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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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フリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディング、アルヴィン・ルシエと小津安二郎  Free Improvisaion and Fieldrecording, Alvin Lucier and Yasujirou Ozu
 多田雅範が自身のブログで書いている(※)。
 ※http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20140515

track 373 Alvin Lucier / (Amsterdam) Memory Space (Unsounds) 2013
 

この盤を耳にし始めてから、とろけている。漢字に変換すると、蕩けている。かつてこれほど気持ちいい音楽を聴いたことがあっただろうか。

もちろん。予断なく聴いている。風景を眺めるように、耳をすます。

さあ、何が始まるんだろうかと。

右手にカーブを曲がってみるように、応接間で初対面のひととお会いするように、能の舞台に舞いが進み来るように、風は吹いて花びらが落ちるように、親しいひとと目配せで何かが伝わるように、恋人同士の指と指の触れかたのように。

音の感触は、表情や匂いや体温を察知するように受信することで、到来している。

ギターであるとか、楽器であるとか、フィーレコであるとか、ラップトップであるとか、まあ、その音の正体は正しいかどうかは置いといて、このサウンドの生成の風景。

ぶつかりあったり、ハモったり、と、個々の音は風景に歩み出ているようだ。それが先ず、気持ちいい。何かひとの意図を超えているようにも感じられる。聴くワタシがワタシでなければならないという強迫からも離れられる、このクールさ。それは楽器の音も、エレクトロニクスも、フィーレコも、等価に聴こえるようだ。おれには未だ到来せぬ仏教の音楽にも聴こえるものだ。

 相変わらず多田の耳は前置き無しにいきなり核心をとらえ、それをさりげない言葉で単刀直入に語ってしまう。「統一されたこの場を共有することが第一義ではない、と、個々の音は風景に歩み出ているようだ」、「何かひとの意図を超えているようにも感じられる」と。演奏はアコースティックの楽器音、エレクトロニクス、フィールドレコーディング音源を含み、それらが遠く近く、時に層と成し重ね合わされながら進められる。しかし、それらはアンサンブルを完結させない。むしろ風に吹き寄せられた音の欠片がつくりあげる束の間の光景との印象。つけっぱなしで見てもいないTVから伴奏音楽が流れ、それに混じり合わないギターの調べは隣家の開け放たれた窓から聴こえてくることに気づく。家の前の道路で子どもたちが遊んでいるようで、時折歓声が上がり、それをたしなめる母親の声がかぶさる。風向きが変わったのかブラスバンドの響きが揺らぎながら届けられ、川沿いの道を走るバイクの排気音や急に高鳴り始めた心臓の鼓動と混じり合う。ここでは「内」と「外」はたやすく反転する表裏一体のものであり、響きの輪郭や音の仕切りはおぼろに希薄で、すぐに互いに浸透しあうものとなっている。

 さらに多田のブログの記述からの引用を続けよう。

 いっせーの、せ、で、演奏を始めて、こうなるものだろうか。ううむ、AMMを聴いていた感覚もあるなあ。

この盤に対する福島恵一さんのレビューを読む。

耳の枠はずし 「ディスク・レヴュー 2013年6~10月 その2」

http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-259.html


 「外へ出て、そこの音の状況を記憶/記録し、それを追加、削除、即興、解釈なしに演奏によって再現せよ」とのAlvin Lucierによる指示に基づく作品。

ええっ?なにそれ。

「外界の音の状況」という目標がアンサンブルに共通のものとして先に設定、されているけど、奏者が再現に取り組む時に不足と過剰が明らかにされ。

おお。

これに対する応答が各演奏者を突き動かし、動的平衡を保ちながらの移動/変遷を余儀なくするとともに、アンサンブルを不断に更新していく。
 

なるほど。

他の演奏者の意図を探るのではなくサウンドにだけ応ずるため、触覚的な次元に至るまで全身を耳にして歩み続ける。結果としてアンサンブルはエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションを行うことになる。

