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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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視界の中で動くもの、風が運んでくる響き − 「スティルライフ」サウンド・パフォーマンス@こもれびの庭 ライヴ・レヴュー  Listen to Moving Things in My Field of View and Sounds Brought on the Wind − Live Review for "stilllife" Sound Performance@Komorebi Garden  *Komorebi=Sunlights Filtering through Trees
全景(笹島)_convert_20140602234652
撮影:笹島裕樹


 石神井公園駅から会場のある石神井神社まで徒歩で向かう。午後5時過ぎにもかかわらず、容赦なく西陽が正面から当たり、アスファルトの路面も苛立ったように熱気を投げ返してくる。神社の境内に入り、脇道を通って会場である「こもれびの庭」にたどり着いて、ほっと一息つく。太陽を木立に遮られ、湿った土が丸く開けた広がりは、光も温度もひんやりと落ち着いていて、ここの空気には先ほどまでの刺々しさは感じられない。さわさわと響く葉擦れの向こうから祭り囃子が聞こえてくる。たぶんテープなのだろうけど。
 会場が円錐状の木組みの中に設えられ、スタッフが蚊取り線香に火を点けている。客席に腰を下ろすと、祭り囃子の上空からカラスの鳴き声。それだけでなく、犬の吠え声、子どものあげる歓声、神社の鈴の音や柏手を打つ音など、様々な音が聴こえてくる。上空を飛行機が通り過ぎるひときわ大きな音。
 一陣の風が樹々を揺すり、葉擦れが渦を描く。あるいは向こうから枝を揺らしつつ、葉擦れの波が押し寄せ、駆け抜けていく。蚊取り線香の煙。
木組み_convert_20140602235804
撮影:益子博之
成瀬4_convert_20140602235734
撮影:成瀬知詠子


 そうした周囲の音や匂い、温度や湿度になじんだ頃、予定より15分遅れて演奏が始まる。しばらくは二人とも動かない。ようやく笹島が金属製の小さな円盤と馬蹄形の蹄鉄を打合せ、微かな響きを立てる。新たに付け加えられた音が、すでにそこにある豊かな響きの織物に重なり合い溶け込んでいく様に耳が澄まされる。津田は手に取った音叉を膝に打ちつけ、軸の端を竹筒に押し付ける。うゔっと竹がくぐもった呻きを漏らす。彼はそれを何回も繰り返した。微かな響きにそば立てられる耳の視界を、周囲の様々な物音が通り過ぎていく。壁で囲まれ仕切られた室内ではなく、外に晒された屋外での演奏は、演奏に周囲の音が混じるというようなものではなく、演奏の只中を物音が通過し、踏みにじる。いや、先にそれらの物音の滔々たる流れ、生成消滅があって、演奏は束の間、僅かに手元を照らすに留まることを明らかにする。低空で飛ぶカラスの羽音が鮮やかに横切っていく。その様は近付き難く威圧的ですらある。

 すでに「出来上がって」いる周囲のサウンドスケープに、いまさら何を付け加えるというのか。そうした問いの静かな圧力を感じずにはいられない。笹島がカンテレを取り出し、e-bowを二つ弦に乗せる。微かに浮かび上がる震えに耳を凝らすと、子どもの声のおぼろな手触りが通り過ぎる。おそらくは少し離れたところを歩いているのを、風が運んで来たのだろう。知らず知らずのうちに、耳の景色が撹乱されていることに気づかされる。
 竹筒にピンポン球が投げ入れられ、中でぶつかりあってカタカタと音を立てる。開口部を塞いでいるので音は大きく広がらない。竹筒を傾けて、ピンポン球をぶつけあわせることが、その後も執拗に繰り返される。繰り返しの中で周囲の物音が通り過ぎ、混じり合い、遮られ、演奏の音はそれ自身の輪郭を崩壊させ、ますます不明瞭になっていく。それでも動作は繰り返され、むしろ背景音のテクスチャーを際立たせる方向に、言わば「コンクレート」的に機能する。

