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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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竹田賢一『地表に蠢く音楽ども』について  On "Musics Wriggling on Earth" by Ken-Ichi Takeda
 ずっと手に取る機会がなくて、ソウルに向けて旅立つ前日にTower Record渋谷店で入手。行きの飛行機から読み進める。到着後しばらくして、妻から移された風邪(ノロ?)でダウンし、その後は別の本にチェンジ。気力が少し回復した滞在後半、また、読むのを再開し、帰りの飛行機でとりあえず読了。私の身体の忌避反応が率直に示しているように、読み手の気力・体力を求める本だ。その後もぱらぱらと読み返しているが、「消化」できた感じがしない。長期間に渡って書かれた文章の「集成」であることが、一点からの見通しを難しくしている部分もあるだろう。‥‥というと「散漫」との誤解を与えてしまうかもしれないので付け加えるならば、内容は編集によりかなり絞り込まれており、私自身、竹田賢一の文章を網羅的に読めているわけでは全然ないにもかかわらず、「あれを入れてほしかった。これも漏れている‥」と思わずにはいられなかった。巻末の書誌を見れば、さらに「ああ、あれも読みたい、これも‥」となることは必至。

 本人参加の鼎談(図書新聞)、幾つかの書評(週刊朝日、ミュージックマガジン)もあるようだが、とりあえず今は手元になく参照できない。どうしようかと考えたが、もともとこの本を読んで書くことをこの年末年始の課題として設定していたこと、そしてこれは思いがけず、竹田氏ご本人からFBの関連リンクに「いいね」をいただいたこともあり、ここは思い切って書いてしまおう。なので、本稿は全体を紹介することを目指さず、トピックを絞り込んだ読後メモ的なものに留まらざるを得ないことをあらかじめお断りしておく(結果としてずいぶん長くなってしまったけど)。


竹田11.連載「地表に蠢く音楽ども」
 構成は必ずしも執筆順ではないが、冒頭に掲げられているのは、巻末書誌でも最初に掲げられている「地表に蠢く音楽ども」の連載の再録である。連載に至る経緯については、本書に収録された土取利行・坂本龍一『ディスアポイントメント − ハテルマ』のライナーノーツの再発時の追記部分に詳しい(この盤の再発に奔走された当時のキング・レコードのディレクター堀内宏公氏の功績か)。それによれば、新宿ゴールデン街の飲み屋のママのシャンソン・コンサートを竹田がプロデュースすることになり、ブリジット・フォンテーヌを題材に選ぶ。すでに決定していた坂本龍一(同じ店の常連)以外のミュージシャンを集めていて、ブリジットの日本盤をリリースしていたコロンビア・レコードに広告をもらいに行ったところ近藤等則グループを紹介され、ベースの徳弘崇とドラムの土取利行に依頼する。そしてコロンビア・レコードのディレクターから話を聞いた間章(彼は当時すでに『ラジオのように』をはじめとするブリジットの日本盤のライナーノーツを手がけていた)が連絡を取ってきて、『月刊ジャズ』誌で音楽批評を書き始めることになる‥‥と。

 こうした「ドミノ倒し」は当然読者をも巻き込んでおり、亡き大里俊晴はそのひとりだった。本書巻末に収録された「紙表に蠢く音韻ども[あとがき]」によれば、大里は「竹田さんのために論集を出したいわけではなくて、70年代後半から80年代にかけて自分の行動や考え方に影響したものを整理しておきたい。竹田さんの書いたものは竹田さんのものではないのだから」と言い、「反論の余地はなかった」と竹田は書いている。