ええっ?エレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーション、なのかあ。エヴァン・パーカー・エレクトロ・アコースティック・アンサンブルには感じられない別の事態に思われていたんだけど。エヴァン・パーカーたちは完全に聴きあって、演奏しあっていたように感じていた。

MAZEのみなさんは、個々がフィーレコになっているような感触だ。
 「目標が外にある」。これはすごいなあ。動的平衡を保ちながらの移動/変遷を余儀なくされているとともに、アンサンブルを不断に更新していくという彼らの意識は、なるほど、確かにあるのだ。

ううう。それにしても、気持ちいい。立ち直れない。もとい。なんか生きる希望がわいてくる。う、めっちゃ立ち直ってんじゃん!
 

橋爪亮督グループの「十五夜」神トラックをトーマス・モーガンに持たせてやったんだが、「十五夜」という曲は橋爪から、あんたは月ね、雲ね、だんごね、ススキね、と役割分担を振り分けられたカッティングエッジな演奏家たちが、「目標が外にある」意識でもってテクネーとタクタイルの限りを尽くすという点で、アルヴィン・ルシエやMAZEと図らずも視野を共有していたのだ。

一足飛びに、わたしたちもまた、このような音楽でありたいのだ。

 多田の鋭い突っ込みや合いの手が、原文をパラフレーズし、意味合いを分岐させ、新たな息を吹き込む。「エヴァン・パーカー・エレクトロ・アコースティック・アンサンブルには感じられない別の事態に思われていたんだけど」は全くその通り。彼らの演奏は、エレクトロニクスによる音の変形や空間への放出/散布の度合いのコントロールにより、それまでのグループ・インプロヴィゼーションに比べ、音を演奏者の身体から捥ぎ離して空間へと解き放つものとなった。音は演奏者間だけで取り交わされることを止め、響きと化して匂いが立ち込めるように空間一杯に広がる。音は沈黙に沁み込んで空間と一体化し、音を放つことが空間を力動により変転させ、切り裂き、渦を巻かせる。それゆえ彼らの演奏を聴くことは、フレーズやリズムの交錯をとらえると言うより、頬や髪に風を感じることであり、揺れる船に乗り込んだような体幹の揺らぎを覚えることであった。しかし、その後に耳にすることになったAnother TimbreやPotlatchからリリースされた「音響」的な、あるいはエレクトロ・アコースティックなフリー・インプロヴィゼーションは、言わば解像度/透明度が全く別次元だった。楽器からどのような音色を引き出すか、それを伝的にどう変形するかといったことはもはや重要な問題ではなく、むしろ音は空間に響くことによって耳に聞こえるものであることを、最初から前提にしていた。すなわち我々が耳にするのは「音自体」(そんなものがあるとしてだが)ではなく、空間/距離により変容され侵食された「響き」でしかあり得ない。そこには周囲の環境音をはじめとする「他なる響き」が必然的に入り込むことになる。だからそれを「完全に」聴き取ることはできない。「完全に聴きあう」ことは音の向こうに共演者の意図を結像させることによって、すなわちコミュニケーションの図式に乗っ取って、ようやく初めて成立する。だが実際には、そこで投げ交わされる音を注視すれば、それは演奏者の意図になど還元しようもない多様さ/不純さをはらんでいる。そこに留まり立脚しようとする限り、向かい合う共演者の意識の動きなどに至れるはずもなく、拡散する決定不能性に途方に暮れるしかないだろう。だが、それこそが豊かさなのだ。
 ここで我々はフリー・インプロヴィゼーションをフィールドレコーディングのように、フィールドレコーディングをフリー・インプロヴィゼーションのように聴くことができる。「即興的瞬間」に注目しながら。この「即興的瞬間」とは、アンドラーシュ・シフの演奏への私の拙いレヴュー(※)から、多田が何度となく拾い上げてくれた概念にほかならない。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-94.html

