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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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高潔さの喪失 - 三善晃・堂本尚郎追悼  Loss of Nobility - Akira Miyoshi & Hisao Domoto RIP
 2013年10月4日に三善晃と堂本尚郎が亡くなった。「時代」が終わった。

 三善晃の名は以前から知っていたが、聴き始めたのは最近のことだ。多田雅範の高評価に興味をそそられて再発された『交響四部作』を聴き、一気に引き込まれた。続けて先行して再発されていた『レクイエム』へと聴き進んだ。再発のディレクターは共に日本伝統文化振興財団在籍時の堀内宏公。彼は多田と共に音楽サイトmusicircusを主宰している。
 私が魅せられたのは、三善の硬質なリリシズムであり、それを支えている覚醒した構築感である。深い叙情をたたえ、ロマンティシズムに身を沈めながら、甘さやべたつきが微塵も感じられないのは、音の配置と配合に対するぱきぱきと覚醒し透徹した感覚による。「構築感」と言い、「構築」と言わぬのは、三善のつくりだす響きが音のピラミッド状の積み重なり、石造りの重厚さとは無縁だからだ。散乱する響きは初秋の陽の光にきらめく透き通った蜻蛉の翅を思わせる。まぶしさのない鮮烈さ。醒めた熱情。積み重ならず、壁を築かず、どこまでも向こう側を見通せる開かれた響き。僅かな濁りも許さず常に清冽であろうとする響きには、いつもアドレッセントな痛みが伴うが、それを永遠の文学青年的なイメージに押し込めてしまうのはあまりにも勿体ない。だから、毎日新聞に掲載された梅津時比古による追悼文「死を通した生の称賛」の、死の影、死への志向性を三善の通奏低音としてとらえる見方には違和感を覚えずにはいられない。そこでは東京大空襲に遭遇し「多摩川で水遊びしていたら、隣にいた子供たちが機銃掃射で真っ赤に血を流して死んでしまった」体験や、「オーケストラと童声合唱のための 響紋」においてオーケストラにかき消される「かごめかごめ」が象徴的に取り扱われている。
 「追悼」が終わってしまった一人の生を総括し、棺の蓋を閉じることである以上、それは作法にかなった所作なのかもしれない。しかし、後にも述べるように、私たちはこれからも三善晃を聴き続けなければならない。あるいは今こそ心して聴き始めなければならない。ため息をひとつついて「三善晃」という書物を閉じ、書棚にしまい込んでしまうのではなく、すぐさま頁を開き読み進めること。せめていつの日にか読み改めることを自らに課して、机の上に出しっぱなしにしておくこと。

 
  三善晃『交響四部作』   三善晃『レクイエム』


 堂本尚郎の作品を直接見たのも、つい最近のこと、このブログでレヴューした(※)『アンフォルメルとは何か』展(2011年ブリヂストン美術館)においてだった。そのレヴューで私は「先駆者」であるジャン・フォートリエやジャン・デュビュッフェに比べ、「流行としてのアンフォルメル」の中で制作された作品(マチウやスーラージュ、アルトゥングら)は一定のテンプレートに拠っているがゆえに食い足りないとして、次のように記している。
「もうひとつは、個々人の〈様式〉に沿った作成過程に生じる不確定性への注目であり、筆の運びの揺らぎや刷毛目のずれが、まさに「不定形」を呼び込むものとして尊重されることになる。こうなると書道における筆のかすれ等を尊ぶ日本伝統の美的感覚は強力な武器であり、実際、堂本尚郎の作品の完成度の高さは群を抜いていたが、この作品をあえて〈アンフォルメル〉の名の下に評価する必然性は薄いように感じられた」。
※http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-109.html
 その後、2005年に開催された大回顧展の図録を入手し(何とブックオフで500円!で購入)彼の変遷の軌跡を知ることになるが、ごく初期の日本画を別にすれば、「アンフォルメル」時期、続く「二元的アンサンブル」や「連続の溶解」の時期から、晩年の「無意識と意識の間」の時期に至るまで、そこには通底した感触があるように感じられる。筆触や飛沫による揺らぎへの繊細な鋭敏さ。「アンフォルメル」期において、カンヴァスに油彩により描かれる形態は流動化し、マッスは解体され、絶え間ない運動へと解き放たれていく。最初から風がうなり吹き抜け、荒波が襲い逆巻く空間だけがあるとでも言うように。そこには鈍重な枠組みがないのと同様に、重苦しい混沌も存在しない。油彩本来の形態の、色彩の、量感の積み重なりの代わりに、奥行きの浅さにもかかわらず伸びやかにすれ違う速度/運動あり、それを可能にするモビール様の可動的な構築性がある。
 こうした特質は、画面分割による構成を導入した「二元的アンサンブル」期や、一見ブロックの集積を思わせる構成に至る「連続の溶解」期、さらにはそれがブリジット・ライリーのオプ・アート作品をすら連想させる正円のシステマティックな反復にまで発展するそれに続く時期でも変わらない。時にリジッドな精密さを装いながら、それでもなお形態/構成にはにじみやかすれを介して常にずれていく可動性、音もなく這い進む菌糸の先端の震えが宿っている。また、色彩は積み重なって量感のあるマッスを形成することなく、はらはらと剥がれ散り落ちる脆さ/はかなさをたたえている。そうした不確定な流動への契機が「構成」を侵食し前景化してきたのが、晩年の「無意識と意識の間」ととらえることができよう。
 毎日新聞に掲載された尾崎信一郎による追悼文「変容を恐れぬ勇気」が、「半世紀以上に及ぶ作品の変容、実験精神の軌跡」にスポットを当てていることは、何かひとつのことに打ち込み、長い年月をかけて「深化」の物語を紡いでいくこの国の職人的芸術家たちと堂本を峻別しようとする意図の現れ、語りの戦略として理解できる。だが、自解しながら次々とコンセプトを破り捨て、マーケティングに沿って「変貌」を遂げていく、この国の昨今のアーティスト群と画然と峻別するためにも、ここではむしろ通底する連続性の方を指摘しておきたい。なお、尾崎は前述の2005年の大回顧展のキュレーターであり、図録にも長文の批評を寄せている。彼は2004年にはもはや伝説的な「痕跡」展をキュレートしており、著書『絵画論を超えて』(東信堂)はフォーマリズムやアンフォルメル及びそれ以降について思考する際には必読と言える。

