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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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マリオ・ジャコメッリ写真展「The Black Is Waiting for the White」のことなど  Exhibition of Mario Giacomelli " The Black Is Waiting for the White " and so on
 もう2か月近く前に観たマリオ・ジャコメッリ写真展について、印象を書き記しておくとともに、そこに潜む生成のプロセスへの注視について、前回のジョン・ブッチャーへの言及とも絡めながら書いてみたい。

 マリオ・ジャコメッリの作品を初めてみたのは、新聞の展覧会紹介に眼を留めた妻に連れられて行った、今回と同じ東京都写真美術館でだった。妻も彼の名を知っている訳ではなく、単にそこに掲載されていたちっぽけな写真にとらえられた、白と黒の静謐で優雅な戯れに魅せられてのことだった。その2008年に開かれた写真展は、彼の日本における最初の写真展で、今回が2回目ということになる。

 今回と前回の写真展の構成の違いとして、今回の方が作品の選択が幅広く、長期に渡る作品群、多くの写真集から選ばれていることが挙げられる。作家に対する一定のパースペクティヴを示すことを狙いとしたのだろう。その分、絞り込まれた写真集から集中的に多くの写真が展示されていた前回より、印象が分散されることにもなるのだが。

 今回の展示は19501年代の「初期写真」から始まるが、やはりまず強い印象を与えられるのは、ホスピスの老人たちをとらえた『死がやって来ておまえの目を奪うだろう』からの作品である。対象との一定の距離を保ち、激しく対峙するというよりは静かに見詰めることによって得られた写真は、しかし深く険しい皺を画面に刻印されており、観る者は被写体である人物と向かい合うことはなくとも、そこに足音を響かせながら近づいて来る死からは眼を離すことができない。

 『スカンノ』の不可思議な夢かデジャヴュめいた形象の配置や『ルルド』の群衆造形美(テオ・アンゲロプロスを思わせる)は、世界の静謐さ、音のない世界の寄る辺なさと存在の手触りの確かさを際立たせる。それは無声映画のフォトグラムのように見える。凍り付いた動きが示す時間の結晶化。
  

 これらの自己を確立した作品群を経て、1960年代初めに撮られた『私にはこの顔を撫でてくれる手がない』がやはり私には一番好ましい。これは前回もそうだった(新聞に載っていたのも、この写真集からの1枚だった)。先立つ写真集で確立された優美な造形感覚を踏まえながら、白地に映える黒い形象の輪郭は雪に溶けるように柔らかく、被写体である修道士たちの表情や動きは喜悦に満ちている。降り積もり、さらにちらつく雪が大地を覆い尽くし、すべての汚れや陰影を洗い流して、無垢な童心を弾けさせる。と同時に修道士たちの身体は肉の重さを脱ぎ捨て、風に舞い上げられる雪の華のように無重力状態で尽きることのない戯れを始める。その時、白地に散らされた黒一色の形象の輪郭は、白と黒という本来は絶対的な対比の下にありながら、光線の一瞬の揺らめきに似た軽やかな移ろいを見せる。ここで黒はおだやかな微笑みをたたえ、白と仲睦まじく触れ合いながら全体の布置を編み上げる。疲れて寝入ってしまった老妻の肩にそっと毛布を掛けるように。
  

 それに比べると以降に継続して撮影された風景の連作は、リノリウム版画的な凝縮され均一化された黒による抽象的な造形へと昇華されてしまっており、あのおだやかな冬の陽射しの運んで来る魅惑的な甘い匂いは、厳冬の凍てつきや真夏の容赦なく照りつける光線がつくりだす、きっぱりとした陰影/明暗に掻き消されてしまっている。その一瞬のうちに焼き付けられた光景には、あの暗く湿ったおぞましいホスピスの、死の匂いを濃厚に放つ皺が深く刻まれているように思われるのだ。


 最後に展示されていた彼による詩文を掲げておきたい。
  瞬間=呼吸
  ひとつ前の呼吸が
  次の呼吸より大切だということはない。


 前回、久しぶりに月光茶房を訪れた話をしたが、店主原田とは写真の話もした。月光茶房の壁面の以前はLPジャケットがディスプレイされていた場所に、いまは原田自身が撮影した写真作品が数点展示されている。四谷荒木町の喫茶店で開かれた二人展に出品されたものだ。月光茶房を打ち合わせに利用していた写真家が、彼の作品を見てこう語ったという。「普通アマチュア写真家はカメラから入る。本来は道具に過ぎないカメラに熱を上げて、惚れ込んだ名機を手に入れ、それからさて何を撮ろうかと被写体を探す。だから写真がカメラの眼を通した『記録』となる。あなたの写真からはあなたが見ている撮りたいものが見えてくる。だから『記録』にならない。これはアマチュアが撮った写真にはめったにないことだ」と。
 その写真家の指摘は、私の感じている原田の写真の特質と響きあう。彼の写真はもののかたちや輪郭をとらえようとしない。彼の眼はそうしたかたちや輪郭をかたちづくっている生成へ、そこでせめぎあう諸力へと注がれている。前回のブログで採りあげたデレク・ベイリーと田中泯による『Music and Dance』における交通騒音に洗われ、雨音に掻き消されるギター音を、それらを還元し空間に侵食される以前の演奏音の復元へと遡行するのではなく、それらの変容とともに聴くこと。そこで流出や流入、相互浸透がかたちづくっている動的平衡のプロセスに耳を浸すこと。そうした視線を誘うものが原田の写真作品には確かに備わっている。そして『Music and Dance』はかねてからの原田の愛聴盤なのだ。
 もともと彼自身が絵を描いていたこと、そしてTVドキュメンタリーで観たとある画家の制作作業が、キャンヴァスに筆が触れる物音の絶え間ない継続/集積と感じられた経験。こうしたことが彼の眼差しをつくりだしたのだろう。それは地層の積み重なりや褶曲/断層に幾何学的なパターンではなく、生々しい力の痕跡を身体で受け止める地質学者の感覚に近いのかもしれない。
 前述の二人展では、もうひとりの写真作品がはるかに大判で、しかもあでやかな極彩色の花の写真だったために、その「騒々しさ」の傍らで原田の作品に耳を傾けることは難しかった。花の色に眼を奪われ、その明確な輪郭に縁取られたかたちに囚われてしまった視線は、原田の作品が捉えている生成の力を触知することができず、そこを素通りしてしまう。今回のように、原田の作品だけがモノクロームな壁面に複数並べて展示されている環境では、作品ごとに被写体や構図、マティエールが全く異なるにもかかわらず、いやそれゆえにこそ、眼差しが焦点を合わせるべきある共通の平面/力場が浮かび上がる。



 多田雅範がまたブログ記事「レイヤー構造によって受信する枠組」(※)でエールを返してくれている。
 ※http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20130705
 そこで彼は「福島恵一によれば、わたしはデヴィッド・ボウイよりカッコいいことになる」と書いている。確かにステテコ姿で卵ご飯を掻き込み、室外に置かれた洗濯機に向かわせたら、ボウイは彼の足下にも及ばないだろう。
 それはさておき、ここで多田はGilles Aubryの作品の聴取が耳の風景のあり方を不可避的に変容/更新してしまった体験に触れている。今までも見ていたはずなのに見えていなかった細部が浮かび上がり、視界の感触は全く別のものへと変貌する。今まで感知していた世界が足下から崩れ去り流動化して、踏みしめていた地平が消失しまう経験。
 鈴木昭男とのデュオで、ジョン・ブッチャーが図らずも階段の軋み(それは演奏者が立てたものではない)と「共演」してしまった時、彼の音は階段の軋みを演奏の場へと迎え入れ、その一部として浮かび上がらせたと言うことができる。そこに居合わせた私は、この階段の軋みの浮上により、ブッチャーが空間の隅々にまで張り巡らしている眼に見えない鋭敏な感覚網に気づかされた。と同時に、そのネットワークのセンシビリティに部分的に同調/共振することにより、耳の視点がずらされ、空間に潜むざわめきが視界に浮かび上がるのを目撃した。チラシの紹介文では、ブッチャーの超生真面目ぶり(超・超絶技巧と同じくらいスゴイ。何たってもともと原子物理学者だし)をスナップしたユーモラスなエピソードとして紹介しているが、実はそれは恐るべき画期的事態でもあったのだ。


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アート | 23:17:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
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