2014-02-17 Mon
前日15日に生じた衝突事故のせいで、東横線はみな極端な徐行を強いられており、私を乗せた特急は何度も駅間で止まりかけた。馬車道駅から急いではみたものの、結局、開演には間に合わなかった。だから、これから記すのはあくまで印象記に過ぎない。
段差のない舞台にはうずたかく積まれたガラクタの山。そのてっぺんで胸まで埋もれた女が休むことなく話し続けている。開演から今この瞬間までに、こうした状況に立ち至った経緯は果たして説明されたのだろうか。おそらくされてはいまい。ベケット作品の観客たちは、いつも「すでに決定的なことが起こってしまった」後に広がる荒地のような状況に、いきなり直面させられるのだから。
女は髪をくしけずり、鏡を覗き込み、爪を磨き、虫眼鏡で辺りを見回す動作を繰り返しながら、止まることなく話し続ける。ピストル(頭上に投影される英語字幕を見ると、どうもBrownieと呼ばれているらしい)を取り出して死をほのめかし、言語の凋落/崩壊に言及し、祈りについて語る。突っ込みどころ満載のシンボルが至るところにちりばめられている。しかし、女の話はあまりにつかみどころがなく、とめどがない。カスケード状に論理が暴走するかと思えば、ふらふら歩きの酔っぱらいがあっちの壁、こっちの電柱にぶつかるように当たるを幸い話題が飛躍し、さらに不定形の不安が妄想を煽り立てる。そして「古臭い言い方」、「楽しい一日」といった幾つかのフレーズが擦り切れるまで繰り返され、ついには意味を失って明滅するだけになる。
ここでテクストはシンボル/アレゴリー的思考ではとらえられないほど大量に押し寄せてきて、細かく素早く動き回り、網の目をすり抜け、脇からはみ出し、解釈を機能不全に陥れる。ここでテクストは「楽譜」のようなものに過ぎない。一つひとつの音符に意味を見出そうとするのではなく、速度をとらえ、対位法を見守り、音の流れに寄り添いながら分岐する流れに指先を浸して、構造を感じ取ること。
女が胸まで埋もれているガラクタの山には、明らかに「正面」があった。バス・ドラムの面、金ダライの底面、トタン板やカーペットの設えられた面が客席からの視線をまっすぐに受け止めている。だからここで埋もれていることは、正面の180°しか可能な視界がないという制限を示している。ちょうど楽器編成や音域を指定するように(こうした制限はベケットお特異のものではある)。
ときどき男が山の窪みから頭を出し(後頭部に何か書いてある)、頭を手拭で包んで姿を消し、新聞紙だけを客席から見えるように高く掲げ読み上げる。その声には電子変調がかけられ、虫の音のような聴き取りにくい軋みと化している。
話し続ける女の声は口元のマイクロフォンで拾われ、PAから放たれる。彼女の動き(声の「動作」を含む)にシンクロしたカタカタ、パタパタ、ガシャガシャした電子音、あるいは時を満たす深々とした低音の揺らぎとともに。だから女の声は常に混信し、汚染されている(張り上げた声に直接電子的な余韻が付加されたことも)。と言うより、その話の止め処もなさに、女は単なる受信機に過ぎず、これらの電子音がトリガーとなって生じる内語が溢れ出しているだけではないのかとの疑念すら生じる。
女の動きは中断され、また始められ、繰り返される。だが強迫的ではない。言葉もまた。声はすらすらと早足で歩み、流れとなって溢れ出し、ふと足取りを緩め、止まりかけ、また動き出したかと思うと中断し、再び何事もなかったように加速する。安定した息遣いの下、声はまるで名手に弾かれたピアノのように粒の揃った音で、クレッシェンド、リタルダンド、スタッカート、アッチェレランド、マルカート、レガート、コン・モート、デクレッシェンド、テンポ・ルバート等を自在にこなし、速く、遅く、歩く速度で、歌うように、優美に、力強く、楽しげに、いきいきと、滑らかに‥‥スモルツァンド(だんだん静まって)、ソステヌート(音を保って)‥‥。時に畳み掛けながら、でも熱を帯びることなく音を放ち続ける。そう、声は空間に、辺りを取り巻く「荒地」へと放たれる。間違っても観客に語りかけているのではない(youtubeで「一人芝居」と副題された「しあわせな日々」のとんでもない上演を見かけた。そこで女は愚痴っぽく観客に語りかけていた。私は5秒と観ていられなかった)。
楽譜を演奏するとは、流れを切り分けることでもある。一台の「声のピアノ」は動きにシンクロした、あるいは空間を満たす電子音を伴うことにより、幾つかの部分機械の集合体へと変貌する。このやり方は高橋悠治による「カフカ」や「可不可」、あるいはハイナー・ゲッベルスによるラジオ劇を思わせる。直径や質量、速度の違う車輪が、それぞれ異なる階の廊下を経巡っていくような。典型的な部分として、女のところにやってきた「最後の人類」であるカップルの言葉が間接話法で語られる部分だけ、歪んだ電子変調が施されていたこと(しかも男女別々のトーンで)を挙げられるだろう。
高く掲げた日傘が燃え出し、白い煙をもくもくと吹き出した後、女の話は自己言及性を強め、動作も繰り返しが増える。女の話の中で、日傘を投げ捨てても、鏡を砕いて放り投げても、明日にはまた元の場所に戻っていると、出口のない堂々巡りの永遠が暗示される。先の「最後の人類」のくだりを経て、天から金色の紙片の雨が降り注ぎ、美しく伸びやかなスキャットが響き渡る中、舞台は暗転する。
照明が灯り第2部が始まる。見ると女はますます深く首まで埋もれている。つま先立ちして遠くを眺めるようなスキャットがまだ続いている。突然、ブザーが威圧的な大音量で鳴り渡る。
男が死んでしまった、私を捨ててどこかに行ってしまったと、女は「不在」について語り、「でもそこにいる」と続ける。スキャットや口笛はむしろ男に属するモチーフでありながら、むしろ男の「不在」を表象している。大音量のブザーにたびたび切断されながら、話はいよいよ混迷を深め、アンビヴァレンツに引き裂かれ、第1部をカット・アップしたように「最後の人類」の場面の抜粋が反復される。妄想はいよいよ支えを失い、電子音はオモチャのように走り回り、男による新聞読み上げをはじめ過去の断片が寄る辺なく回帰して、認知症的な混濁を示しながら言葉は止まることなく、ガラクタの山の一部が乾いた音を立てて崩れ始める。
崩壊へと向かう世界から男が這い出して、四つん這いのまま女と見詰め合い、ついにはガラクタの山に取り付く。「お前」と男が声を発する(字幕ではWin。女の名前Winnieをつづめた愛称。女がWinnieなら男はWillieだが、テクストの訳文は結局ただの一度も固有名詞を口の端に上らせることがなかった。前回の「ネエアンタ」でもJoeがあんたと呼ばれ続けたように。ARICAでテクストの翻訳を担当する倉石信乃の、日本語に対する透徹した視線が感じられる部分だ)。「今日は楽しい一日」。
女が鼻歌を歌い始める。ため息まじりに引き伸ばされた声に歪んだオルゴールの音が寄り添い、声は賛美歌を思わせる簡素なメロディを歌い始める(原作の指定では「メリー・ウィドウ」の一部らしいが)。最後のブザーが鳴り渡り、ため息とともに暗転して終了。

的確なアーティキュレーションに満ちた素晴らしい「演奏」だったと思う(隣席の男はずっと睡魔に敗北し続けていたが)。何より前作「ネエアンタ」では役柄上、あまり聴くことのできなかった安藤朋子の声をずっと聴き続けることができたのが、私にとって大きな喜びだった。深い喫水を保って重い水をゆっくりと押していく息の安定した土台(これは優れた歌い手/声の使い手の必須条件にほかならない)に基づいて、しなやかに伸びやかに遊ぶ声。弾むようなしっとりとした甘さを常にたたえながら、声は喉から流れ出るだけでなく、舌先や唇で放たれる最後の一瞬までこねられ、編まれ、操られる。優れた投手の条件として「球持ちがよい」こと、すなわちボールをできるだけ長く持っていられること、能う限り打者の近くで放すことがよく挙げられる。その点、彼女は実に「声持ちのよい」投手と言わねばならない。
最後の舞台挨拶で、演出の藤田康城は、男を演じた福岡ユタカを「ゲスト、ヴォーカリスト」と紹介していたが、それなら安藤はARICAの「ハウス・ヴォーカリスト」と紹介されるべきだったろう。
アリカ「しあわせな日々」 原作サミュエル・ベケット
新訳:倉石信乃 演出:藤田康城 美術:金氏徹平 音楽:イトケン
出演:安藤朋子、福岡ユタカ
照明:岩品武顕 衣装:安東陽子
横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール
2月14日〜16日

※写真はARICAのFB等から転載しました。
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