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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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演劇レヴュー「ネエアンタ」−Inspired by Samuel Beckett  Theater Review for "Eh Joe" −Inspired by Samuel Beckett
 3月2日(土)に観てきた演劇「ネエアンタ」について感じたことを書いてみようと思う。もとより演劇にはほとんど縁がないし、この作品はサミュエル・ベケットによるテレビ・ドラマ脚本「ねえジョウ」を下敷きにしているとのことだが、正直ベケットのこともよく知らない。だから後に述べる舞台装置の簡素さや人物のミニマルな運動に「ベケットらしさ」を感じたりはするものの、場面設定やテクストが属するもともとのコンテクストはまったくわからない。しかし、そのような予備知識の持ち合わせのない観客にとっても、この作品/上演は充分に興味深く、優れたものであると感じられた。それゆえレヴューの題材とする次第である。


1 空間(1)

 黒い幕で覆われた空間に設置されたL字型の白い床。正面の白い壁(左側の窓には白いカーテンがかかっており、右側には壁に沿って白いベッドが置かれている)と右手前の白いドアだけが「外」と室内を隔て、またつなげる仕切りとなっている。他に壁はつくられていない(照明のせいで黒い壁があるように見えるが実際には開け放たれている)。左側の端には白い冷蔵庫。ベッドと冷蔵庫以外に家具はなく、上から灯りがひとつ吊り下がっている(天井はない)。ぎりぎりまで禁欲的に切り詰められた簡潔な装置。

2 男の身体(1)

 客電が落とされ照明も消されて訪れたしばしの闇が明けると、白いパジャマに褪せた赤のガウンを羽織った裸足の男がベッドに腰掛けている。男は動かない。動こうとしないのでも、動くまいとじっとしているのでもなく、以前からそこにあった置物のように空間にすっとはまり込んでいる。これはダンサーの身体ならではの業だ。
 やがて男はゆっくりと左手方向を向くが、ヴィデオの再生をジョグ・ダイアルで操作するように、時折ふっと動いて、それ以外は動いているかいないかの超微速度で移ろっていく。そうした動きにもかかわらず動作は滑らかで段差がない。連動して動く身体の各部を巻き戻していく印象。これもやはりダンサーならではの身体技法と言えよう。

3 男の身体(2)

 彼=山崎広太を初めて観たのは今から16年以上も前、1996年に行われたコントラバス奏者斎藤徹の企画によるシンガポール公演だった。日本からは二人のほかに沢井一恵(箏)が、フランスからはミッシェル・ドネダ(ss)とアラン・ジュール(perc)が、韓国からは巫楽を奏する打楽器奏者キム・ジョンヒ、チョン・チュルギの二人、さらに地元シンガポールからパフォーマーのザイ・クーニンが参加する一大プロジェクトだった。山崎はさほど広くないステージの端から端まで優雅な足の運びですたすたと歩き、そうした下半身に乗せて運ばれる上半身においては、多方向からの力線に刺し貫かれ突き動かされる高速の運動を、恐ろしい高密度に圧縮して重ね合わせてみせた。機銃掃射に跳ね上がり痙攣する死体を思わせる仕方で、コマ落としのフィルムのようにぶれ、輪郭を多重化する身体。それはたとえばジョン・ゾーンのゲーム・コールズによる速度と強度、切断と衝突に満ちたソロ演奏の視覚的等価物とでも言うべきもので、徹底して物語の次元を欠いたブロックの接合である。

4 時間(1)

 吊り下げられた部屋の灯りが点滅して消え、薄暗くなった室内で男は立ち上がり、窓の方に歩いていってカーテンを開け、また閉める。一方、そうした彼の動きとはまったく関係がないかのように左手前のドアが開き、そこから外の明るさとともにきらきら輝く砂粒のような音が流れ込んでくる。カーテンを閉めた彼は冷蔵庫に歩み寄り、扉を開け中を覗いて、扉を閉める(そのとたんに流れていた音のある部分がふっと消える)。それから部屋を横切り、ドアノブに手を掛け、外を覗いてからドアをばたんと閉める。音が止み、男は元の位置・姿勢に戻り、部屋には再び灯りがつく。以降、このサイクルは上演中4回繰り返されることになる。換言すれば上演の時間はそのように分節化されている。

5 女の声

 「ねえあんた‥」とどこからか女の声が響く。男が振り向く。「ねえあんた、全部よく考えてみた? 何も忘れていない?」
 女の声はどうやら男に語りかけているらしい。抑揚をやや平坦にした、どこか息の漏れるような力ない発声。現代詩の改行のように本来あるべきでないところにブレスが配置され、声が一瞬止まり、意味に沈黙のナイフが入って、呼吸の運びはうわずるように宙に浮き、メッセージを宙吊りにする。まるで自動機械が話しているようにも聞こえる。テクストの内容は男の過去や現在を暴き続けるが、この声のつくりがそこに恨みや後悔といった情念の入り込む余地を与えない。ちらしに印刷された解説は、女が男と以前に付き合っていて、その後別れ、今はもう死んでいる可能性を指摘するが、虚ろに響くこの声の感触を、そうした関係性の網の目に解消してしまうことはできない。あるいは声は男の頭の中だけで鳴っていて、私たちはそれを覗き込んでいるだけなのかもしれない。だがやはりこの声を、男の自責の念がつくりだした幻聴と片付けてしまうこともできない。どうにも始末しようのない厄介な存在(まるでゴロンと横たわった身体/死体のように)として、女の声はただそこにある。

