■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

別の空間へ - リアストゥライニ ライヴ・レヴュー  Into Another Space - Live Review for LYOSTRAINI
 例によってひとしきり道に迷ってからたどり着いた会場は、すでに暗くなった街角にひっそりと佇んでいた。外から全体を仰ぎ見る間もなく入口の灯りに吸い込まれ、受付を済ませて演奏の行われるスペースに立ち入って、柔らかくあたたかな照明に浮かび上がる空間の変わりように驚かされる。まるで別の空間がワープして、ふっと現れたようだ。そこは使い込まれた木の長椅子が並ぶ教会の礼拝堂で、正面の壁のアーチ状の窪みに十字架が掲げられている。裕に3階分はある高いヴォールト天井、木と漆喰の壁、高い位置に設けられたステンドグラスも外が暗いため色彩を放つことなく身を潜めている。
 80年前の建築当時からそのままで、現在も礼拝時に使われているという長椅子は固くがたがたで、そこに座っていると身体が空間に次第にはまりこんでいく感じがする。離れたところの話し声が妙に近く感じられるのは長い残響のせいだろう。平面としてはさして広くない会場は、結局、ほぼ満席となった。

 この日の演奏について語るべきことはそう多くない。先に結論を言えば、この日の演奏への称賛も多く聞こえてくるなかで(※)、私は見事にすれ違ってしまったのだ。あるいは1週刊前に「1982」のライヴを聴いた記憶を生々しく留めたままこの空間に入り込んで、ああ、ここで彼らを聴けたならどんなにいいだろうと、あらぬ夢想を膨らませてしまったせいかもしれない。聴くべき何かを見出せないうちに、この日の演奏は終わってしまった。
 大きな期待とともに演奏が始まった瞬間、速いパッセージを繰り出すコントラバスの、パンツのゴムが伸びたような、びろびろにふやけた音色に驚かされた。立ち騒ぐ疑問符は5秒で失望に、10秒で落胆へと変わり、その後、一度も浮かび上がれないまま演奏は終わりを迎えることになる(アンコールを含め)。その間、私は一度も拍手することができなかった。
※たとえば次を参照
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131023
 http://homepage3.nifty.com/TAKEDA/live2013/20131022-1.html

 私にとってほとんど唯一の聴きどころは、Lena Willemark自身の説明によれば「牛やヤギを呼ぶ声」だという、あの空気を切り裂き、風を渡り、まっすぐに空間を射通して、聴き手を縛り上げる声を彼女が放った30秒間だった。その時、彼女は口元をマイクロフォンから外していた。ならば、もともとマイクロフォンは無くてよかった。歌の旋律を舞いながら声を閃かせる仕方に、凡百の歌い手とは異なる際立った技量を予感させながら、彼女の声は何重にも仕切られた向こう側にあるようで、むしろ生来の声の力をマイクロフォンに合わせてセーヴすることに力を注いでいるようにすら感じられた。そこにCD作品で聴き親しんだ、大地からあるいは古代から湧き上がる生々しい力を、いまここに解き放つ鮮やかな直接性はなく、言い訳を重ねるような持って回ったもどかしさを覚えることとなった。もしかするとそれは、声が踏みしめ、あるいは蹴立てて飛翔すべきコントラバスの地平が、先に述べたような「液状化」を来して成立していなかったことによるのかもしれない。

 そうした影響は箏を奏する中川果林にも及んでいたかもしれない。トリオにおいて旋律を歌いながらリズムを彫り刻み、さらには荒々しいグリッサンドや弦へのアタックにより、触覚的な要素を一手に引き受けていた彼女の負担はかなり大きかったと思う。それゆえ肩に力が入ったのか、もっとすっと筆を入れてすらりとまっすぐな線を描くべきところを、徒に流れを滞らせ、軌跡をうねらせていたように思う。それは旋律の歌わせ方に関してはルバートの多用、フレーズの提示についてはヴィブラートの不適切な適用として現れていた。これらの選択、というより箏の慣用的な語法の無頓着な名残は、演奏を重くして軽やかさを奪い、インタープレイにおける反応を遅らせる。それは箏がエキゾティックなスパイスの役割を超えて、インプロヴィゼーションの領野に身を投じていく際に再検討されるべき重要なポイントだと思う。沢井一恵は彼女のインプロヴィゼーション初体験となったフレッド・フリスとの無惨な共演(私はその「9×9」と題されたコンサートの聴衆だった)を踏みしめて、その後、鮮やかに羽ばたいた。
 さらに前述のグリッサンドをはじめとするノイジーで触覚的なサウンドを奏でる部分では、ドライヴ感を重視するあまり、音が垂直に立ち上がらず斜めによれてしまっている。ちょうどフィギア・スケートのジャンプで回転軸が傾いている感じか。だがこれも結局、沢井一恵の演奏と無意識に比較してしまっているわけで、あまりにも基準が厳し過ぎるかもしれない。先に述べたように彼女は多くの役割を献身的にこなし、見事な力演を見せたのだから。

 コントラバスのAnders Jorminについては前述の「パンツのゴムが伸びたような、びろびろにふやけた音色」への違和感に尽きる。運指の素早さは流石だが、出てくる音がこれでは評価のしようがない。アルコ音も上滑りで実体感に乏しく、どこを採ってもアーティキュレーションが不明瞭なものだから、アンサンブルは合わない入れ歯のようにフガフガしたものに成り果ててしまう。Bobo Stensonの共同作業者なのだから、これが本領とも思えないが、コントラバスのリアルなボディ感を消去して弦の振動だけをイコライザーやリヴァーブで加工したような「エアー・ベース」的音色設定は、PAエンジニアの責任ではあるまい。彼自身が今回の使用楽器(ライヴ・ツアー用のレンタルかもしれない)のサウンド戦略を確立できていないのではないか。今回の演奏空間の豊かなアコースティックを思えば、輪郭が固めのゴリッとしたピチカートや、切り裂くようなアルコ、深々とした胴鳴りや倍音領域へのアタック等が非常に効果的なものとなったことが明らかであるだけに、返す返すも残念でならない。


2013年10月22日(火) 世田谷区 富士見ヶ丘教会
LYOSTRAINI (リアストゥライニ)
 Lena Willemark (レーナ・ヴィッレマルク) ヴォーカル/フィドル
 Anders Jormin(アンダーシュ・ヤーミーン) ベース
 Karin (中川果林 なかがわかりん) 唄/二十五絃箏




スポンサーサイト


ライヴ/イヴェント・レヴュー | 18:10:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad