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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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外に触れること/内に耳を傾けること − hofl『LOST AND FOUND』リリース記念ライヴ・レヴュー  Touching Outside / Listening to Inside − Live Review for hofl『LOST AND FOUND』 Release Party
 会場の建物に着いて3階まで外階段を昇る。恵比寿駅から10分程度にもかかわらず、駅前の喧噪は届いてはこない。外階段の側は思いがけず開けていて(後で調べたら防衛省の研究施設だ)、高い建物もなく、随分遠くまで見通せる。ごーっという暗騒音の厚い層もない。時折、下の道路を通り過ぎる車の音がするだけ。
 ライヴ・スペースはマンションの一室。ドアを開けるともう結構人がいて、カセットに録られた環境音が流れている。地下鉄の走行音、おそらくは屋外における環境音をはらんだギターの爪弾き、街頭募金の呼び込み、ブランコの軋み‥‥。脈絡なく流れる音に、こうした場に付き物の「アーティスト」たちは無論耳を傾けるはずがなく、やあやあと互いの社交に余念がない。白い壁と高くはない天井に囲まれた、柔らかな木のフローリングの部屋は、家具がないにもかかわらず、詰めかけた聴衆が音を吸うためか、声が響きすぎることはない。カーテンが開けられ、ライヴのセッティングがされた向こうには宵闇の迫る景色が広がる。サッシが閉められているため、外の音はガラスに濾過され、身体に働きかける強度を持っていない。むしろカセットテープの環境音の方が、ざらざらと粒子が荒れている分、肌を刺す刺を含んでいる。にもかかわらず、そこにいた「聴衆」たちの多くは、それに何の注意も払おうとしない。駅のアナウンス、交通騒音、発車のベル‥‥それらは紛れもない環境音、日常生活を満たしている何の変哲もない音であるからだろう。パーティ・トークがすでに始まっているカセットテープの「演奏」を、それと気づかぬまま踏みつぶしてしまう。

 CD『LOST AND FOUND』のデザインを担当した女性2人の挨拶に続き、hofliの演奏が始まる‥‥いや始まらない。さっき止めたカセットテープ・レコーダーをまたいじっている。合計3台のレコーダーから、間を置いて鳴る視覚障害者用の誘導チャイムのゆったりとした繰り返しや、テープの回転速度が揺れるギター・リフ(結局これはボツになり、別の環境音に差し替えられる)が、うっすらと空間のパースペクティヴを浮かび上がらせる。

 演奏はギター弦の弓奏から始まった。フレーズを編み上げるほどの息の長さを持たず、サウンドの輪郭を獲得できるだけの濃度も満たさず、表面を滑りながらその場で解け、髪の毛のように細く浅い引っ搔き傷だけを残していく音の軌跡。響きよりもその微かな手触り/抵抗の移ろいを楽しむ。
 やがてそれらの集積はサンプル&ホールドされて、次なる弦の振動を重ね描きするための下地となる。hofliは繊細な手さばきで素材を配合し、それぞれが浮き沈みしながら表れては消え、いつも異なる編み目が見えているような精妙な仕掛けをつくりあげる。爪弾きを重ね、音叉で弦を震わせ、次々に音を繁らせながら透過性を保ち、決して響きを飽和させてしまわない。朝もやにけぶる森にも似た眺めのうちに、様々なミクロな運動 — 水面を滑るアメンボの動きを思わせる − がちらつきながら、全体としては動くことなく漂うだけ。低弦をブーミングさせたり、微細にきらめく朝露を滴らせたりと、注意深く均質化を避ける配慮が施されているのだが、あまりにヘヴンリーではある。もう焦れて、もぞもぞと動き回り、無作法にジャンバーの衣擦れを立てまくる者がいる。

 途中で終わってしまったのか、テープの音はもう聴こえなくなっていた。さして車も通らないのか、ドアを閉めてしまうと外の音もほとんど入ってこない。手を伸ばせば届くほどの近距離で聴衆と向かい合う中で、演奏は希薄なレイヤーを敷き重ねた繊細へと傾く。先に見たように響きが飽和しないよう、巧みに空隙が設けられているが、それらは言わば内向きに開けているのであって、必ずしも外側に開かれているわけではない。
 『LOST AND FOUND』に収められた楽曲では、フィールドレコーディングが消し去り難い外部を供給し続けるがために、演奏は半ば強制的に外へと開かれ、別の世界と向き合わされていた。さらに聴き手にとっては、CDというパッケージ、録音という場の中で、それらが「等質化」されていることも大きかった。だが、ライヴな場で、そのように外に開かれた演奏を行うことは大層難しい。常に外と向かい合わざるを得ない場であるからこそ、改めて「開く」ことが難しくなる。音楽をかたちづくるためには、まず閉じることが求められるからだ。耳を澄ますべき演奏であればあるほど、無作法な乱入者に土足で上がり込まれ、踏み荒らされてしまうことをどうしようもできない。耳を聾する大音量のロック・コンサートですら、いちいち聴衆に「乗ってるかい?」と確認し、手拍子やアクションでファシズム的に全体を束ね、ひとつの方向に整流化しなければ演奏できないのだ。

