水平に置かれた箏のほかに、幾つもの箏がまわりに立てかけられていた。横たえられたあるいは立てかけられた箏の木目と黄色く浮き上がる絃が、柔らかな暖色系の光に満ちた空間に映え、傍らに吊り下げられたタピストリーの文様と響き合う。演奏スペースを取り囲むように置かれた色とりどりのファブリック系のチェアやソファは、開演前の密やかなざわめきの中で、すでに音を呼吸しているようだ。吹き抜けの天井まで届くガラスの向こうを人が歩き、車が通り過ぎる。聴衆が詰めかけてくると(今日は満席とのこと)、それまで空気を多く含んでいた柔らかいざわめきに社交的な角が立ちはじめ、やがて権威主義的な咳払いを含むようになる。

【2012年11月16日のプログラム】
『没絃琴~二十五絃、瑟から一絃琴まで~』
1) 柴田南雄「枯野凩」(かれのこがらし) 十七絃箏&尺八:善養寺恵介
2) 高橋悠治「残絲曲」 瑟、朗読:高橋悠治
3) ロビン・ウィリアムソン「見知らぬ人の子供時代からの手紙」
4)一絃琴による即興
5) 西村朗「覡」(かむなぎ) 十七絃箏&コントラバス:斎藤徹

【1曲目】
 本来ヘヴィな楽器であるはずの十七絃箏の音が驚くほどまろやかに立ち上がり、間合いを計るようにゆっくりと置かれていく。うねうねと揺らぎながら響きが立ち上り、沢井は音が消えていくまでをしっかりと見届ける。スローモーションで倒れていく柱の列。まるで水の中にいるように空間の濃度がとろんと高まっていく。尺八の揺らぎのないまっすぐな音が途中から加わり、その上にそっと浮かべられる。次第に尺八の息が高まり、音の輪郭が硬く張りつめ、墨跡がくっきりと鮮やかに浮かび上がり、これに十七絃箏が硬質なグリッサンドや低絃のアタックで応え、線が交錯し呼吸がかき乱れる。やがて弧を描くように息が整い、また音が柔らかくほぐれ、滲むように中空で溶け合って、互いに響きを吐き尽くし、フィナーレを迎える。

【2曲目】
復元楽器である瑟(しつ)に張られた二十五本の細い絃が爪を付けずに奏され、細く澄んだ糸のままの響きを立ち上らせる。占兆を読み取ろうと盤面に手をかざし、映る指の影を追い、それと戯れる柔らかな手の動き。次第に響きが澄み渡り、少しずつ色が浮かび、川面の細やかなきらめきを映し出すに至る(その様子はどこかドビュッシーを思わせる)。時折、たまたま通りかかったように高橋の声が行き過ぎる。朗読のテクストである李賀の漢詩は、今回のために訳し直され、文語的ないかめしさを抑え、ふと物思いに耽る遠く淡い眼差しを与えられている。すれ違う景色に視線がゆらり揺らめき、絃の音は幹のしなりを思わせる中央のさわりと、枝葉のざわめきにも似たはらはらとした分散を織り成していく。

【3曲目】
 ロビン・ウィリアムソンがメンバーだったインクレディブル・ストリング・バンドは、英国トラッドに根差しながら、遠く東洋に憧れ、ユートピア的な越境をいつも夢見ていた。それゆえか、指の腹でつま弾かれる絃の響きは、ハープを慕いつつ、東と西の間の中空で安らぎまどろみ、さらに低音の太々とした鳴りが深い淵を覗き込む。

【4曲目】
 今回のライヴのタイトルに掲げられた「没絃琴」とは良寛の漢詩に現れる語であるという。「絃の失われた琴」のイメージが、彼女を「絃をすべて取り払うところまではいかないが、一本だけ残す」演奏へと駆り立てた。それゆえ演奏で用いられたのはピタゴラス的な一弦琴ではなく、小型の箏に張られた十七絃のうち、一本の絃だけに琴柱をかませたもの。前回のライヴで演奏した五絃琴のための「畝火山」を作曲した高橋悠治に、今回も作曲を依頼したが「あなたひとりで遊んでいなさい」と断られたとは沢井の弁。
 爪を付けぬ指の腹が絃を叩き、指先が絃をたわめ、引き絞り、振りほどいて、打ち付ける。絃の生々しい震えが解き放たれ、さわり、分割振動、共振/共鳴(琴柱のうなりまで)がいっせいに立ち騒ぎ、絃を押す左手に従って乱高下し、激しく揺らぎ滲み、ミュートされて声を低める。やがて左右の分業は排され、右手/左手が共に絃を煽り、鎮め、操り、操られる。耳に腹に響くリズム以上に、彼女の手触り、指がかりが神がかった律動を伝え、荒い息づかいがそれを後押しする。
 黒檀(?)の箸や竹の細いへら、木あるいは紙製の細い筒を取り出し、それらにより時には両手で絃を叩き、擦り、削るようにしごき掻きとる。姿勢はせわしなく移り変わり、息はますます荒く、高々と張られた一本の絃の上で多種多様な衝突と摩擦が調合され、振動は果てしなく散乱し、響きはあてもなく拡散して、手指は時に一絃を離れ、胴に張られた他の絃をまさぐり掻きむしる。だが背景に沈んだそれらの絃は、ひそかなつぶやき/ざわめきを漏らすに過ぎない。挑むべき標的はそこにはない。
 一絃の震えは魅惑的な軋みや呻きを立てながら、すぐに輪郭を崩壊させ、できかけたかたちを解体して不定形の海に溺れてしまい、ひとつの声を持つことができないでいる。散乱あるいは切断のヴェクトルがあまりに強すぎるのだろうか。前回ライヴの「畝火山」で聴かれた五絃琴による、数珠を手繰るような規則的繰り返しは、ここでは闇にゆっくりとしみこむ間もなく、沸騰し分解して飛び散ってしまうため役に立たないようだ。
 律動を細かに切り刻み、空間を傷だらけにしながら、即興演奏による探求の歩みは止まることがない(ここに遊戯的な「あそび」や「たわむれ」が入り込む余地はない)。残酷さが匂い、口の中に苦い味が広がる。演奏は収斂すべきかたちを自ら思い浮かべることができずに終わりを迎えた。果敢な挑戦に拍手を送りながらも「この挑戦にはまだ先がある」と感じたのは私だけではないだろう(おそらくは彼女自身も)。

