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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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コンダクションという秘儀 − ローレンス・D・"ブッチ"・モリス追悼  Conduction As Esoteric Ceremony − Lawrence D. "Butch" Morris RIP


 2013年1月29日、ローレンス・D・"ブッチ"・モリスが亡くなった。彼はコルネット奏者としてそのキャリアをスタートしたが、やがて「指揮」により即興演奏をリアルタイムで生成/編集する「コンダクション」を編み出し、世界各地で様々なミュージシャンを相手に実践に取り組んだ。
 ここでは1991年に彼が来日した際の「コンダクション」ライヴのレヴューを再録することにより、心から哀悼の意を表したい。


Ⅰ コンダクションという秘儀 − ブッチ・モリスの「コンダクション」を巡って【「ジャズ批評」84号】

1.コンダクションとは何か

 「コンダクション」すなわち指揮された即興という考え方は、即興演奏家たちの国際的な音楽交流の機会が増えるに従って発展した。その目的は、集団即興演奏に自然発生的な形式と焦点を与え、またコミュニケーションを拡大することである。「コンダクション」はアンサンブルと指揮者が作曲を進めていくプロセスにおいて同じ役割を果すことを可能にし、また聴衆はこのプロセスを直接観ることができる。(ローレンス・D・“ブッチ”・モリス)
 「コンダクション」とは「指揮者」ブッチ・モリス(以下BM)を焦点として作動するシステムであり、紙の上では(ジョン・ゾーンの『コブラ』がそうであるように)様々に定義付けされた一連のサインの集積である。タクトの振り下ろしにより始められた即興演奏(全員または指名演奏者のみ)を素材にコンダクションによる編集・加工が施される。BMによれば、全部で約20個あるサインのうち、今回は7~8個を使用しているという。こちらで把握したものを次に掲げる。

①Sustain及びSustain Another
 サウンドの持続をタクトの振り下ろしにより、別のサウンドへと一変させる。 
②音量・音高の上げ下げ、テンポの加減速、リズミックな強調・平坦化
③個々のプレイヤーに対する演奏参加/中止要請
④Repeat及びDevelop:パターンの反復演奏指定。パターンの長短や内容は自由。DevelopはRepeat指定のもとで、両掌の指し示す幅により定型反復への収斂(狭い)と、そこからの即興的な展開(広い)とをコントロールする。
⑤Melodic:(何でもいいから)メロディを演奏せよ。
⑥Graphic(Panningを含む):タクトの動きに沿って、ギサギザや渦巻きをはじめ様々な曲線をまるで図形楽譜のようにトレースさせる。Panningはタクトが自分の前を通過する際にON/OFFを一瞬交替させるもので、刷毛で塗るようにタクトを左右に大きくパンさせることから。
⑦Imitate:指名された演奏者のフレーズ/サウンドを模倣せよ
⑧メモリーの登録・呼出

2.リハーサル(3月3日)

 演奏者たちはP3の長辺側ほぼいっぱいに並ぶ(配置はBMの指定による)。各演奏者の位置関係を聴覚上明らかにするため(時にBMは目をつぶったままサウンドに耳を傾け、演奏者を指し示す)、生音あるいはアンプ直出しでPAはない(本番ではヴォイスや小音量楽器の補助として部分的に用いられていたが)。
 タクトを持ったBMが位置につくと、ピリピリとした緊張がオーケストラ全体に走る。集団即興により生み出されたサウンドが、様々なオペレーションにより、掻き回され、切り刻まれ、容赦なく切り捨てられていく。BMは全くの暴君として振る舞っているように見える。彼は指揮者への視線の集中を常に要求する。これが琴やターンテーブルにはつらい。「見ていない」と何度も注意される者がいる。サインの不明瞭さへの不満がそこここで漏らされる。指揮者の専制とサインの曖昧さの間で演奏者が疲弊し、ナーバスになっていくのがわかる。BMの説明。「サインは確定的ではなく、解釈の幅を本来的に持つ。プレイヤーは自分なりの解釈で音を出し、それを継続させるか止めさせるかは私が改めて判断する。」リハーサルは本番さながらの演奏に、時折サインの説明を折り込みながら、3時間近く続けられた。「習うのは終わった。明日は演奏しにきて欲しい」とBM。

3.トーク・ショー(3月3日)