 打ち合わされた竹筒の打音がディレイをかけられたように響き、地面に底を打ち付けると、アンクルンのように優しい音色を立てる。竹の細いパイプを取り出し、しばらく掌でくゆらした後、そっと息を吹き込む。今日初めての息音に何羽ものカラスが応え、複数の鳴き声が寄り集まってディレイをかけたように響く。続いてはガラスの試験管を吹く。今までとは打って変わって大きな鋭い響き。笹島が傍らの小石をかき混ぜ、樹々がざわめく。今度は思いっきり小さな音で吹く。もともとそこに設置されていた素焼きの壷の肌が擦られ、サンゴのかけらがすり合わされる。鐘の音が低く響き、アナウンスのチャイムが風に揺すられて不揃いに流れてくる。遠近の感覚が撹乱されていて、距離感がつかめない。葉擦れのようにずっと鳴っているはずの音がしばし遠のき、他の音といっしょにふと浮かび上がる。風の向きや強さが音を配合し、響きを貼り合わせているようにも、環境音を含むサウンドスケープを演奏がコンダクトしているようにも聴こえる。

 鐘の音が繰り返し響き、中に水とガラスの粒を入れたガラス壜がゆっくりと振り動かされ、あるいは石笛がすきま風のうなりに似た音を立てる。演奏による微細な音に意識が集中すると、鳴り続けているはずの背景音がすっと意識から遠のき、またふと戻ってくるなど、知らず知らずのうちに明滅を繰り返す。
 津田が細いホースを吹き鳴らす。管というよりも薄いリードの振動に似た倍音の多い響きが、闇に浮き沈みするようにどこまでもどこまでも紡がれる。木の枝を打合せ、金属の粒が入った金属缶を転がし、木の管の開口部を掌で打ち、小石をすり合わせて振り撒く、ぱらぱらとかそけき響きが小鳥の声と混じり合う。そうした極小音量の演奏がふと止んだ時に、その向こうにこれまで意識に上らなかった物音が、次々に立ち現れてくる際の、めくるめく体験。そうした体験に酩酊していると、いつの間にか二人はもう音を出していなかった。おそらくはいつもより長い時間、無音のコーダを奏でると、第1部の演奏は終了した。第2部はもう少し陽が落ちて暗くなってからと津田。確かにまだ明るい。
成瀬1_convert_20140602235614
撮影:成瀬知詠子


 休憩時間に境内まで用を足しに戻る。途中、茂みを抜けると、左右の葉擦れがズレをはらんで動き、それに揺さぶられてくらくらした。ワークショップ「みみをすます」の時と同様、周囲の物音に対し耳が開けてしまっているらしい。たったこれだけのことで、簡単に揺すぶられてしまう身体の脆弱さ。それは鋭敏さと背中合わせだ。

 「こもれびの庭」に戻ると、津田が木組みの裏手で、細い金属棒を3本、手に持って揺らしている。微かにぶつかりあって、チャイムのような音が柔らかく響く。最初は音具のチェックをしているのかと思ったが、彼の意識はすでに研ぎ澄まされているように感じられた。笹島はと眼で追うと木組みを挟んで反対側、やはり外にいて、これまたいつもの演奏スペースであるシートのところに向かう様子がない。席へ戻ると、stilllifeの二人の「演奏」はそのまま進められた。津田は北京鍋の改造楽器「フライポン」の各部の鳴りを確かめるように叩き、笹島は竹柵をしきりに擦っている。音の聴こえ方がまるで違う。これまで彼らの演奏を、「周囲の音といっしょに丸ごと」聴いてきたつもりだったが、そこには無意識に働く枠組みがあって、「本文」と「それ以外」を知らず知らずのうちに区別し、仕分けた上で、改めて配合していたのだろう。ここでは演奏の音は、葉擦れの音や交通騒音、小鳥やカラスの鳴き声同様、風によって吹き寄せられる振動の一部に過ぎない。
 stilllifeが以前にリリースしたCD『Indigo』に、一面に広がる虫の音に彼らの演奏が沁み込み、響きのシーツに編み込まれていく場面があった。今回はそれとは違う。そうした身を屈め、水位を低くして溶け込もうとする仕草はない。彼らはもっと伸びやかに、思いつくまま、自由奔放に振る舞う。積もった落ち葉をかき混ぜ、柵に張り巡らした綱を引っ張って木杭を揺らし、金属のパイプで茂みを探る。さらには木組みの周囲を巡りながら、バケツに入った水をたぶんたぶんと揺らし、小さな金属片を弓引きして倍音を振り撒き、バケツから柄杓で水を撒く。動きを追うのではなく、いつも彼らの演奏でしているように、中央に置かれたロウソクの炎の揺らぎを見詰め、耳を、肌を、身体を開き、響きの到来を待ち望むことにする。
 風がそよぎ、樹々がざわめいて、葉擦れが渡っていく。鈴の音。柏手。子どもの声が風に吹き散らされてばらばらになる。車の音とちゃぼんちゃぼん揺れる水音が交錯し、小鳥がさえずり、枯葉を踏む足音が横切って、椅子が軋み、バケツが鳴り、竹柱がうなる。カラスが鳴き交わし、水音の揺らぎの繰り返しが周囲を巡り、遠くから一瞬、電車の車両が通過するガタンゴトンという音が耳元に届けられる。脈絡なく浮遊する響きが次々に耳を通り過ぎていく。そこに演劇的な展開や場面性は感じられない。視覚的なイメージが浮上することもない。遠近も大小も定かではない様々な響きのかけらが、耳の視界に入り込み、色合いの異なる響きの斑紋として浮かび、また行き過ぎる。演奏と環境音の区別が見えなくなり、単に風が運んでくるかけらの吹き寄せとして敷き詰められ、それを眺めるうち、次第に時間的な前後関係も怪しくなってくる。あてもなく視線を移ろわせながら、ヘテロトピックな響きの織物をスキャンしている印象。聴き尽くすことなどとてもできそうにない、響きの豊かさだけが強く印象に刻まれる。
フライポン_convert_20140602235320
撮影:津田貴司
成瀬2_convert_20140602235641
撮影:成瀬知詠子


