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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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「実験工房展 戦後芸術を切り拓く」@世田谷美術館レヴュー  Review for Exhibition of "Jikken Kobo (Experimental Workshop) − Creating the Postwar Art" at Setagaya Art Museum
実験工房0 武満徹や湯浅譲二、福島和夫といった作曲家や山口勝弘、大辻清司といったヴィジュアル・アーティストが参加していたことで知られる「実験工房」の展覧会が開かれていることをFBの書き込みで知り、遅ればせながらようやく馳せ参じた次第。




1.導入
 受付から渡り廊下を通って展示スペースに入ると、降り注ぐピアノ音響の破片に出迎えられた。見上げると高い吹き抜け状の天井から冷ややかな銀色に輝く金属板のモビールが吊られていて、何の動力もなしにゆっくりと回転している。その向こうにはやはり金属板による羽根のかたちを連ねた大きなオブジェ(舞台装置)が見える。音は実験工房の作曲家たちの作品をエンドレスで流しているようだ。まばらな音の移ろいに時折、モビールが回転する際の軋みが混じる。壁面に充分な間を取って、視覚作品が掛けられている。
 山口勝弘「ヴィトリーヌ 空虚な眼」は、木箱の中に抽象的な形象と雑多な素材によるコンストラクションを収め、表面を型板ガラスで覆っている。それゆえコンストラクションはセザンヌ的な方形の色彩の分割としてしか見ることができない。後に山口がヴィデオ・アーティストとして名を為し、デジタル画像処理に手を染めることを予言しているようにも見える。北代省三「回転する面による構成」のシリーズ連作は、複数の面の奥行き/パースペクティヴが互いに交錯/貫通するように配置される。大辻清司による写真はモノクロームに静まり返った音の無い世界を写し取っており、駒井哲郎の版画作品もまた、無言で浮かび上がる形象が、互いに衝突することなくすれ違い通り抜けるよう配置されている。後に噴き出す線の強さや明るい色彩はここにはまだない。
 仕切り壁に設置されたCDプレーヤーで作曲家たちの作品を聴くことができるようになっている。ヘッドフォンを耳に当てプレーヤーを操作しながら、いま通り抜けてきた空間を振り返ると、そこはますます静まり返りながら、聴こえてくる音を通して眺めてもまったく変わらないように見えた。ここには不思議な照応が結界のように張り巡らされている。何か高次元のモノが存在し、それを音響/時間軸に射影すれば音楽が生まれ、平面に投影すれば絵画や写真となって浮かび上がり、立体に写像すればオブジェが立ち上がるとでもいった具合に。
 CDには複数の作曲家の複数の作品が収められているのだが、プレーヤーにはいま何曲目が演奏されているか表示されず、またスイッチオンすると、前に聴いた誰かがスイッチオフしたところから再生が始まるようになっているので、壁にトラック・リストが表示されているにもかかわらず、いま聴いているのが何番目のどの曲かわからないようになっている(まあ実際には曲により編成が異なる場合があるので、スキップを繰り返せば現在位置は推定できるのだが)。それが誰のどの曲であっても、いまこの場で聴く限り、「結果」は(あるいは「効果」は)はまったく変わることがないのだと言わんばかりに。
実験工房1 実験工房2


2.前夜
 「Ⅰ 前夜」と表示されたスペースへ進む。先ほどの導入部でひとり静謐に至らず荒々しい煩悶を繰り広げていた福島秀子の絵画も、ここではモンドリアン的な暖かな抽象に収まっていて、北代の絵画と隣り合い同じ方向を向いておとなしく腰掛けている。北代と山口のコンポジションもまた、その落ち着いた幾何学性により美しく友愛的な相似を描いている。さらには山口による「ヴィトリーヌ」連作に向けたスケッチ群が眼差す世界は、北代による「回転する面による構成」と寸分違わずぴったりと重なり合っている。大辻の写真が示している図像的なコンポジションの強さを、先の福島/北代と北代/山口の間に置けば、連なりの感覚はより一層強められるだろう。彼らに強い影響を与えた瀧口修造と岡本太郎の間の大きな差異を越えて、ここにはすでにある共通のものが芽生えてきている。そのことにすぐ気づかざるを得ないのは、先ほどの導入部の「結界」の作用にほかなるまい。


3.最中
 続く「Ⅱ 実験工房」と題されたスペースでは、彼らの共同作業による作品が多く展示されている。舞台演劇、オート・スライド、映画等を通じて、音楽と造形、写真や映像が結びつけられる。そうしたなかで幻の作品とも言うべき松本俊夫『銀輪』が観られたのは収穫だった。この映像作品について詳しく見てみることにしたい。ここに導入空間に張られた不思議な「結界」を解く鍵が潜んでいるように思うからである。

 作品は絵本を見る少年の映像で始まる。ページをめくるたびに異なる画風の絵が現れ、やがて車輪が墓標のように立ち並ぶ不思議な風景(実写)を経て、画面は抽象的な運動にその場を譲り渡す。白い粒子が運動し、奇妙なかたちの曲線(自転車のドロップ・ハンドルであることはうすうすわかるが)が揺れ動き、パチンコ玉が流れ散らばり、フレームの三角形が転写/増殖し、大きな歯車が回転して、外周の輪だけになった車輪の浮遊から、やがて画面一杯に車輪(ハブもスポークもある)の回転が映し出される。このように断片化された自転車各部の抽象的な運動のコンポジションに続き、ついに総体としての自転車が姿を現すが、それはやはり画像がふわふわと浮遊したり、波板ガラスの向こうで回転するに留まり、人が乗って走行する自転車は決して姿を現さない。
 次いで再び少年が姿を現すが、彼の視線の先では母と姉くらいの年齢の女性二人が、床に置かれた銀色の輪を拾い集め、あるいは転がしている。この不思議なインサートに続き、ようやく人の乗る自転車の映像が姿を現すが、それは低速で揺るぎなく移動する映像の連続反復で、硬質の形象的輪郭を持ったものであり、「躍動感」といった身体的な運動感覚をまったく感じさせないものとなっている。
 その後は、前半は部品レヴェルで展開された運動の抽象的なコンポジションが、「人の乗った自転車の走行映像」を素材として再び繰り返される。そこに「見る者」として立ち会う少年の姿がいかにも余計だ。映像はループとなり、自転車に乗って走る少年の上半身を正面からとらえた映像と組み合わされる。次いでおそらくは「走る自転車から眺めた」と位置づけられるであろう風景が流れる。そこでも風景は変わること無く、通り過ぎる柱等が繰り返しのリズムを刻んでいく。やがて映像は絵本の上に身を伏せてうたた寝している少年の姿に切り替わり(さきほどまでの映像は少年の見た夢ということか)、目を覚ました少年が絵本を閉じるところで終わる。

 ここで注目すべき点は三つある。まずは抽象的な形象の運動が、順行/逆行/反復等により、「絶対映画」とでも呼べるような仕方で構造的にコンポーズされていることである。これはオート・スライド作品や「未来のイヴ」、「月に憑かれたピエロ」等の舞台演劇にも共通している。ここでモデルになっているのは明らかに「音楽」にほかならない。実際、これらの映像のコンポジション感覚は、実験工房の作曲家たちのこの時期の作品と見事に共通している。
 「銀輪」が映写されているスペースの反対側に黒いカーテンで閉ざされた部屋があり、そこでは『実験工房』(NHK「現代の音楽」アーカイブシリーズ)のCD(ナクソス・ジャパン)が小さなBOSEのスピーカーから連続再生されていた。当時の録音(1957/59年)で聴く彼らの作品は明らかにある共通の肌触りを有している。
 さらりと冷ややかなべとつかなさ。重ならず混み合わない空間の見通しのよさ。まぶしさのない眺めと密やかなきらめき。現れては消えていくかたち。長くは続かない息。切断を感じさせない不連続。身体を感じさせず、聴き手の身体にも働きかけない(触れてこない)あり方。だから抽象的な構築にもかかわらず固さや重さ、マッスとしての存在感や押し付けがましさを感じさせない。それは「熱い抽象」ではないばかりか「冷たい抽象」でもない。言ってみれば密度を持った物質ではなく、限りなく希薄な「気配」の抽象性である。それゆえフォルテやクレッシェンドも音が聴き手にぶつかってくることはなく、気配ばかりが高まる。
 この地点から振り返ると、「回転する面による構成」のコンポジションが、空間の集中/凝縮力を持たず、複数化しながら相互の軋轢や衝突を感じさせないことが、共通の特質として見えてくる。それは調停された「調和」というよりも、干渉しない/分割しない/占有しない/‥‥といった「共有された節度/佇まい」によって、身体を排除あるいは希薄化することによってもたらされた関係性の「自由」なのだ。そこでは明らかに個々の身体の差異が消去されている。温度感や明度感の共有によって。暑くもなく寒くもなく暗くもなくまぶしくもない密やかに落ち着いて思索に耽ることのできる音の無い場所。

 この身体の排除が二番目の論点である。先に述べたように少年の身体の「余計さ」は『銀輪』において際立っていた。図像としての硬い輪郭を守ったまま通り過ぎるレーサーたちのはるかに逞しい「身体」はまったく邪魔ではないにもかかわらず。ここで少年は映画を見る者の「視点」として、「少年の見た夢」という物語を発動するための「装置」として、いわば「音楽」に従った映像のコンポジションとは別の原理から、映画に導入されている。それゆえにレーサーの身体のような抽象化/素材化を施せなかったのだろう。舞台演劇でも俳優の身体のプレゼンスが問題となる。実験工房の面々によるシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」の上演が仮面劇として、象徴的かつ装飾的な衣装とともに身体を包み隠して演じられたことを思い出そう。あるいはやはり彼らによるバレエ「未来のイヴ」の上演において、幾何学的な舞台装置とシルエットが多用され、オート・スライド作品で用いられた紙製の人型オブジェを模した演出が為されていたことを。
 さらに付け加えるならば、武満徹と鈴木博義による『銀輪』の付帯音楽は、彼らの通常の作曲とはまったく異なる甘ったるくムーディな、夢であることを最初から暗示するようなものとなっている。これもまたここでの映像コンポジション原理である「音楽」とは異なる原理から、付帯音楽が要請されたためではないだろうか。先ほどの黒いカーテンで閉ざされた部屋でスピーカーから流れてくる音に耳を傾けていると、外から入り込んでくる『銀輪』の付帯音楽に音が掻き消され、押し流されてしまうことが何度もあった。これはそうしたシチュエーションの体験を意図した一種のインスタレーションなんだろうか(そんなわけないって)。

