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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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ひとりで聴く音楽、みんなでいっしょに聴く音楽 − 「タダマス13」レヴュー  Music to Be Listened to Alone, Music to Be Listened to with Others Together − Review for "TADA-MASU 13th"
 前半5枚のポップ・サイドと後半5枚の「ダーク・サイド」(多田)の対比がくっきりと浮かび上がった回となった。こうした対比は選盤を担当する益子のねらいであったのだろうが、ゲストの服部の予期せぬコメントにより、おそらくは益子の想定をはるかに超えて強調されることになったのではないかと推察する。

タダマス13-1 タダマス13-2 Mehliana、Now Vs NowとMark Juiliana(dr)参加の2作品が続けて披露される。明らかにヒップホップ以降、あるいはサンプリング以降に開かれた、様々なドラム・ブレイクを切り貼りしたような、極端に不均衡で、頻繁にアクセルとブレーキを踏み替え、ゴー/ストップを繰り返す「ドラム・プログラミング的」ドラミング。多田が「MehlianaをCDで聴いて、ドラム・マシンを人力でやっているだけかと思ったが、youtubeのライヴ映像を観て衝撃を受けた」とコメントする。「CDでは、東京サヴィヌル・バッハでキーボード担当の坪口がやっていたドラム・プログラミングと同様のものと聴こえ、キーボードのソロ演奏のように感じられた。これに対しyoutubeの動画ではデュオとして聴こえる」とも。
 ここで、益子が彼らの「ポップさ」を指摘し、服部がポップを志向するのは、自分たちの音を、ジャズ・フェスティヴァルに来るようなファンを超えて、より幅広い層へと届けたいからではないかと述べる。これがこの日のキー・センテンスとなった。

タダマス13-3 タダマス13-4 以降、ヴォーカリストLana Isによる『In Your Head』、そしてこの作品のバッキングに参加していたDan Weiss(dr)による女性ヴォーカリスト3人を含む14人編成での演奏『Fourteen』と、ヴォーカルをフィーチャーした作品が続く。声の手触り/温もり/輪郭の明瞭さ/重さの手応え/実在感‥‥といったものが、聴き手との間を媒介し、作品を聴きやすく、耳になじみやすい「ポップ」なものとしていることがわかる。と同時に、バックの演奏では、ジャズのフィールドで活躍するミュージシャンたちが、高い演奏技術を見せびらかすのではなく、リアルタイムで交感/触発しあう演奏を繰り広げる。ただし、それは本来ならあるはずの展開のプロセスを切り詰め、結果だけを提示するようなものとなっている。服部が、以前なら聴き手はラジオやオーディオに向かい合い、音楽を聴くことだけに専念していたかもしれないが、最近はメディアや情報が溢れている。いろいろなものにアクセスできるし、いろいろなものを観たり聴いたりしたいから、ながら聴きになったり、短時間の聴取になったりする。そうした聴取のやり方に適合していないと、そもそも聴いてもらえないということがあると話す。

 メディア消費のあり方が、音楽の受容に影響を及ぼすのは確かだ。ラジオでのエアプレイからヒットを生み出すことを目指して、3分間のシングルがカットされたのはいい例だろう。ジャズでもシングルがカットされたし、クラシックでもSP盤時代にひとつのアリアだけを切り出したシングルがつくられた。だが70年代初頭にはすでに、これを逆手にとって、あえてシングルをカットしないことにより、自らのイメージの神話化を図るとともに、アルバムを買わせようとしたレッド・ツェッペリンのようなバンドも現れている。

 そうした観点からすれば、ここで言う「ジャズ」は、おそらく自らを「ポップ・ミュージック」の一種と見なしていないのだろうが、外部からの視線が常にそうであるように、ここで「ポップ」に向けられた認識は、ずいぶんと型通りのものとなってしまっている。ポップ・ミュージックの現場では、すでに幾度となく乗り越えられた枠組みが、ここではポップ化のための侵すべからざる鋳型として、ずいぶんと大事にうやうやしく取り扱われているのだ。
 こうした姿勢は、ポップ・ミュージックをジャズよりも「下位」に位置づけるという過ちによるものなのだろうか。「ロックは最も下位の音楽であるが故に、そこでありとあらゆるものを混ぜ合わせることができる」としたロバート・フリップのように、そうした転倒の力がイメージされているならよいのだが。たとえばロックはブルースに対して収奪を繰り返した。これは歴史的事実である。ならば、ブルース・ミュージシャンが演奏すれば、ロックはさらに素晴らしくなると言えるだろうか。