 当時の『ジャズ』誌は、1990年代になってから、今は無き三軒茶屋の古書店で『映画批評』とともにバックナンバーを数冊ずつ安価で手に入れて読むことができた。その店では他にもA5版『トランソニック』、『迷宮』等をやはりプレミア無しで手に入れたっけ。
 そのようにして手元にたまたま『ジャズ』1975年9月号がある。この号から間章による新連載「ジャズの"死滅"へ向けて」が始まり、川本三郎、諏訪優等の連載陣に加わっている。後に間と竹田が分担執筆することになる海外盤紹介コーナー「Disk In the World」は編集人の杉田誠一がひとりで執筆しており、FMPやOgun等ヨーロッパのレーベルを中心に、Irene Schweizer, Rudiger Carl, Hans Reichel, Fred Van Hove, Steve Lacy, Alan Skidmore, Mike Osborne, John Surman,Harry Miller, Cecil Taylor等の参加作品12枚が紹介されている。そして特集は何と山下洋輔トリオで(特集に続いて『UP-TO-DATE』の広告が掲載されているから、この作品のリリースに合わせた企画と推測される)、「ピアノ炎上」イヴェントに関する粟津潔のリポート、山下洋輔「ブルーノート研究」の採録、坂田明へのインタヴュー、山下洋輔完全ディスコグラフィ等と並んで、竹田賢一「地表に蠢く音楽ども」第1回が掲載されている。目次にも〈新連載〉であることは明記されているのだが、掲載場所は特集の中のひとコマとなっている。

 その後、たとえば「自販機本」のページに、エロなヌード写真に挿まれた異様に「浮いた」ページとして仕立てられたりもした竹田原稿だが、ここでは一見して(あくまでも見かけの上では)、他の稿に埋もれるようにして並べられていることに注意したい。この連載第1回ですでにその後も続けて用いられる対話形式が試みられているのだが、そこで向かい合っているはずのAとBは明確にキャラクタライズされず、文章は単なる箇条書き、あるいは断章形式のように読めてしまう。そして、そこでは「真に知的な意識のメスによって"ジャズ妖怪"を徹底的に解剖すべきなのだ」という山下洋輔の提言に応えようとして、即興性が「タブラ・ラサ」ではあり得ないことを明らかにしながら(この指摘だけで当時の凡百のフリー・ジャズ論をはるかに凌駕していよう)も、山下トリオの演奏を突き放してしまわない文の運びは、かえって事態をわかりにくくしているように思われる(「以前は、強迫観念のように音を叩きつけつづける山下トリオの演奏に、意識と肉体の弁証法を感じて満足していたのだが、彼らが音を出しつづけることによって聞かせまいとしているものはなんだろうか」との問いは、この論稿中で答えられることがないのだが、いやそれどころか、現在までに書かれたありとあらゆる山下トリオ論の前に、依然として立ちはだかっているように思われる)。

 というのも、これが連載第2回では「ジャズはやっぱりアクースティックだ」といった発言の不用意さがルー・リード『メタル・マシーン・ミュージック』を題材に批判されるのだし、第4回では「ジャズはライヴだ」が同様に批判の俎上に載せられる(「そのうえ生の演奏を聞きに集まる聴衆は、レコードを通じて個的に幻想していた態度を自ら積極的に演ずるのだ。ベンヤミンによれば『複製技術』の時代には全面的におしのけられるはずの礼拝的価値が、逆に展示的価値を付随的な演戯として従えて、ぼくたちの前に立ちはだかっている」との指摘は、今でも、いや今だからこそ有効である)。

 竹田の思考/志向を「既成ジャズ批判」というようにわかりやすく/平べったく切り取れないのは、民族音楽、人間の聴覚や認知ゲシュタルト、労働や祭祀の中からの音楽の発生といった汎音楽的な構えを、彼が自らの思考の基底に置いているからにほかならない。60年代からの楽天的な雰囲気の下、ありとあらゆる借り物の思考が花開き、その後、「68年」以降、「大阪万博」以降、「オイル・ショック」以降の冷えきった空気の中でそれらが急速にしぼんでいく時に、「現在位置の測量」をいかに行うのかが課題とされ、先の姿勢が要請されたのだろう。だから、この連載が3回に渡る「民族音楽の栄養分析」の執筆へと向かったことは必然と言える。しかも、「科学」や「科学」に憧れる社会学、民族学、文化人類学等が陥りやすいオーセンティシティへの崇拝を、すでに批判の対象としていることに注目したい。彼は「民族音楽の栄養分析」の(上)(中)と(下)の間に挿入された「伝統の威を借る寄食者のための間食」(連載第9回)で《オレゴン》を例に挙げ、「(前略)ジャズでもロックでも、ヨーロッパ音楽でも民族音楽でも、そのような様式のリニアーな発展の途上に、音楽性の複合体を想定する訳にはいかない音楽作品に対し、既に博物館入りした伝統の概念で切って捨てるほど、不毛な批評の方法はない」としている。

『ジャズ』誌における「地表に蠢く音楽ども」の連載は、先に触れた「民族音楽の栄養分析」で終了する。その最終回では、『永遠のリズム』以降のドン・チェリーが分析の対象とされるのだが、これは挿入された《オレゴン》擁護の続きとして、いかにも根無し草的な印象を与える彼のインド音楽の活用やトルコ人ミュージシャンとの共同作業、北欧での無国籍的な活動等を評価していて、筋は通っているものの、先に見た汎音楽的な構え自体の拠って立つべき基盤を解き明かすものとはなっていない。これに先立つ2回もまたアフリカ音楽の教育カリキュラムを巡る議論に費やされた感がある。
 本書に収録された論述の中で、先の願いにかなうものは『ロスコー・ミッチェル・ソロ・コンサート』のライナーノーツの冒頭に綴られる山岳ヴェッダ族を巡る部分だろう。

 「山岳ヴェッダ族の社会の成員にとって、音楽(少なくともぼくたちが音楽と名づけられるもの)とは、各人がそれぞれイニシエイションに際して自分のものとした『私の歌』しか存在しないからである。(中略)そこではソロという概念も、インプロヴィゼイションという概念も成立する余地はない。」

 注意深く行文をたどれば、連載の「別の」帰結として用意された「〈学習団〉1・20決起」のプログラムに、これに対応するであろう箇所を発見できる。それはイヴェントを構成する音楽、映像、朗読、講義の4つの主要なユニットのうち、竹田が担当した「講義」の部分である。彼によれば「講義は[資料1・1]の17の学習過程へのオリエンテーションとして、竹田が話した」とのこと。ちなみに[資料1・1]の内容は次の通り。
 学習1 音楽史を遡る
 学習2 音楽に国境をつくり出す
 学習3 民族の音楽に征服されること
 学習4 食物を聞く訓練
 学習5 楽器を使わない − 楽器をつくる
 学習6 メロディーの呪縛から自らを開放すること
 学習7 名前を消すこと、個人史を消すこと
 学習8 シンボルの音を探す
 学習9 リズムの点的理解から領域的理解へ
 学習10 リズムの不確定性原理へ
 学習11 ビートは円、リズムは歪み
 学習12 音を聞かない訓練
 学習13 夢をコントロールする訓練
 学習14 沈黙のヒエラルキー、量的差異を聞く
 学習15 沈黙の言語を学ぶこと
 学習16 一本の草と自分が平等であることを知る
 学習17 恊働作業に習熟する

 後半、あからさまにカルロス・カスタネダ色(「マラヤの夢語り」等を含む)が強くなるように思われ、そうした部分に辟易される向きもあるだろうが、このうち最初の学習1〜4あるいは7までを先の山岳ヴェッダ族との関わりでとらえたい。これを竹田がCan "Unlimited Edition"に収められた「民族音楽まがいものシリーズ」に関して論じている(論じようとしている)内容に接続すれば、先の願いはかなり満たされるのではないだろうか。そういえば竹田は「ヴェッダ・ミュージック・ワークショップ」なる活動を主催していたはずだ。その内容はどのようなものだったのだろう。