 三番目の論点は『銀輪』における奇妙な二つのインサート・カットである。絵本を見る少年から抽象的な映像コンポジションへ移行する際に挿入されるまるで墓標のようなオブジェと、レーサーの身体を伴った走行する自転車全体の映像が現れる直前に挿入される、二人の女性の輪拾いと輪転がし。このどこか寺山修司を思わせる土俗的な光景(墓標のショットは恐山や賽の河原を、輪拾いはやはり賽の河原の伝承を思わせる)は、後の『ドグラ・マグラ』へとつながっていく暗い血筋とでも言うべき、松本俊夫の作家性の刻印なのだろうか。後に「実験工房」の作家たちは、皆それぞれの仕方で日本回帰を遂げていくわけだが、それはすでにこの時点から胚胎していたのではないか。
実験工房4 実験工房8

実験工房3 実験工房5

実験工房6 実験工房7


4.後日
 展示の最後のスペースは「Ⅲ 1960年代へ」と題され、1970年の大阪万博までを採りあげている。たとえば1969年に開催された伝説的イヴェント「クロス・トーク インターメディア」の大辻清司による記録写真等、貴重なものも観られるのだが、全体としては展示内容が希薄に拡散してしまい(当時の音楽雑誌とか、レコードのジャケットだけ展示されても‥)、いっこうに像を結ばない。まあ、「実験工房」の各作家たちは、それぞれ自己実現に向けて飛び立ちました。めでたしめでたし‥ということなのだろう。
 だが、そこに切断となる契機はなかったのか。展示は確かに複数の可能性を示唆してはいる。ジョン・ケージの来日、フルクサスの影響、そしてメディア・テクノロジーの発展。彼ら自身の「出世」や先立つ世代の引退もあるだろう。そしてもちろん高度経済成長期の日本社会の変貌(経済だけでなく政治的にも)も。
 個人的には先ほど指摘した彼らの音の身体性/物質性の希薄さに対する「ジョン・ケージ・ショック」※の大きさを強調したいところだが、無論それだけに還元できるものではない。「実験工房」の中でもミュージック・コンクレートや電子音楽系の流れをもっと視野の中心に据えれば、別の景色が見えてこようというものだ。各巡回展示の中で、川崎弘二がその辺をレクチャーしていることは評価したい。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-214.htmlを参照

 日本の前衛について考える際、「実験工房」という存在は瀧口修造周辺の動きとしてくくられてしまって、これまであまりクローズアップされてこなかったように思う。もちろん武満徹や湯浅譲二は以前から個として注目されてきているわけだが。今回感じた「結界」とも言うべき緊密な照応関係を思えば、単に武満や湯浅を育んだ交友関係といった位置づけではなく、彼らの活動、さらには彼らの思考を可能とした条件について、より深く考えを巡らせるべきではないだろうか。さらには抑圧された貧しい身体を置き去りにして、音楽的抽象へと羽ばたいた想像力の在処と行方について。

 最後にひとつ触れておきたいのは福島秀子のことだ。作曲家である福島和夫の姉である彼女の絵画は、やはり今回の展示の中で異彩を放っていた。そこには粘度が、破綻が、抽象へと熱く向かう切断が、息の長い集中と鬱陶しいほどの見る者への訴えかけが、皆で同じ景色を見ながら互いに摩擦なく通り抜けあうのではなくでんと居座って場所を占めてしまうどうしようもない身体の存在の重さが、つまりは他のメンバーにはないすべてがあるように思われた。
 それと似た異物の噴出を、『銀輪』に続けて付録のように上映されている、わずか4分半の『キネカリグラフ』(大辻清司・石元恭博・辻彩子による)に垣間見たような気がした。フィルムに直接傷をつけて映像をつくりだすこの手法は、結果が偶然に大きく左右される。だから、この混沌とした色彩と形象の噴出が、制作者の意図したところのものであるかどうかはわからない。だが、私にはむしろこの作品が、厳しい自己検閲をくぐり抜けて流出した彼らの内面に渦巻く葛藤の吐露、いや無意識の暴露であるように映ったのだった。
実験工房10
福島秀子の絵画作品

実験工房11 実験工房12
ナクソス・ジャパン盤   fontec盤


実験工房展 戦後芸術を切り拓く
世田谷美術館
2013年11月23日〜2014年1月26日
実験工房9

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アート | 23:23:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
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