 hofliこと津田貴司が笹島裕樹と展開しているstilllifeの演奏は、照明を落とし、キャンドルの炎の揺らめきに集中させる一方で、隙間の多い演奏が外部のノイズを取り込み、それを消化しながら演奏を展開することを可能とする。
 その時、演奏がこちら側にあって、聴取がその外にあり、両者が向かい合っている構図は希薄化し、演奏は外へと滲み出し、聴取は内側へと入り込んで、互いに入り組み、入り混じるようになる。聴き手の内部を含め、そこここから音が生まれ、響きへと高まり、流れを編み上げて、演奏/聴取体験の一部となる。
 津田はライヴの翌日のFBのコメントに「先週のスティルライフから考えると、ものすごい急カーブを曲がった感じではありますが、目覚めてみればどっこい生きている。花衣さんがコメントで書いてくれたように、「ほんとうはあれはこんなふうに流れでていったんだ 」...という気分に浸る日曜日の朝です。」と書き込んでいる。「花衣さんのコメント」とはCD『LOST AND FOUND』に寄せられた次の一文。

胸がざわざわしている
そう ほんとうはあれはこんなふうに流れでていったんだ
静寂に横たわる からだのあちこちから気泡が天井に上がって ちいさな水の輪が幾重も

 彼女の言う通り、『LOST AND FOUND』の楽曲にも、stilllifeと通底する「そこここから音が生まれ、響きへと高まる」感覚がある。聴き手の身体の外だけでなく、内側にも響きの芽吹きがあるような。それを感じ取るには聴き手が耳の視界を広げることが求められる。ステレオ空間に仮構されるステージ上だけではなく、その周辺、聴き手の身体まで照らし出すことが。それは「構え」の問題というより、「気づき」の問題にほかなるまい。いつもの繰り返しになるが、私たちは自分の内部の音をいつも聴いているのだから。それを意識しないのは、単に無視しているからに過ぎない。ライヴ演奏の場で、やはり前方のステージ空間だけに注目し、それ以外の音には眼もくれないのと同じことだ。そうした輩には、ほとんどひっきりなしに生じる衣擦れのノイズも耳に入らないのだろう。だが、たとえライヴの場であっても、hofliの音はいまここにすでにある音とともに視界に収めたい。

 響きのかけらを振り撒き、飛沫を飛び散らせて始まった3曲目の演奏は、流れゆく音の軌跡を束ねて足踏みオルガンを思わせるひなびた持続音の構成に至り、1曲目以上に内部に隙間をはらんで、包容力のある空間をつくりだしており、突如、音を立ててポスターが剥がれ落ちる心霊現象的なアクシデントにも、少しもたじろぐことがなかった。
 だが、そうした「音楽を開く」ことにhofliが最も傾倒したのは、2曲目の演奏だったろう。電車の走行音や鳥の声が、1曲目より大きな音量で流され、さらに3本目のテープからは時折遠くの話し声が、不明瞭なまま聴かれる。競合し、響きあい、重なりながら浮かび上がるこれらの空間に対し、彼は低弦をブーミーに搔き鳴らし、ひとり物思いに沈んでいく。その沈潜がテープの中の動きを照らし出す様は、ちょうど8mmフィルムの上映に音を添える仕掛けを思い出させる。フィールドレコーディングの持つ記録的/視覚喚起的な力が、ここでは「想起」のかたちで発現し、あり得ない懐かしさが沸き立つ。テープの音の動きにそのまま重ねられ、そこに寄り添うギターの爪弾き。添えられた響きを通して透かし見ることによる映像の変容。ここでギターの演奏はステージ上に位置しながら、「画面」の外に出て、その傍らに佇んでいる。

2013年12月14日(土) 恵比寿RECTOHOLL multiple space

 
写真は津田貴司のFBから転載

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:46:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
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