タダマス13-5 後半に入り、John Hebert Trio『Floodstage』から、凍り付いたピアノの響きが聴こえてくると、いつもの「タダマス」の空気が戻ってくる。それは決してピアノを弾いているBenoit Delbecqが「タダマス」の常連奏者だからではあるまい。音数を絞り込みながら暗がりに滲み沁み込んでいくベース(John Hebert)。シンバルの響きを希薄に広げていくドラムス(Gerald Cleaver)。彼らは空間に離ればなれに点在し、スペースをできるだけ広く使おうとしている。アナログ・シンセサイザーのいささか曇った響きが光のもやとなって宙空に浮かび上がり、移ろい漂ってリボンのようにたなびき、たちのぼる響きを新たな方向へと連れ出していく。
 次の曲では三者がもつれ合いながら滾々と湧き出し、音粒子がざっくりとかき混ぜられて乱流をかたちづくっていく。プリペアドされたピアノが少しこもった、スティール・パンやバラフォンに似た南国的な響きを立てる。

タダマス13-6 続いてはKris Davis Trio『Wating for You to Grow』。ドラム(Tom Rainey)だけの連打がグルーヴを積み上げては崩すことをしばらく繰り返し、ベース(John Hebert)が現れると疾走が始まる。しかしピアノ(Kris Davis)は音数少なくぼそぼそとひとりごとを言うに留まる。やがて奇妙に歪んだリフから内部奏法に至ると、リズム・セクションが敏感に反応して、ぎくしゃくととっ散らかったアンサンブルが産み落とされる。アルコ・ベースが異星人の鼻歌を思わせる妙ちきりんなフレーズを奏で、それをきっかけとしてまた疾走が始まる。15分を超える演奏は、そのようにして踊り場を挿みながら曲がりくねった階段を駈け降りるように進められた。
 彼女たちの演奏を評して、服部が「前のトリオでは各々が層をかたちづくっていたのに対し、こちらのトリオは何しろドラムがどんどん合わせるから、全体が一体となって進まざるを得ない。三人が延々と語り合うだけの音楽になっている。」と指摘していたのが興味深かった。そうした「世間話」に興味がある人は耳を傾けるかもしれないが、そうでなければ、何かわかりやすいメッセージやアピールがあるわけでもなく、誰も聴かないだろうというわけだ。なるほど、この指摘は正しいかもしれない。しかし、そうだとして、それではたとえばJ-POPの聴き手は何を聴いているのだろう。ExileやAKB48のファンたちは。私たちがある音楽/演奏を聴いてそれに惹かれる時、私たちはそこに何を聴いているのか、聞こえてくる音の何に反応しているのか‥‥というのが、「タダマス」の掲げている大きなテーマではなかったか。

タダマス13-7 Mary Halvorson / Michael Formanek / Tomas Fujiwara『Thumbscrew』のサウンドを組み替え更新しながらギクシャクと進む演奏、Ingrid Laubrock & Tom Rainey『And Other Desert Towns』の薄暗がりにぼうっと浮かび上がる管の響きに蠅のようにたかるドラムスにいずれもピンと来なかったらしい服部は、最後にかけられたChris Speed / Zeno De Rossi『Ruins』に「こういうの好きですよ」と反応してみせる。輪郭の定かでないぼうっとした響きの移ろい。管の単音/重音からたちのぼる倍音のかげに、さらに打楽器をこする音が重なりあっているようだが、もはや薄暮のうちにひとつに溶け合って、両者の境界すら定かではない。希薄に漂うモノクロームなおぼろさは、空間の広大さを明らかにしながら、世界を密度の濃淡だけに一元化してしまう。ここではたちのぼる虚ろな響きに眼を凝らし、干渉やモジュレーションの度合いを手がかりとして、付かず離れずの微妙な距離感を維持し続けることが、演奏の内実となっている。

タダマス13-8 そこにあるのは先に批判されたKris Davis Trioと同じく、演奏者間に内向きに閉じられた関係性にほかならない。いやむしろこちらの方が、二人の間の関係性がより濃密である分、外に対してそれだけ閉じていると言えるかもしれない。もしそこに外へと届くべきメッセージやアピールがあるとすれば、それは「私たちはあえてこうした演奏をしている。他の仕方ではなく、この仕方を選んでいる」という強烈な主張だろう。だが、それはKris Davis Trioにだって当てはまる理屈だ。単に時代のモードとの関係で、こちらは先端的に見え、あちらは昔ながらの慣習的に見えるに過ぎない。

タダマス13-9 Chris Speed / Zeno De Rossiの演奏について、「ある方向/視点から聴いていくと、聞こえなくなってしまうものがある。全体を一望できない」と益子がコメントしていたのが興味深かった。ここで求められるのは、おぼろな響きのかげの中に奥深く入り込み、触覚を研ぎ澄ます聴取と、そうした盲いた聴き方を補うように、全体をぼうっと見渡し、没入して聴き入っている自分を背中から眺めるが如き「離見の見」という、二つの眼差しのあり方、その両極の往還ではないだろうか。この演奏に対し「Chris Speed的なものをすごく感じる。びんびんと反応する」という多田は、図らずもそうした聴取を実践しているのではないだろうか。

 こうしてプログラムをたどり直すと、前半/後半のポップ/ダークの対比をひとつの構成軸として、ソロ的とも言うべきデュオに始まり、途中に演奏者の共通する二つのピアノ・トリオとひとつのギター・トリオを挿みながら、二人の演奏者の境界を見定め難いデュオに終わるという、もうひとつの構成軸(全てドラム絡みでもある)が浮かんでくる。特に後者の場合、楽器/演奏から離れ、響きを触知する次元の聴取が求められることになる。当日も議論になりかけたが、それは「新しいか古いか」の問題ではあるまい。

