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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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ジャズにちっとも似ていないジャズの出現可能性、再び-「タダマス14」レヴュー  Possibility of Appearance of Jazz which is quite unlike "Jazz" Again - Review for "TADA-MASU 14"
 今回、体調不良でいつもより寡黙だった企画・選盤担当の益子は、しきりに内容の薄さを気にしていた。けれど、それは彼の思い違いに過ぎない。確かにポップ系の演奏の比率が高く、演奏の強度という点ではいささか流れ気味だったかもしれない。しかし、そこは構成と選曲の妙で十二分に補われていた。むしろ、今回はいつも以上に鋭く焦点が絞り込まれていたように思う。この四谷音盤茶会は益子と多田の感性のフィルターがとらえたNYダウンタウン・シーンの定点観測であり、そこにはこれまでの数多の渉猟を通じて検証された幾つかの着目点が存在し、言わばカメラは据えっぱなしである特徴ある光景にフォーカスを絞り込んでいるのだ。かつてジャズ雑誌の企画でよく見られた「いま一番アツイのは誰だ?」とか、「次に来るのは何か?」といった、ただただ派手に動き回る者たちをさしたる当てもなく追いかけ回し、鵜の目鷹の目で売り物を漁るジャーナリスティックなさもしさはそこにはない。

 それでは、当日の「演奏」について述べるとしよう。いつものことではあるが、以下に描き出すのは、あくまでも私の個人的な問題意識に基づいた編集の結果であり、「タダマス14」当日の様子をバランスよく伝えるものでは決してないことを、あらかじめお断りしておきたい。なお、プレイリストの詳細については、これもいつも通り、次のURLを参照していただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767


1.切り分けの視点
 まず「なるほど」と思わされたのは、Jose James, Taylor McFerrin, David Binneyと畳み掛けた前半中盤のポップ系3連荘。何とBlue NoteからリリースされているJose Jamesは益子自身「これはジャズではなくて、もう普通にソウルですね。先日の来日公演でも客席のオシャレ女性率が異様に高かった」と語る通りの仕上がり。細かく突き詰めたシンコペーションというよりは、「人力」ならではの揺らぎの魅力を思う存分発揮したドラムスが特徴的。他のサウンド・レイヤーも微妙なずらし/揺らぎを帯びていて、繊細かつ細密なブロデュースが光るが、一方、ヴォーカルはそよとも揺らがない。リズム隊を思いっきり跳ねさせておいて、その荒馬を自在に声で乗りこなす‥‥といったバンドとしての独自のグルーヴの生成を目指す姿勢は感じ取れない。むしろ、別録りしたドラムのトラックを後から差し替えたように聴こえる。つまりは「エフェクト」なのだ。
 こういう作品に、こんなリズムの揺れが入っていることに「一般リスナーのリズムのずれに対するリテラシーの高まりを感じる」と益子は言う。それが「『Jazz The New Chapter』の流れ」ということなのだろう。その一方で多田はこれに「とびきり出来のいいポップス。でも10年後は絶対聴いていない」と突っ込みを入れる。これに対し益子は「僕だってこれを先にかけたTony Malaby Tamarindoのような強力な磁場を持つ音楽とは思っていない」と応じる。
 その場では議論はそれ以上深まらなかったが、私はここに重要なカギが潜んでいるように思う。これまでの四谷音盤茶会のプログラムで、益子が「ポップ化」を一つの傾向として採りあげ、「より多くの聴き手を求めるミュージシャンの生理の自然な発現」であり、「ふだん彼らが聴いている『ジャズ』以外の多様な音楽の自然な発露/反映」と説明するたびに感じていた違和感に、それは関わることだ。
 現象面において見られるズレや揺らぎへの注目という類似点を、そのままくくってしまうのではなく、別の角度/視点から切り分けてみる必要があるのではないだろうか。というのは、単にTony Malabyのとりとめなく「もたる」、「なまる」テナーのラインと先のJose Jamesのドラム・トラックを聴き比べた時、これはもう後者の方が圧倒的に完成度が高いじゃないか‥ということに単純になってしまわないかと心配なのだ。そこでの比較基準点は「エフェクト」の効き目に置かれてしまうことになる。「こっちの方が純度が高くて「キク」じゃないか」と。だが、本来、Tony Malabyの演奏は、「エフェクト」の効き目のみに注目して聴き取るべきものではない。William ParkerのベースとNasheet Waitsのドラムスの一音ごとに弾け飛び散っていく感じとの対比において、彼のフリーク・トーンになってもなお「のたくた」しているテナーは聴かれるべきものだ。そこでフィーチャーされているのは、決してテナーのソロではなく、瞬時のリアルタイムな交感を通じて更新されていく「アンサンブルの生成プロセス」にほかならない。彼らは「ズレ」を最終的な生産物としてだけ欲しているのではなく、アンサンブルの生理として獲得しようとしている。そして、ここで無防備にも口を滑らせてしまえば、私はそのような緊密な交感を通じて、フライトしながら軌道を自在に修正していくアンサンブルの生成を(そこには後で見るように2種類の側面があるのだが)、今日を生き延び明日に向かって歩み続ける「新たなジャズ」の本質と見なしている。
 反対側から事態を眺めてみよう。益子は自身が聴衆として体験したJose Jamesのライヴについて、次のような感想を漏らしていた。「演奏がストイックなんですね。お姉ちゃんがキャーキャー言ってるわりには全然セクシーじゃないし、サービス精神旺盛ということもない。特にドラムに注目すると、よく『グルーヴはすべて腰から生まれる』とか言って、手足はバラバラにリズムを刻んでいても、それを腰のねちっこい動きで包括するみたいなことがあったと思うんですが、このドラマーは見事に腰が動かない」と。これはヴォーカルとリズム・セクションの関係においてだけでなく、バンドのグルーヴとドラムの関係、あるいは演奏する身体とサウンドの関係においても、アンサンブルが生成的なものではなく、設計図通りオペレートすべきものとして現れていることを示していよう。