BM:コンダクションを行うには、演奏される楽器の特性のみならず、参加者ひとりひとりの個性まで知る必要がある。コンダクションは演奏者ひとりひとりに語りかける方法、「~して欲しい」というのではなく、店で買い物をするように聞き尋ねるやり方だ。ここで作曲とは読書のようなものだ。(線的展開としての)ストーリーをたどるのではなく、行きつ戻りつ前後しながら、その書物の提示する世界像を読んでいくという意味で。だからサインだけを特化するのではなく、表情や仕草を含めた全体から、指示内容を読み取って欲しい。メモリーだって、そのまま再現できなくてもかまわない。わからなくなって、あれこれ探すのが面白いんだ。そこには不可避的に演奏者の個人史と解釈が含まれてくる。
大友:実際のところ、サインは判断要素のひとつに過ぎない。他のプレイヤーの演奏は否応無く聞こえてるんだし。ただ積極的なアバウトさがないと難しいかも。BMも「状況を判断し、自分で考えて音楽にしてくれ」ってよく言っていた。

 BMはいつも茶色のノートを手放さず、会場からの質問に対しても思いつきをすぐに書き留める。会話や議論の中でなら、それをすぐさま反映させて、発言者が司会者として振る舞うこともできよう(言語はメタ化して異なるゲームを渡り歩く)。しかし即興演奏の現場なら..。これこそが「即興演奏者によるリアルタイムの作曲」が即興演奏者の身体から独立した機能/役割として分化/析出した契機ではなかろうか。集団即興演奏の全体をまるごと一度に操ろうという欲望。 

4.コンダクション49&50(3月4日・5日)

 書いては消し、加えては削り、推敲を重ねてはあてもなく(あるいははたと思いついて)本を開き、書き写し、書き直して、破り捨て、また書き始め、最初から読み返す....ミクロに見ていけば試行錯誤の連続でありながら、マクロに眺めるならダイナミックな情景の変転に溢れ、意外なほどメロディアスですらある。これは演奏者の個性差、楽器間の音色の違い、リズミック/メロディック、アタック/持続・反復、ソロ~トリオ中心の器楽的展開とGraphicによる流動等、様々な対比を基軸としながら、さらに初日冒頭のセット(1セットは約30~40分)ではオーケストラの分割操作により、マス・ムーヴメントをダンス・カンパニーの振付師のようにダイナミックに取り扱い、続くセットではうって変わってvn,b×2を指名して弱音ソロから始め、細部の積み上げによりこわれやすい繊細さを彫琢してみせ、また2日目最初のセットはキー・パーソンをフィーチャーした大きな場面の交替、続くセットはステレオフォニックな照応を活かしたサウンドの転写によるなど、構成に用いるレトリックが自在かつ多彩であるためだろう。 しかし、そうであればあるほど「このサウンドの巧みな融合は演奏者が相互にコミュニケートした結果なのだろうか」と訝らずにはいられない。むしろ音は演奏者の手元から奪い去られ、彼らの手の届かない彼方(BMの手元)で混ぜ合わされて、盛られた皿の上で初めてひとつとなっているのではないか..と。

5.「コンダクション」というメディア

 共に即興演奏者のネットワークを目指すメディアながら、コンダクション(cn)とジョン・ゾーンの『コブラ』(cb)は次の2点において決定的に異なる。
①コンダクターがあらゆるサインを集中的に発する(cn)に対し、サインはプレイ ヤー間で取り交わされ、プロンプターはあくまでその通り道に過ぎない(cb)。②(補助的な手振りや目配せを伴うものの)各種サインがボード化できるまでに 記号化されている(cb)に対し、身振りと未分化なまま指示内容にも演奏者によ る解釈の余地(文脈依存性)を残している(cn)。
 『コブラ』が交通を徹底的に外化することによって加速を図るのに対し、コンダクションは音の運動と身振りの一体化を通じて、(表情を読み取るように)全容の一挙了解を目指す。オーケストラが激しく沸騰し、リズムを弾きとばして、次から次へと新たな音が吹き上がり、鍋から吹きこぼれる直前、BMは(瞑想するように眼を閉じ、満面に恍惚とした笑みを浮かべて)音のひだやサウンドの泡立ちまで触知しながら、身体を大きく揺らがされ、それはそのまま身振りとなって、タクトを通じて溢れ出し、サウンドを大きく波打たせうねらせる。この瞬間コンダクションは透明なメディアと化し、全演奏者はBMの視点を共有することになる。しかし、これはBMの身振りの表出力とアンサンブルの感応力の相互作用の極限として束の間現れるのであって、システムの約束された結果では決してない。むしろそれは苛烈な集中を要求する割りにはなかなか報われぬ、投資効率の悪いシステムである。BMはこの「秘儀」により祭儀的なコミュニオン/共同体の生成に関わる大文字の「音楽」の再創出を目指しているように思えてならない。1996年、アトランタ・東京・イスタンブールを衛星回線で結んで、オリンピックの一週間前に行われるという『サテライト・コンダクション』は、マクルーハンによるグローバル・ヴィレッジのヴィジョンの具現化そのものではないか。