 以上、連載「地表に蠢く音楽ども」を読み進める際のわかりにくさへの対応として、『地表に蠢く音楽ども』所収の次の2つの論稿を補助線として用いることの直感的提案である。それが何をもたらし得るかについては、改めて考えてみることとしたい。
 p.205 ロスコー・ミッチェル・ソロ・コンサート
 p.223 Can "Unlimited Edition"


竹田32.地図製作者たち
 本書におけるよりまとまった、そして注目すべき論述として、「ロフト・ジャズ」からヘンリー・カウ/アート・ベアーズへと引かれる線、というより共有される「地図」への言及がある。
 もともと私が初めて眼にした竹田の文章は『フールズ・メイト』に掲載された(それにしても初出時ではなく、スペシャル・エディションによる再発時なのだが)「芸術熊たちの反歌」と「Henry Cow Discography − 日本語ヴァージョン」であり、共にHenry Cow 〜 Art Bearsを取り扱ったものだった。

 プログレ雑誌の常として、ファンタジー、エロス、オカルティズム等を採りあげるのに加えて、「来日記念」としてDerek Bailey関連記事が載り始め、さらに英国『Impetus』誌からの大量の翻訳転載を含む、アヴァン・ジャズ〜フリー・ミュージック特集の中に埋め込まれながら、後のRock in Oppositionフォローの出発点としてのHenry Cow 〜 Art Bears記事であり、編集長である北村昌士の論稿も併せて掲載されていた訳だから、場違いとの印象を持つことはなかったが、それでも竹田の文章には他とは異質の要素を感じていた。それはひとつにはロジック・レトリックのレヴェルで、情報を圧縮して注入しながらも、それを「情報主義的」に一人歩きさせずに批評のコントロール下に置く文章作法の厳格さであり、左翼アジテーションの語法を自在に用いながら、メタファーやシンボルを輝かせるエクリチュールの硬質さである。もうひとつにはブラック・ミュージックへの注視である。これは「プログレ世界」全般に欠けていたのだろうが、『フールズ・メイト』にも『Impetus』にもなかった。そこでジャズはイマジネーションやエナジーの源泉ではあっても、遠く過去に切り離されたものとして扱われていた。すでに遺産分与済みの祖先として。私自身は植草甚一の著作や清水俊彦『ジャズ・ノート』を頼りに(『ジャズ・アヴァンギャルド』が出版されるのはもっとずっと後のことになる)、まだ60年代フリー・ジャズを漁っているところだった。IncusやFMP、ICPは知っていても、竹田が「クリス・カトラー『地図作成についての予備的ノート』から抜粋、引用した」との注に続けて、「1977年春、チャールズ・ボボ・ショウらが組織したフェスティヴァルは、《地図製作者たちのジャズ・シリーズのための音楽》とネーミングされた」と名を挙げたチャールズ・ボボ・ショウのことは全く知らなかった。

 その後、雑誌『同時代音楽』2-2掲載の「ディスク・イン・オポジション」で竹田が後藤美孝との対談でHenry Cow〜Art Bearsについて語り、続くディスク・レヴューでDerek BaileyやSteve Lacyに続けてHenry ThreadgillやAnthony Davisを採りあげている(本書未収録)のを読むことになるのだが、おそらくはそれよりもArt Ensemble of ChicagoからAACM経由で、あるいはCompany周辺に「越境」してきた存在として、BYGレーベル以降のAnthhony Braxton, Leo SmithやGeorge Lewisを追いかけた方が早かったように思う。あるいはJohn ZornやEugene Chadbourne、Elliott Sharpらを聴き始めて、彼らが一様に「NYに出てきた時にはもうロフト・ジャズは終わっていた」と語っているのを眼にした方が。

