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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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ジャン・フォートリエ展@東京ステーションギャラリー  Jean Fautrier Exhibition@Tokyo Station Gallery
 新聞の紹介記事を見てはるばる東京駅まで。ジャン・フォートリエについては「アンフォルメルの先駆者」として以前から画集等で親しんで来たが、彼の作品と直接向かい合ったのは、2011年4月〜7月にブリヂストン美術館で開催された『アンフォルメルとは何か』展だった。「厚塗りに込められた実存の重苦しさ」という私の月並みな先入観を、吹き抜ける涼風のような清冽さが襲った。ジャン・デュビュッフェのこれは予想を上回る暑苦しさとともに、これはまたとない収穫となった。



 今回の展示は日本初の大規模な回顧展ということで期待して出かけた。丸の内北口改札を出てすぐギャラリーの入口があり、エレヴェーターで3階へ上がる。
 緑色をした蛙(そんな悪口がフランス語にあったような)みたいな管理人の肖像が出迎えてくれる。組まれた手指のどす黒さに人生の労苦、実存の重苦しさへと向かう眼差しを感じずにはいられない。続くエドゥアール夫妻それぞれの肖像画習作もまた、顔色が黒ずみ、消えることのない不機嫌さをたたえている。「娼家の裸婦」と題された鈍重な裸婦像の奥に覗く客の姿がフランシスコ・ベーコンを思わせる流動化を来していて驚かされる。
 静物画を満たしているのも暗い湿度であり、静物の並べられた食卓をひたひたと浸す台所のこもった匂いが漂ってくるようだ。思わず高橋由一を思い浮かべた。
 続く人物像にも初期セザンヌのような暴力性を秘めたやりきれなさが濃密にたちこめている。溢れる動物的生命力がそのまま噴き上がる野卑な表情やぶよぶよと美的規律からはみだしていく身体。それらが次第に輪郭をおぼろにして、空間に滲み出し始める。
 「横向きの頭部」、「マリエット」で一瞬、厚塗りへと向かう筆の動きを示しながら、画風は総体として別の道を進み、実存の重苦しさの沁み込んだ身体を手放そうとしない。それらの到達点と言うべき作品が、赤黒い塊がごろんと放り出された、どこかジェームズ・アンソールを思わせる(私はそこに民俗的な視線を投影しているのかもしれない)「羊の頭部」であり、暗い空間の中に肉の赤が静謐に浮かび上がる、これは明らかにフランシス・ベーコン的な「兎の皮」であるだろう。出品作品目録を見ると、これまで言及してきた作品が1922年から26年の作品であるのに対し、この2作品は27年。「1−レアリスムから厚塗りへ 1922-1938」と題された第1部の展示でも27年以降はデッサン系の作品と彫像だけなので、「到達点」との印象は当たっていよう。ここに示されている「静謐な肉の強度」は実に素晴らしい。フォートリエの新たな可能性を手に入れた気がした。



 「2−厚塗りから『人質』へ 1938-1945」に移っても、当初の静物画はまだ第1部の暗い重苦しさの中に埋もれている。「飾り皿の梨」のこすりつける筆致や「醸造用の林檎」における先の2作品を思わせる粘りのある赤が印象に残るが、それも束の間のことに過ぎない。
 その点で「人質」連作はやはり明瞭なブレイクスルーをもたらしている。マチエールの焼き締めたような固さと陶器の肌のような輝き。浮かび上がる白。広がる緑や青が透明な哀しみをたたえながら乾いた涼やかさを吹き込んでいる。ちらしに用いられている「人質の頭部」にしても、暗い眼窩に実存的虚無とやらを読み取るのは勝手だが、画面中央に広がる陶土にも似た白い輝きから黄色みを帯びて黄土色に至る希薄な流れと、そこに響く涼しげな薄い緑の広がりを、それらがかたちづくる乾いた硬質の表面の張り詰めた強度を、そうした文学的な物語に従属させてしまい、見ようとしないのはいかがなものか。