 そのレヴューから一部を抜粋引用しておく。

 蓮實重彦はスポーツ観戦の醍醐味として「圧倒的な流動性の顕在化」を挙げるが、まさにその通りだ。潜在的なものにとどまっていた線/運動が一挙に顕在化した時の、世界がひっくり返るような驚きこそが、スポーツの快楽にほかならない。そして、音楽もまた。
 アンドラーシュ・シフの演奏は、至るところ、そうした「圧倒的な流動性の顕在化」の予感/予兆に満ち満ちていた。そして、そうした各瞬間こそが、「即興」に向けて開かれているのだ。彼の演奏を「彼による作品解釈の具現化に向けた身体の精密なコントロールの結果」ととらえるよりも、そのような「即興的瞬間」に開かれたものとして受け止めた方が、演奏の強度を充分に受け止めることができるのではないか。いや、こうした言い方は後知恵だ。むしろ、彼の演奏に、優れた即興演奏と同質の輝きや馨しさを、まず(思わず)感じてしまった(不意討ちされた)‥と告白しなければ嘘になるだろう。
 すなわち「即興演奏の質」とは、こうした瞬間瞬間に訪れる(それは「深淵が口を開けている」ということでもある)未規定性に向けて開かれているということであって、「譜面を見ない」とか、「事前に決め事をしていない」ということではない。もちろん、即興演奏の定義だけを言うのなら、それでも事足りるかもしれない。しかし、仮にそうだとして、即興で演奏することが、それだけである質や水準を確保してくれるわけでは、いささかもない。ライヴやコンサートの告知を見ると、即興で演奏しさえすれば、それがすなわち「冒険」や「挑戦」、あるいは「実験」等となるという誤解が蔓延しているようだが、そんなことはありえない。デレク・ベイリーが言うように、人類が最初に演奏した「音楽」は即興演奏によるものだったはずだ。彼らは果たして「冒険」や「挑戦」、あるいは「実験」に勤しんでいたのだろうか。そんなはずはない。
 フレーズを排し、エレクトロニクスに頼り切って、いかにも「音響」ぽいサウンドの見かけをなぞることや、サンプリングされたループの重ね合わせをはじめ、その場に敷き詰められ響きをかき乱すことのないように、「空気を読んで」、当たり障りのない極薄のレイヤーをおずおずと重ねることの繰り返しが、即興演奏ならではの質や強度を獲得することは永遠にないだろう。なぜなら、そもそもそこには即興的瞬間が存在しないのだから。

 たとえば私は上原ひろみの演奏に、こうした「即興的瞬間」を見出すことができない。アンソニー・ジャクソンやサイモン・フィリップスとの「妙技」の応酬は、まるでサッカー・ボールのリフティングの名人芸を、延々と見せられているようだ。サッカーが「そこ」にないのと同様、私の考える音楽も「そこ」にはない。ではどこにあるのかと言えば、もっと潜在的な流れの中、譜面のある演奏だったら、個々のフレーズのノリやアーティキュレーション等が「そこ」からすべて流れ出してくるような源泉、呼吸のようなものにあると言うべきだろう。フリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディングでは、この核心がさらに「聴くこと」の核心に近づいていくように思う。

 ブログでときどき小津安二郎のことに触れることがあるが、決して小津の映画をそんなに観ているわけではなく、むしろ彼が世界をとらえ切り出してくる仕方、特に人のいない室内の風景等をとらえる仕方に興味を持っている。その際に導きの糸としているのは前田英樹の論稿だ。先日、図書館に行ったら、「思想」の2014年1月号に彼が「小津安二郎の知覚」を書いているのを見つけた。以下に興味深い点を幾つか抜き書きしてみよう。