 だから、小石川図書館のレコード・コレクションでスタジオ・リヴビーのフェスティヴァルを収録したWild Flowersのシリーズを聴いていたにもかかわらず、私にとってロフト・ジャズという語は決して形を成すことがなかった。これはジャズ・ジャーナリズムの側から見れば話が逆かもしれない。彼らにすればロフト・ジャズという「フリー・ジャズ以降」のムーヴメントがあったものの、それらは勃興を遂げるフュージョン/クロスオーヴァーの陰に霞んでいく存在であって、ましてやそれらがプログレッシヴ・ロックのよりアンダーグラウンドな、あるいは英米以外の地域限定的な展開や、あるいはヨーロッパに飛び火して独自の変容を遂げたフリー・ジャズやそこから派生したフリー・インプロヴィゼーションなどと結びつくとは思いもよらないということになるだろう。

 ここで竹田はヨーロッパとブラック・アメリカを複眼的にとらえながら、二つの景色を巧みな仕方で重ね合わせていく。たとえば彼は本書収録の「『ロフト・ジャズ』への片道切符」で次のように書いている。
 音楽家をとり囲む(音楽的)事象をすべて共時的な視点で対象としなければ、音楽のアイデンティティーを形成できないという認識があるからなのだ。(中略)だから、オリヴァー・レイクのいう「三六〇度の関心」とか、ビーヴァー・ハリスらの三六〇度音楽体験集団というネーミングが登場してくる。(中略)『Dogon A.D.』についてジュリアス・ヘンフィルは、「このアルバムでの私の関心は、私の中にある音楽がアフリカ的要素をどれだけ引き出せるかであった。だが、私はここでアフリカの音楽を演奏しようとしていたわけではない」という。また、リーオ・スミスやムハル・エイブラムズが、クリエイティヴ・ミュージック、ワールド・ミュージックというとき、彼らはアメリカ黒人音楽の伝統(ジャズの伝統に限らない)を視座として、目に入る、耳に聞こえるあらゆる音楽を分断されないまま自己の音楽と等価なものとする。彼らの黒人音楽の伝統という視座を他のものと入れ替えてみよう。ヨーロッパの民衆音楽の伝統を掘り起こしながら融合を実現しているウィレム・ブレーカーやフランソワ・テュスク、マーヴェラス・バンドらの音楽、(後略)。

 また、本書に収められた「『ロフト・ジャズ』の測量教程」で彼は次のように書いている。
 今や個々の演奏スタイルや語法が問題なのではなく、歴史の広がりや空間の広がりの中に存在するスタイルや語法の、新たな組み替えと再構成の仕方を問題にしていることなのだ。今年、ハーレムで催された「地図製作者たちのジャズ・シリーズのための音楽」と呼ばれたフェスティヴァルで、ジュリアス・ヘンフィルは《ハミエット・ブリュイエット、デヴィッド・マレイ、オル・ダラ、フランソワ・ニョーモ、チャールズ・ボボ・ショウ、フィル・ウィルソンのアンサンブルの演奏に加えて、俳優たちやフィルムまで使った。それはどたばた喜劇のユーモアと神秘と大きな悲しみにみちたマルチ・メディアのイヴェントだった》と描かれたパフォーマンスを行った。

 前述の「芸術熊たちの反歌」を読んだ時点では「地図」のメタファーの使用以外に共通点が見出せず、謎のままに留まっていたHenry Cow〜Art BearsとCharles "Bobo" Shawの重ね合わせも、以上のような記述とHenry Cowの「散開」後の活動としてMike Westbrook Brass Bandと合体してさらにフォーク歌手Frankie Armstrongを迎えたThe Orckestra(Dagmar Krause,Phil Mintonとのトリプル・ヴォーカル!)やLindsay Cooperが参加したFeminists Improvising Groupからスピン・オフしたと言うべきLes Diaboliques(Irene Schweizer,Magie Nicols,Joelle Leandre)の雄弁さを知る今では至極納得できる。


竹田23.1Q68年を遠く離れて
 しかし、この鮮やかな見取り図の下にその後充分な探求が進められたとは言えまい。
 たとえば雑誌『同時代音楽』創刊号掲載の「新しいヨーロッパの民衆音楽と左翼の展望(1)」(※)で、竹田は次のような非常に興味深い目次構成案を「次号からの予定」として示している。