 
堂本尚郎回顧展図録(2005年) アンフォルメル期の作品

 
「連続の溶解」期の作品


 「連鎖反応」期の作品


 三善と堂本に共通しているのは、研ぎ澄まされた響きの強度にだけ賭ける集中と潔さであるように思う。そこに言い訳はない。もっともらしいコンセブト解説も、流行への追従や反発(を装った追従)も、受容の水準に「配慮」した(と称する)妥協もない。自らのエクリチュールを高め極め尽くす高潔さがあるだけだ。無論、達成のあるところには権威が生じ、権力を呼び寄せがちである。よほど注意深く振る舞わなければ、そこには取り巻きたちによる低レヴェルの「政治」が忍び込む。このことは否定しない。そのことによって本人を免罪するつもりもない。だが、そうした「実績」によって達成の価値が減じられるわけではない。繰り返しになるが、人間なんてドングリの背比べで、一人の人生などたかが知れている。だが作品や達成はそうした一人の人生を軽々と超え出て、他人の人生を触発し、後世へと受け継がれていく。そうした輝きを、汚辱に満ちた生から拾い上げずして、批評の役割など存在しない。
 学芸会の演目を批評の刃で切り裂くのは大人気ない振る舞い、いや乱暴狼藉とすら言うべきものだろう。それは出来不出来にかかわらず、家族や友人たちに「頑張ったね」と祝福されるべきだし、何よりも演じた当人たちは達成感に酔ってよい。それはそれで構わない。けれど何の関係もない他人を巻き込んで、皆に「感動」を強要するのはお門違いだ。「私たちは一生懸命やっているのだから、あなたたちにはそれに感動する義務がある。もとよりそれを拒絶したり、批判する権利など誰にもない」というのは、それこそ乱暴狼藉にほかなるまい。
 アイドル歌謡にしろTVドラマにしろ、あるいは音楽でも美術でも演劇でも映画でも、今日ほど「感動」や「共感」がこのような回路で息苦しく強制されてくる時代はなかったのではないだろうか。いや違う。こう言うべきかもしれない。何度となくこの国で繰り返されてきた「同化」の強制が、今日ほど空虚な微笑みと浮かれた軽薄さを浮かべている時代はなかった‥と。
 大友良英は著書『ENSEMBLES』(月曜社)の冒頭で飴屋法水の芝居を採りあげ、そこに登場する女子高生たちが「それぞれ個々の個性と歴史を持ったひとりの人間たち(生き物たち)に見えてくる」変化について書いている。芝居が終わり出演者の名前=本名がスクリーンに映し出されると理由もわからずボロボロと泣いてしまうと。演技や脚本の質にかかわらず、名前を持った一人ひとりの存在はかけがえがないというわけだ。このことはわざわざ他人のブログから、打ち上げの席で「私たちの名前を全部言えますか」と紹介を求められ、18人「全員の名前を言えた飴屋さんが友人であることをちょっとだけ誇らしく思った」という一節を引用してみせていることからも明らかだろう。そしてそれはそのまま、スタッフ一人ひとりの本名を掲げた日記体によるYCAM「ENSEMBLES」展の準備作業の記録に引き継がれる。年間4億円の維持運営経費を要する公立施設におけるプロのアーティストとスタッフによる一大企画は、こうして女子高生の学芸会と周到に重ね合わされる。同展のチーフ・キュレーターを務めた阿部一直は注意深くこう書き留めている。「今回の大友の『ENSEMBLES』に共通する、きわめてシンプルなルールは、同期(シンクロ)してはいけない、ということである。(中略)同期せずに存在(共存)せよという、共存はするが微細な多数の動きの突出・交走によって存在が現れる、またそれらを見出し合う知覚を形成せよ、というラディカルな空間のポリティクスが、強靭に『ENSEMBLES』全域に響き渡っているのである」と。まさに然り。そして歯止めとなる唯一の倫理である、この「同期の禁止」を欠けば、2008年の『ENSEMBLES』は2013年の「あまちゃん」狂想曲にまっすぐつながってしまうのだ。


 三善や堂本の死に際して多くの論者が「ひとつの時代の終わり」を感じたと記している。だが先に触れた息苦しいまでの低俗の充満を思う時、彼らが貫いた高潔さにこの国で巡り会うことは、もう二度とないように私には思えてならない。「ひとつの時代」ではなく、「時代」が終わったと冒頭に記した所以である。


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アート | 19:11:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
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