この映画には、強い印象を与える事物のクローズアップが、さまざまなところに出てくる。(中略)これらのショットは、どれもみな物語の本筋から外れ落ちて、キャメラによる純粋な静物画の流れを作る。これらの〈物〉は、誰の感情も心理も暗示せず、位置関係さえ説明されることがない。
 〈物〉はただそこに在って、知覚されている。(中略)映画という知覚機械では、そういうことが可能となる。小津安二郎が、映画の仕事のなかで最も強く惹き付けられていた点は、疑いなくそこにある。(中略)小津の映画では、静止と運動はひとつのものである。それらは、持続する同じ唯ひとつの世界が、私たちに見せるふたつの顔に過ぎない。静止の底には、在る物の無限の振動があり、運動の底には大地が湛える静けさがある。(中略)静止と運動とがひとつのものになって顕われるのは、映画という知覚機械のありのままの働きによってである。(中略)映画には、そのことをあっさりと示してしまう働きがもともとある。
 小津はそうした働きを、ただもう類を絶した忠実さで引き出してみせたに過ぎない。(中略)小津の映画は、初期から一貫して二重の流れ、並行するふたつの線を持っている。そのうちひとつは〈現実的なもの〉の線を成し、もうひとつは〈潜在的なもの〉の線を成す。
 前者の線には、怠け者の学生、失業者、与太者、退職した元教師、その他いろいろな状況にある人々の行動があり、後者の線には、静まり返って在るさまざまな物、椅子や畳に座って在る人たち、理由もなく動く彼らの指先や、もぞもぞする足、煙を吐く煙突、湯気をあげる薬缶、その他、数限りないものがある。
 二つの線は、常に同時にあり、時に応じてどちらかが前面に出る。前面に出ても、潜在的なものの線は、その性質を変えることがなく、私たちの行動と無関係に在るだろう。(中略)この第二の線にあるものは、「規律」や「美的システム」といったものでは決してない。
私たちの現実行動を根本から離脱して立てられた、宇宙に対するキャメラの知覚そのものである。(中略)小津にあっては、この第一の線は、第二の線と区分不可能な視覚で結びつき、ふたつは浸透し合う二重の流れを作らずにはいない。あるいは、現在の各瞬間を、ふたつの方向に分岐させずにはいない。そのうちの一方は、人物の行動が目指す未来に進もうとし、もう一方は潜在的な過去それ自体のなかに沈み込んでいく。知覚のこの絶え間ない二重性は、劇映画を作るひとつの技法、といったようなものではない。映画キャメラの知覚に潜んでいる本性と見なすべきものである。小津は、ただその本性を、さまざまな仕方で明るみに出してみせるのである。

 ベルクソン(からドゥルーズに至る)の語法が流れ込んでいるため、現在、過去、現実的、潜在的といった語の意味がとりづらいところがあるが、それでもこれらの指摘は、いま自分が関心を持って聴いているフリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディングが「録音」という機械の知覚を通じて曖昧に重なり合う地点の眺めに、驚くべき正確さで合致しているように思える。別の言い方をすれば、前田英樹の思考だけではなく、
「タダマス」での体験を含め、様々なものを手がかりにして、この間、こうした音楽の何に自分が惹かれるのか考え続け、書き記してきた言葉と、これらの言葉は驚くほど共通しているように感じられる。ここには確かに「何かがある」ように思う。それをはっきりと名指すことができず、手をこまねいている自分がもどかしい。

 フリー・インプロヴィゼーションは、音響という、演奏者の意志/意図を軽々と超えてしまう「人の手に余るもの」を取り扱うことにより、空間/時間の中に浮かび上がる痕跡を手がかりとせざるを得ず、結果として不可視の潜在性を、前田英樹の言う第二の線を浮かび上がらせずにはいない。そして、「自然のシンフォニー」などと言って、無理矢理に第一の線を仮構し、枝葉を切り落としてそこに押し込められてしまいがちなフィールドレコーディングについても、虚心坦懐に耳を傾ければ、そこに浮かぶのはやはり空間/時間の中に刻まれた多数の痕跡であり、結局は第二の線を注視せざるを得ない。こうして「潜在性」に深々と根差し、そこに耳の眼差しを避け難く誘うものとして、両者は共通/通底しているのではないか。すなわちフィールドレコーディングの中に、熱帯雨林の喧噪と雨粒の滴りの交錯のうちに数多の「即興的瞬間」を見出すことが可能であり、一瞬の微細な響きを注視し、それに応じることが、時間的にも空間的にも段違いのスケールでミクロかつ繊細な、もうひとつの世界を生きることが即興なのだと。
 ここで冒頭に戻るならば、そうした注視を呼び覚ますための仕掛けが、「Memory Space」におけるAlvin Lucierの作曲となっているととらえることができる。