 もうひとつ興味深かったのは、服部がしきりに「破綻のなさ」を指摘していたことだった。かつてのフリー・ジャズが破綻しまくったまま、「無責任」に終わってしまうのに対し、これらの演奏はどこまでも破綻しきらない、あるいは破綻しているように見えても演奏者がコントロールを手放さない。さらにはコントロールしきれないことも視野に入れて演奏していると。この指摘は正しいと思う。益子がIngrid Laubrock & Tom Raineyの演奏について、重心の取り方/外し方をポイントに挙げていたように、単にフレーズやリズムの直接的な対応関係にとどまらず、様々な視点からコントロールのカギとなるパラメーターが選ばれている。

 ただ、ここで気になったのは、服部が「ひとりで聴く音楽」と「集まって聴く音楽」という区別から、聴き手の広がらない少人数の聴衆を前にしてのライヴ演奏を例として持ち出し、結局、何を選ぶかは演奏者の特質であり、人生だと述べていたことだ。最後のChris Speed / Zeno De Rossiの演奏を、「これはまさに人生ですよ」と言っていたのも、その延長線上に位置づけられよう。
 ここでは「マイナー音楽」というあり方が、少人数あるいはひとりで聴くこと、マーケットの小ささ、ミュージシャンとしての人生の選択‥‥とあまりにも単純化されて一列につなげられ、そのままメジャーな「ポップ・ミュージック」と二項対比されているように感じられる。もちろんそれが「売れないジャズマンのひがみ」などというものではないことはわかっている。
 だがここには、売れたということは社会に受け入れられたということであり、それゆえその時の社会や人々の心理を反映していると、あまりにも素朴に前提としてしまう、この国の「ヒョーロン」のあり方と同じものを感じてしまう。これはたとえば東浩紀以降のサブカルチャー評論に典型的に見られるもので、売れているアニメやゲームを語ることが、そのまま現代日本社会を論ずることに置き換わってしまう。しかし、「売れたもん勝ち」の議論は、結局のところ、単なる現状肯定論に過ぎず、それはそのまま「売れたかったら売れるようなモノをつくれ」という極めて貧しい自己責任論に容易く転化する。何のことはない、これはマーケティング万能論にほかならず、「売れたものを作っている人は世の中がわかっている」というだけの理屈の組み立てでしかない。あるいは、それを転倒して、「だから世の中を知るためには、何が売れているか見ればよい」と言っているだけなのだ。しかし、マクドナルドやユニクロが何度も持ち上げられては落とされているように、売れ行きが変われば評価も論調もすっかり変わってしまう。詰まる所、ここからは批評は生まれようもない。

 私がディスク・レヴューで採りあげているフリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディングのCDはたいてい500枚以下、少ないときは100枚程度のリリースである。しかし、世界中で聴かれ、ウェブ・マガジンや批評家のブログ等で闊達に論じられている。『Field Reporter』(※)のようなフィールドレコーディング専門の批評サイトすら存在する。もちろん、インプロヴァイザーの場合はライヴ・ツアーやフェスティヴァルがあるし、あるいは音源が複製されウェブ上で拡散することにより、リリース枚数よりはるかに多くの聴き手の耳に届くことができるから、単にリリース枚数だけを指標に議論することはできないが。
※http://thefieldreporter.wordpress.com

 ジャズ・ミュージシャン=無頼派=社会不適応者などという大昔の図式は、もはや到底成り立たない。80年代半ばですら、北里義之が、当時、黒田京子ORTの新宿Pit Innライヴ時に発行していた『ORT』というミニコミへの寄稿をメンバーに求めると、「ミュージシャンの生活と意見」みたいな大層硬い原稿が上がってきたりしていた。服部の発言はそうしたミュージシャン特有の生真面目さによるものだと思う。しかし、その一方で、この国のマーケティング一辺倒の音楽ジャーナリズムがもたらす「批評不在」に浸され続けたことの及ぼす弊害も、改めて感じるところではある。
 そうした中で、益子・多田が継続している「四谷音盤茶会」は、非常に質が高くかつアクティヴであるにもかかわらず、国内ジャズ・ジャーナリズムからは見向きもされないNYコンテンポラリー・ジャズ・シーンを定点観測し続ける場として、ますます重要かつかけがえのないものとなっている。いささか暴力的な仕方で、ミュージシャンを「聴き手の現場」に連れ出し、ミュージシャンの感じている「現在」を語ってもらうことの意義も、今後、さらに高まっていくだろう。
 服部はChris Speed / Zeno De Rossiについて、「こんなCDを、こんな大人数(その時、室内には20名弱の聴き手がいた)で聴くなんて、一生に一度の体験ですよ」と驚いていた。だが、それが「タダマス」が特異な場であり続けている秘密なのだ。
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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:35:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
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