§2~1 フリー・ジャズからフリー・ダンス・オーケストラへ
    =フランソワ・テュスク(フランス)を中心に
§2~2 権威への反抗としてのロック
    =アレア(イタリア)を中心に
§2~3 ヨーロッパの伝統の参照
    =ウィレム・ブロイカー(オランダ)を中心に
§2~4 プログレッシヴ・ロックとインテリジェンス
    =ヘンリー・カウ(イギリス)を中心に
§2~5 自主流通メディアの形式
    =FMP(西ドイツ)を中心に
§2~6 東欧のジャズ・ロック・シーン
§3~1 60年代という屈折点
§3~2 フリー・ジャズのインパクト
§3~3 非ヨーロッパ音楽への憧憬
§3~4 ヨーロッパの伝統への眼差し

 この後、視界に浮上してくるシーンとして、John Zornのゲーム・ピースやFred FrithとTom CoraによるSkelton Crewの活動、Materialのネットワーク戦略等を彼がいち早く採りあげたNYダウンタウン・シーンや、Marvelous Band周辺のその後と言うべきLouis Sclavis, Michel Doneda等の活躍(NatoやSilexレーベルの検証を含む)等を配すれば、これは現在でも充分語る価値のある「手つかずのまま放置された」課題領域、いや現在にこそ語るべき「隠蔽/忘却され無かったことにされてしまっている」アクチュアルな問題領域と言うことができる。書誌に記載された中からさらに未収録の論稿を採録した書籍の出版も望みたいが、それよりも竹田がかつてしていた音盤レクチャーを、今こそ再開してもらいたいと願わずにはいられない。「情報はすべてネット上にある」という既視感とそれと裏腹な健忘症が蔓延する現在、前々回の掲載で掲げた「音楽産業による一面的な聴き方の押し付けに対抗する別の聴き方を提案し、他の聴き手との相互批判的共同作業に向けて開いていく」ことが、今ほど求められている時はなかろう。
※この論稿は本書巻末の「書誌」に掲載されていない。掲載雑誌からして漏れることは考えにくい。内容があくまで「予告編」的なものであり、肝心の本編が執筆されていないことから、あえて外したものかもしれない。しかし、その「予告」の重要さに鑑みて、あえてここでは言及することにした。なお『同時代音楽』創刊号の巻末に掲載された「次号予告」では、この論稿の続編に加えて、〈一挙掲載〉と銘打って次の目次が掲げられている。
 竹田賢一評論集「地表に蠢く音楽ども」
 坂本龍一評論集「旅するメディアの領界」
 対談 竹田賢一+坂本龍一
 〈阿部薫追悼文〉集+〈坂本龍一論〉集

 だから、細川周平が巻末の解説で書いている「1Q68の長い長い余波」としてすべてを包み込もうとする仕方に、無理は承知の上でやはりいちいち異議を唱えたくなる。それは「余波」として遠くから懐かしく耳を傾けるべきものなのか。ピアノの余韻のように弾かれた後はただひたすらに減衰していくだけのものなのだろうか。仮に「昔馴染みの消息を確かめることが、新録音、新人を探索することに比べて二次的とはもはや思えない。(中略)こうなると先端も末端も革新も保守も大した違いではない」としても、「(少なくとも録音で)知った人が今、何をしているかを確かめに行くほうが、失望が少ないという経験則にしたがう。そういう「気になる」アーティストが10人もいれば、音楽生活は充分に豊か」なのか。「本書で語られたアーティストには懐かしさを覚えるが、手許にアルバムはないし、今はまだ、あるいは既に聴き直す時期ではないと思う」としても、果たして「聴いた経験が感覚のどこかに残っているだけでよい。忘れてしまったなら、それはあまり大事ではなかったのだろう」か。
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書評/書籍情報 | 00:44:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
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