【5曲目】
 本来、十七絃箏と打楽器のデュオで演じられるべきこの曲は、CD『The Sawai Kazue 』と同様、コントラバスの斎藤徹を招いて演奏された。演奏前に沢井はその理由を「これはどう見たって韓国朝鮮のリズム。ならばそのリズムが誰よりも身体に入っている人と演奏するのがいい」と説明した。
 最初、斎藤はコントラバスを床に横たえ、左手で弦に触れ「さわり」をつくりだしながら右手の音具で弦を叩き、あるいは両手に一本ずつ持った弓で弦を同時に弾いて、荒々しく刻まれたリズムの切り立った錯綜を取り出す。衝突交錯する打撃、ぐらぐらと沸騰し噴出する叫び、輻輳し互いに強めあう倍音、不均衡や混濁をこそ力にする強度、そして躍動し野を駆け巡るリズム。
 同じく横たえられた十七絃箏の上を、爪を履いた沢井の指先が眼の眩む速度で走り抜ける。空間を切り裂くほど鮮やかに音が解き放たれ、匂い立つ響きで弦が霞む。
 斎藤が立ち上がり、プリペアドされたコントラバスに音具をあてがい、渾身の力で弾き立てる。ぶんぶんと弦がうなり、空気が震え、空間が沸き立って、血がたぎり、身体が汗をほとばしらせる。リズムは揺らぎぶれながらも、いやそうであればこそ、でこぼこの草原を駆け巡り、一気呵成に急崖を下る荒馬の鞍の軌道にきりきりと焦点を合わせる。人馬一体の境地(ここでは沢井と十七絃箏だけでなく、斎藤の大きな身体やコントラバスもまた、渾然一体ひとつに溶け合っている)。弾む呼吸は足元に広がる原野の起伏をたちどころに明らかにする。
 「いま弾いた音はすべて譜面に書いてある通りです」と、演奏後、沢井が手元の譜面を掲げて告げた。演奏の自由闊達さと先立つ一絃琴による即興に似た火照った手触りからすれば、その「宣言」はほとんど意外なほどだったが、おそらくそれはあり得べき聴衆の誤解を解くためというより、曲の可能性を十二分に引き出し得たとの自負の為せる業だったろう。そこでは演奏の収斂していく先として、曲の「本質」が厳しく見極められていた。それは必ずしも「書かれた譜面」そのものを意味しない。むしろそこに立ち上がり得る音楽世界に対するヴィジョン、可能性の核心と言うべきものだ。曲を一見して「韓国朝鮮のリズム」と、しかも文献的な知識としてではなく、金石出(キム・ソクチュル)たちが演奏していた巫楽のあの身を切り血の出るような生々しいリズム(以前、彼女は斎藤らと共に韓国に渡り、祭儀を繰り広げながら村々を回る金石出たちに同行したことがある)と直感洞察し得た時点で、もうすでに勝負はあったのかもしれない。こうした音に触発されてやまないことこそ、まさに彼女のシャーマン的資質の豊かさを明らかにしていると言えるだろう。

【4曲目(補足)】
 逆に言えば、そんな彼女のシャーマニスティックな幻視力をもってしても、一絃琴による即興演奏において、その収斂すべき先を見定めることはできなかった。板に一本の金属弦(というよりはただの針金)を張った一弦ハープ(?)を掻き鳴らしながら歌うブルースマンを知っている。声の発露のきっかけとして用いるのならば、あるいはそれでも充分なのかもしれない。先ほど触れた前回ライヴにおける「畝火山」で手繰られる五絃琴のつましい響きに伴われ、唇の端から流れ出す「呪」の連綿たる響きを思い出す。
 息の通わぬ箏に熱い息を吹き込み、冷ややかに屹立する絃から「声」を引き出すことの難しさについて様々に思いを巡らさずにはおけない。

  
沢井一恵の次なるライヴは箏のデュオ。
下のリンクでちらしの拡大版を見ることができます。

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:53:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
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