 二人が中に入ってくる。小石をすり合わせ、金属のシャフトをいじり、竹筒を地面に突く。回転しながらシャフトを伝い落ちるカムの動きを竹筒に伝え増幅する。微かな軋みが拡大され、思わず響きの底を覗き込む。葉擦れと車の音と鳥の声の間を、カウベルの柔らかな響きが緩やかに渡っていく。彼らの演奏は周囲の響きの流動生成のうちに入り込んでいて、音のサイズも変わらない。耳もまた、先ほどまでの延長上にあり、全方位の音をすべて聴こうと開かれている。
 爪弾かれたカンテレの弦の微細な震え、水を入れたガラス瓶を打ち合わせる丸い響き、遠くから聞こえてくる切れ切れのサイレン、やはり風に乗って届けられるもはや何を言っているかわからないアナウンス。風は止まず、葉擦れも途切れることがない。耳をひとところに落ち着けて、訪れる響きを迎え入れようと思うが、気がつけば耳はあちらこちらに出かけている。注意を惹きつけられると、聴覚がそこに集中し、耳の視野の大部分がそれに占められてしまう。それは身に迫る危機をいち早く察知するために、耳を澄ましていたことの名残なのだろうか。新たに生じた音響、聞き慣れない響き、耳の視野で動き回る音に耳が引っ張られる。そのようにして移り行く音絵巻を追いながら、一方では鳴り続け、じっとそこにあり続ける音に改めて耳を澄ます。カンテレの弦の振動と壜の中で動く水の立てるこぽこぽとこもった響きは、風や葉擦れの音に耳が還っていく際の、格好の目印となった。演奏の向こうに浮かぶ木立の揺らぎ。奏でられた響きが照らし出し浮かび上がらせる積み重なった響きの地層。
 津田がふっと立ち上がって、また、外に出て行く。手に巻貝の貝殻(中には水が入っていて、傾けるとこぽこぽと深みのある音を立てる)を携えて。耳元で響く水音に眼を開くと、彼の姿は反対側にあった。

 演奏が終わりを迎える。いつまでも続いていていいのに。それに二人が音を出すのを止めただけで、私を包むこの豊かな響きの層/流れがどれほど変わると言うのだろう。音が音を呼び、動きが響きを招き入れる。演奏の印象を言葉に詰まりながら語る津田も、演奏が終わったとは信じていないように見えた。そこには静かな、だが深みに根差した高揚、精神のほてりが感じられた。木組みの外に出ると、いつもは寡黙な笹島が「音を出すと、すごくいっぱい応えてくれるんですよ。相槌なしに長時間話すのって難しいけれど、うまく相槌を打ってもらえると、いくらでも話せてしまうでしょう。あんなに相槌を打ってもらったことってないなあ。本当にいくらでも音を出し続けられるし、聴いていられる感じがしました」と身体の奥から溢れ出る興奮を抑えきれない様子で話してくれる。私もまた、だいぶ陽が翳り、涼しくなった空間で肌のほてりを冷ましながら、いま起こっていたことの何分の一ぐらい、自分は受け止められたのだろうかと考えていた。