6 女の身体

 声が止み、部屋の明かりが点滅して、男がゆっくりと立ち上がり、前述の一連の動作を反復する。動作は繰り返すたびに抵抗/負荷を増していくようだ。カーテンを開け閉めし、れいぞうこと格闘する時間がだんだん長くなっていく。と同時に女の身体が舞台上に少しずつ姿を現すようになる。最初は冷蔵庫の陰に隠れており、次いでドアの向こう側から伸び立てが部屋の内側のドアノブに触れ、さらに後ろ姿の半身をさらし、ついには部屋へと入ってきて男とすれ違い、冷蔵庫に首を突っ込む男の顔を今にも触れんばかりの近さで覗き込み(男には女の姿は少しも見えていないようだ)、からのベッドに倒れ込む。白いドレス、顔を隠す長い銀髪、誇張された動作、時にさらす異形(竹馬(?)を履いてとてつもない大女の姿で現れたりする)により、女が既にこの世のものではなく、声の主である死んだ女であろうことはたやすく想像される。しかし、にもかかわらず、声と女の身体を結びつけるものは何もない。むしろ舞台上に現れる女の身体は、声との関係を持つこと、声の重みを背負うことを注意深く回避している。

7 時間(2)

 男が一連の動作を反復する「暗い時間」には女の声は流れない。声が現れるのは決まって男がベッドに腰掛け、部屋の灯りがついている「明るい時間」だ。その「暗い時間」に流れる音には前述の「きらきら輝く砂粒のような音」だけでなく、ざわめきを伴う持続音や音響的なブルース・ギター(ローレン・マザケイン・コナーズを思わせる)の断片の反復等が重ねられていく。時間を差別化するための舞台装置的なアンビエンスや記号的な効果音ではなく、かと言って情感やメッセージを濃密に担うこともない、精密に設計され巧妙に仕組まれた、たいそう魅力的でありながら決してどこかに着地することのない「どっちつかずの音」。

8 男の身体(3)

 「明るい時間」に語りかける女の声は、男の身体に様々な事実や関係性を投げかけていく。それらは意味や文脈の重さで男の身体を縛り付けようとする。しかし男=山崎の身体はこれに抵抗する。声のながれる「明るい時間」には空間にぴたりとはまり込んで声をやり過ごし、「暗い時間」には意味/文脈の重みに抗いながら動作を反復する。それゆえドアへと向かう最後の行程は大変な力業となった。暴風雨に幹がしなり枝が折れ葉々が引きちぎられるように、多様な力線の交錯に翻弄される身体(実際、その動きは「暴風に向かって歩く人」のパントマイムのようだった)。そのプロセスは堆積するテクストの重みを洗い流す高圧シャワーでもあっただろう。

9 空間(2)

 最後になって気づいたのだが、「暗い時間」が訪れるたび(実際には最初と最後を除いた3回)、私たちが男の身体の格闘に眼を奪われている間に、正面の壁が手前へと押し出され、部屋の奥行きが浅くなり、男の戻るベッドがだんだん客席に近づいていた。「暗い時間」における男の動作がだんだん引き伸ばされていった理由として、ひとつには空間の圧縮による意味の充満=負荷の増大を、もうひとつには観客からの距離の短縮による細部の拡大を挙げることができるかもしれない。

10 時間(3)

 最後の「暗い時間」では音響は流れず、手前に迫り出していた正面の壁が急に元の位置まで後退し、鈴の音のような不思議な響き/変調をまとった女の声が姿を現した。女の身体もまた姿を現し、男と並んだかと思うと、ベッドを叩き叫び声を挙げ、その途端、それまでの抽象的/構築的な音響ではなく、大音量でジャズが再生され、上演は終了した。
 ここでのジャズ・サウンドの突然の登場には、カタストロフあるいは「外」の世界の露呈の象徴など、様々な意味を読み取ることが可能だろうが、そうした意味性/象徴性の濃密なサウンドのいきなりの使用に正直当惑したことを告白しておきたい。意味/文脈の重みに埋もれてしまうことなく屹立し続けるダンサーの身体と、声の現前と身体の不在、声の不在と身体の現前を巧みに演じた俳優(かつて転形劇場で活躍した安藤朋子)の技量の上に組み上げられた、それまでの削り込み張り詰めた構築が、このジャズの使用(及びそのきっかけとなるように見える女の叫び声)によって、一気に押し流されてしまう(注意深い宙吊り状態がある特定の感慨へと短絡的に結びつけられ解消してしまう)危うさがそこには横たわっているようにかんじられたからである。それともこれはどうしてもジャズを特権化し、そこに含意を読み取ってしまう私自身の耳の偏差によるものなのだろうか。

ARICA第24回公演「ネエアンタ」 inspired by Samuel Beckett
2月28日(木)〜3月3日(日)
森下スタジオ Cスタジオ
演出・テクスト構成:藤田康城
テクスト協力:倉石信乃
出演:山崎広太・安藤朋子
主催:ARICA
http://www.aricatheatercompany.com/


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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:54:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
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