【3月3日:公開リハーサル&トークショー 3月4日・5日コンダクション/P3art&environment/ブッチ・モリスconduction、大倉正之助;太鼓、佐藤通弘;三味線、田中悠美子;義太夫・三味線、一曾幸弘;能管(5日不参加)、沢井比河流;琴、金大煥;perc、高橋鮎生;中国琴、大友良英tt、溝入敬三cb、三宅榛名p、吉沢元治el-b、金子飛鳥vn、足立智美vo・electronics
※トークショー参加者/BM・吉沢・大友・平沢(通訳)】

Butch Morris『Current Trends in Racism In Modern America (A Work in Progress)』
Sound Aspects SAS4010 (LP)
Frank Lowe(ts),John Zorn(as,game calls),Brandon Ross(g),Zeena Parkins(harp),Tom Cora(vc),Christian Marclay(turntables),Eli Fountain(vib),Curtis Clark(p),Thurman Barker(marimba,snare drum,tambourin),Yasunao Tone(voice),Butch Morris(conduction)
 ノイジーな喧騒が大きく揺らぎながら移り変わって、刀根の謡曲ヴォイスにマークレイのディスコ・サウンドが襲いかかる。ソロの交代と重ね合わせに多くを負っているものの、紛れもないオーケストラ・サウンドが達成されている。



Butch Morris『Dust to Dust』
New World Records 80408-2 (CD)
Vicky Bodner(English horn),Jean-Paul Bourelly(g),Brian Carrott(vib),Andrew Cyrille(ds),J.A.Dean(tb,electronics),Marty Ehrlich(cl),Janet Grice(bassoon),Wayne Horvitz(key,electronics),Jason Hwang(vn),Myra Melford(p),Zeena Parkins(harp),John Purcell(oboe),Lawrence D.Butch Morris(conductor)
 楽器構成もあって、本作は前作と打って変わって映画音楽にも似たメロディアスなたおやかさとエキゾティシズムに溢れ、オーケストレーションもまた気品ある厚みを増している。6曲目ではグラフィックやパンニングの効果がよく聴き取れる。




Ⅱ 補足

 ひとつ補足として、ある誤解を解消しておきたい。"ブッチ"・モリスによる「コンダクション」を事例に挙げた大澤真幸「合理化の反転像」【初出「MUSIC TODAY」21号。後に「合理化の反転像としての現代音楽」として『美はなぜ乱調にあるのか』に収録】についてである。
 即興演奏の歴史において、あるいはそれを超えたより広い文脈においても、「コンダクション」は再検討を要する重要な取り組みである。にもかかわらず「コンダクション」について日本語で読める文献は少ない。だからこそ、その数少ない論稿に記述されている「コンダクション」に関する致命的な誤解は指摘しておかなければならない。"ブッチ"・モリスによる「コンダクション」の実践を体験することができなくなった以上、今後、この国で「コンダクション」について思考する者が同じ過ちに陥らないように。

 この論稿で大澤は、「コンダクション」における指揮者を、彼お得意の第三者の審級、ここでは超越的な第三者の核心部に露呈する〈他者〉として位置づける。彼によれば西洋音楽における指揮者とは表現の可能性を支持する超越性を経験の内在性の水準から切り離し純化した存在であり、指揮者への従属を通じて、散乱する多様な演奏や歌が統一的な作品として現れることができる。続けて彼は「コンダクション」についてこう指摘する。「ところがコンダクションにおいては指揮者はこのような積極的な役割を何も演じない。(中略)演奏者にとって指揮者の意味は、それが演じる何か積極的に(ママ)行為の内にあるのではなく、ただその場に顕現しているということの内にある。ただ〈他者〉として直面しているという事実が、作品の統一的な構造を指定する超越性を、自然に生成してしまうのである。」

 この立論は「『コンダクション』において指揮者は、西洋古典音楽の指揮者以上に演奏に対して関りを持たない」という明らかな誤解に基づいている。今回再録したレヴューが示しているように、モリスは「コンダクション」に参加した演奏者たちに指示し、サウンドを切り替え、徐々に変化させ、コピー&ペーストし、一瞬のうちに塗り替える等、即興演奏そのものをリアルタイムで編集するという極めて積極的な役割を果たしている。時には暴君にも近いやり方で。むしろ「コンダクション」における指揮者は、大澤の理解とは真逆に、西洋古典音楽の指揮者以上の権能を有しているのだ。それゆえ大澤の分析は「コンダクション」にまったく当てはまらない。

 作曲作品=楽譜という発する音をあらかじめ規定しているテクスト/エクリチュールが存在するがゆえに「作曲者の意図の代行者」として現れてしまう西洋古典音楽の指揮者に対し、そうした先行規定の存在しない即興演奏に着目したのだろうが、ここで大澤は「コンダクション」を、そして即興演奏を、あまりに自らの立論にとって都合の良いモデルとしてとらえ過ぎている。


    
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音楽情報 | 21:49:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
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