 以前に行ったレクチャーで「即興のハードコア」について考えてみた時、デレク・ベイリーのフリー・インプロヴィゼーションを、聴覚の期待の地平を横切り、耳の視野の片隅をかすめて、ほうき星のように通り過ぎていくものとしてとらえた。と同時に、その生成のプロセスをデュビュッフェやフォートリエによるアンフォルメル絵画を念頭に置きながら、すでに眼前に横たわる沈黙のマティエールを触知しつつ、それを手がかりとして新たな傷をつけていく作業としてとらえてみた。それは決して音によるオートマティスムではなく、むしろ音を彫り刻みながら、すでにあるものを含め「痕跡」に埋もれていくことにほかなるまい。そこで響きは手元から滑り落ち逃れ去った音の軌跡であり、別の視点からすれば、音が響きを生じるのに不可欠な距離/空間に責め苛まれ、ずたずたぼろぼろに侵食された挙句の穴だらけの残骸でもある。
 デレク・ベイリーが田中泯と行ったライヴ『Music and Dance』では、激しく屋根を叩く雨音をはじめ傍若無人に侵入する「外」が演奏を蹂躙し、ほとんど掻き消してしまう。そのような過酷極まりない状況でありながら、演奏は「気配」を紡ぎ続け、「外」をどこまでも受け入れながら生き延びる。一方、ミッシェル・ドネダは録音技師とともに、野山に渓谷に分け入り、あるいは外の沁み込んでくる空間に佇み、そこで繰り広げられている生成流動に自らを突き刺し、熱く息を吹き込む。打ち立てられた息の柱に眼を凝らせば、それをかたちづくっているのが、息の流れの揺らぎやしこりといった吐息の儚い移ろいに過ぎず、脆く壊れやすいどころか、蚊柱のように実体を欠いたものであることにたやすく気づくだろう。しかし、だからこそそれは匿名性の淵に沈潜し、自らを大地の息吹に接続することができるのだ。
 フィールドレコーディングを聴くとは、決して音の名所絵や絵はがきを鑑賞することではなく、演奏者の力を借りずに、即興演奏の基層であるところの、こうした生成流動をとらえることではないか。導きの糸となってくれたのはフランシスコ・ロペスだが、優れたフィールドレコーディング作品は、鳴っている音の描き出す顕在化した風景だけでなく、そこにうごめく不定形の流動、潜在的な力を必ずとらえている。
 ベイリー/ドネダ/ロペスの描く三角形は、一見かけ離れているようでいて、潜在的なものを通じて密接につながっている‥‥そんな「天啓」に導かれた聴取の旅路は、ブログに書き記してきたように、another timbre, creative sources, potlatch, winds measure recordings, fataka, gruenrekorder, senufo editions, unfathomless, semperflorence, edition RZ, wandelweiser等からリリースされる作品群を通じて、最近ますます「ここには何かある」との確信を深めているとは以前にも述べたところだ。
 それが私一人の妄想でないことは、益子博之・多田雅範との「同期」で確かめられたし、また、stilllifeの二人、津田貴司と笹島裕樹との「同期」にも力づけられた。そこへ来て、この演奏である。環境音を採り入れた即興演奏の多くは、それを単に「動く壁紙」と見なしているに過ぎない。彼らは決して「外」に出ようとはせず、不安定な流動変化に足を踏み入れようなどとはしない。先に挙げたベイリーやドネダは輝かしい例外なのだ。だが、stilllifeは彼らとも異なるアプローチを試みている。彼らはベイリーより親和的であり、ドネダより浸透的であり、音を出すことよりも音を聴くことをより重点化して「演奏」をとらえている。それは聴衆の聴き方をも触発し、変容を余儀なくさせる。先に述べた私の聴取は、そうしたプロセスのひとつの結果に過ぎない。あの日、あそこにいた人々の13分の1に。それでもこの拙い走り書きが、他の参加者の問わず語りを引き出し、彼らの演奏をまだ聴いていない未来の聴衆を触発することを願うこととしたい。
成瀬3_convert_20140602235708
撮影:成瀬知詠子


2014年5月31日(土) 17:15〜18:45
石神井氷川神社 こもれびの庭
stilllife(津田貴司+笹島裕樹)
※掲載写真はいずれも各氏のFacebookページから転載させていただきました。
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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:13:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
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