 最後に多田が一部引用している、Alvin Lucier『(Amsterdam) Memory Space』の拙レヴュー(※)を参考に掲げておく。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-259.html


 ディスク・レヴュー第2弾はエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションからの7枚。と言いながら、実はコンポジション演奏を多く含み、また、必ずしも編成にエレクトロニクスを含む訳ではない。むしろ、微細な音響に耳をそばだて、沈黙にすでに書き込まれている響きを読み取らずには置かないエレクトロ・アコースティックな音楽美学と、そうした聴取の鋭敏さを演奏に直結させるフリー・インプロヴィゼーションの作法の「十字路」ととらえるべきかもしれない。いずれにしても流動的な仮構に過ぎないが、しかし、そのような視点/区分を導入することにより、これを補助線として初めて見えてくる景色もある。そしてそれらを言葉で解きほぐすことにより明らかになることも。それこそはいま批評が負うべき務めにほかなるまい。


Alvin Lucier / (Amsterdam) Memory Space
Unsounds 37U
MAZE:Anne La Berge(flute,electronics),Dario Calderone(contrabass),Gareth Davis(bass clarinet),Reinier Van Houdt(piano,electronics),Wiek Humans(guitar),Yannis Kyriakides(computer,electronics)
試聴:https://soundcloud.com/maze_music/amsterdam-memory-space-excerpt
 「外へ出て、そこの音の状況を記憶/記録し、それを追加、削除、即興、解釈なしに演奏によって再現せよ」とのAlvin Lucierによる指示に基づく作品。その結果、MAZEの面々による演奏は、おぼろにさざめき、希薄にたゆたいながら、決してアンサンブルの構築を目指すことなく、常に隙間をはらみズレを来たしつつ、精緻に入り組み微妙なバランスを歩むものとなった。これはこの国で一時流行した、「他の演奏者の音を聴かずに小音量で演奏せよ」とか、音の密度をあらかじめ希薄に規定してフレーズ/イディオムの形成を阻み個を全体へと埋没させる均衡化の企みとは、本質的に異なっている。これらは演奏者が互いに聴き合い、無意識に同期を志向してしまう生理を暗黙の前提として、これを指示によって打ち消すことにより、言わば不安定を生成させるものにほかならない。出来上がりの全体イメージを提示することなく、それが演奏者同士の「切り離された関係性」からその都度生成してくる‥というところがミソなのだが、実際には「場の空気を読む」ことに長けた(というより、普段からそれしかしていない)この国の演奏者たちは、「少ない音数で、小音量で‥」とすぐにいつでも使える「模範解答」をパブリック・ドメインとしてすぐに作成/共有してしまい、後はそれをだらだらと読み上げるだけになってしまう。これに対しAlvin Lucierの指示は「外界の音の状況」という目標を、アンサンブルに共通のものとして先に設定しながら、それにより逆にクリナメン的な偏向/散乱を生成させる。演奏者各自がそれぞれある部分に食いつき再現に取り組む時、それによって不足と過剰が明らかにされ、これに対する応答が各演奏者を突き動かし、動的平衡を保ちながらの移動/変遷を余儀なくするとともに、アンサンブルを不断に更新していく。演奏者たちは瞬間ごとの判断を曖昧に生理に委ね、怠惰な空気に身を沈めてしまうことなく、ぴりぴりとした覚醒の下、他の演奏者の意図を探るのではなくサウンドにだけ応ずるため、触覚的な次元に至るまで全身を耳にして歩み続ける。結果としてアンサンブルはエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションを行うことになる。だが、それにしても何と鮮やかに核心を射抜いた指示だろう。ここにはエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションとフィールドレコーディングを「聴く」ことの体験的同一性が、すでに1970年の時点で見事に言い当てられている。

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