 その点で、会場で流されていた記録フィルム「怒り狂うもの フォートリエ」における美術評論家ジャン・ポーランの言説は、まさにそうした文学的解釈と言えるだろう。彼はコロー等の古典的フランス絵画の事前との予定調和を批判し、フォートリエを持ち上げる。その美しき自然に飽き足らない実存的沸騰を。ポーランにとってフォートリエの作品は、その不気味さ、おどろおどろしさによって、現代社会のシンボルであるに過ぎないのだろう。彼はほとんど「現代社会の高まるストレスがアンフォルメルを生んだ」と言っているに過ぎない。何と貧しいジャーナリズム的言説か。彼はフォートリエに「抽象とは熟慮に基づく分析であって‥」と反論されて、慌てて場を取り繕い、フォートリエの口を塞ごうとする。「いや、私の言いたいことはまさにそれだ」と。現代の幇間と言うべき(それにしてはあまりにも尊大だが)道化師的評論家像。
 そうしたポーランのありきたりな言説とフランソワ・ベイルのいかにもな音楽を聞かされるにもかかわらず、このフィルムはフォートリエの作品制作の様子を見られる点で極めて貴重だ。「描くのに時間はかけない」と言っている通り、彼は筆で線を引き、パテを盛りつけ、顔料の粉末を振りかけてパレット・ナイフでこね上げ、刷毛目を付けて、あっという間に作品を仕上げてしまう。まるでピッツァでもつくっているかのようだ。

 そして最終章として「3−第二次大戦後 1945-1964」が来る。最初に並ぶ静物画群は「人質」連作の成果を、技法として静物画にそのまま投影したものと言えるだろうか。物語が消去された分、涼やかな風通しの良さが増しているが、集中力、凝縮力、強度という点では劣る。やがて彼は具象を離れ、抽象へと離陸する。1955年頃からの「ふとっちょ」、「こちょこちょ」といった作品群は、薄い青が涼やかなコンポジション。やはりマチエールの固い肌触りと硬質な輝きが魅力的だ。「オール・アローン」の茶色の軽やかな用い方に見られるように、軽みが出て来たのもこの時期の特徴と言えるだろう。
 続く「黒の青」、「雨」、「干渉」、「草」、「植物」といった大判の晩年作品は、テンプレート的な構成がいささか表面化してくるものの、それでも流行としての「アンフォルメル」の中心を成したアルトゥングやスーラージュに比べればよっぽどいい。彼らがアンフォルメルと言いながら、描く身体の動きや画面上に仕切られたグリッドといったテンプレートに任せっきりなのに対し、フォートリエには素早い動きと軽やかなリズムがあり、線の疾走や表面の起伏といった運動を一斉に解き放ち、その一瞬に鮮やかに凝固せしめたような生成感覚が、硬質な表面の中に封じ込められながら、どきどきと息づいている。



 最後の扉を出たところにコレクション展示として、堂本尚郎の収蔵作品が2つ掛けられている。「アンフォルメルつながり」というつもりなのだろうが、実際に展示されているのはパターンの繰り返しを基底としたグラフィックな造形作品であって、かつてのアンフォルメル期の作品ではない。場違いとの感じを拭えない。堂本のためにも、フォートリエのためにも、不幸な趣向となっているのが何とも残念だ。

 最後に会場について。ワンフロアの広さが確保できず、展示室間を階段で移動しなければならないのは明らかにマイナス点だが、その階段室がなかなか素晴らしい。東京駅創建当初の煉瓦壁の肌合いがまず素晴らしく、そこから連想される古風なモダニズム洋館建築をベースとした八角形の空間構造、ステンドグラスとシャンデリアの瀟洒さも好ましい。

ジャン・フォートリエ展
東京ステーションギャラリー
2014年5月24日(土)〜7月13日(日)
月曜休館 10:00〜18:00(金曜は20:00まで)
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201405_JEAN_FAUTRIER.html

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アート | 23:00:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
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