 こうしたことはTaylor McFerrinに聴かれる曇った電子音の持続とローズ・エレピの船酔いしそうな揺らぎの絡み、あるいはフィリップ・グラス〜ミニマル・テクノ的なリズムとニューエイジ・ミュージック的なシンセの充満にも当てはまる。多田は言う。「むちゃくちゃ気持ちよかった。気持ちよかったんだけど、同時にもう飽きているというか。ああ、これが『勝利の方程式』なんだということが見えてしまう」と。ほかほかと充満する多幸症的な響きの向こうで瞳の奥がしんと冷えきっているのがわかる。
 あるいはDavid Binneyにおける、左右に割り振り、さらに不均衡に間引きすることにより床板に隙間の空いた吊り橋のように不安定化させたドラムスに、何層にも分けて薄くかぶせられる管と声のレイヤー。浮遊感のあるフュージョン的なベースが、風のように軽やかに吹き抜けていく。そう、これは冷ややかに完成度を高めたフュージョン・ミュージックだ。熱さを求めるプレイヤーシップを去勢/抑圧し、ぎらぎらとしたまぶしさを徹底的に除去した艶消しのジュラルミン思わせるひんやりした肌触り。

 益子によれば「NYのBlue Noteでは、最近、週末深夜にこの手の音のライヴをやるようになってきた」とのこと。だが、しかし、そこには一定の切り分けが必要だと思う。編集の一素材としての「揺らぎ」と演奏/即興/アンサンブルの生理として生きられる揺らぎと。前者なら、プロデューサーの「こんなのも入れてみようか」的発想によって、どこにでも(たとえばAKB48では難しくてもEXILEなら)仕込まれてしまうものなのだから。
タダマス14-1


2.先の見えない冒険
 前半のポップ・サイドに対し、後半の「ダーク・サイド」(©多田雅範)は、この催しの常連と言うべきTyshawn Soreyを軸とした圧倒的強度を示す演奏で幕を開けた。Steve Lehman Octetにおいては管のレイヤーの敷き重ねがつくりだすたゆたいがヴァイブの揺らめきを照り返し、Tyshawn Soreyのドラムスが空気を揺すぶりたてるバス・ドラムの間歇的なアタックとリムショットを含む微細で素早い打撃の乾いた破片に二極分化し、これを両側から挟み込んで押しつぶし、あるいは引き裂こうとする。次第に速まっていくヴァイブの振動の遷移は、バリ・ガムランの涼やかな空気を運んでくる。多田が「リズムの処理はもしかしたら先ほどのポップ系の方が洗練されているのかもしれないが、こちらの方が音楽の展開にいつも謎があり、そこに耳が惹き付けられ、いつまでも聴いていたいと思わせる」と感想を漏らす。あらかじめ描かれた下絵をはみだし、航海図を書き換えていく音の軌跡。一瞬ごとの反応に突き動かされて行く先の見えない彷徨。けれど彼らはこの冒険の豊かさを心の底から楽しんでいるように感じられる。
 John Escreet, John Hebert, Tyshawn SoreyのトリオとEvan Parkerの共演盤からは、あえてParker抜きのトラックが選ばれた。空間のあちこちで一瞬のうちに刻まれ、(おそらくは深々とした痕跡を残しながらも)積み重なることなく闇の中に消え失せる音のかけら。それは点描というより、稲光が網膜に焼き付ける光景の残像に過ぎない。瞬間浮かび上がるかたちは全体のほんの一部に過ぎず、身体の大部分は闇のうちに沈んだままで、表情もまったくわからない。音を束の間輝かせることにより、互いを隔てながら共に浸す闇の深さを、より一層際立たせる演奏。ゲストの井谷がアルバム全体のうちのどの辺に位置づけられているのか、大層気にしていたのが興味深かった。実際には全体9曲中の8曲目で全編唯一のトリオのみの演奏によるトラック。彼が気にしていたのは、この演奏が「こういうのもちょっとやってみようか」的な位置づけのものなのかどうか‥‥ということだろう。彼らは本気だ。本気だからこそ、Parkerのノンブレス・マルチフォニックスによるさざめく光の波の重なり合いに、深く冷えきった闇を対置してみせたのにほかなるまい。

 続く3作品はさらに彼岸から。Jozef Dumoulinのトリオでドラマーを担うEric Thielemansのソロ作品は、中国山岳少数民族に伝わる秘曲中の秘曲とでも言うべき、おぼろなオブスキュアな手触りをたたえている。ヴァイブの鍵盤を材質の異なるスティックで奏でているのだろうか、響きが解けて輪郭が滲んだ倍音の斑紋が、中空にほのぼのとたどたどしい足跡を残し、細い金糸銀糸を思わせるきらめきが周囲を細かくかがっていく。あるいは太鼓の皮をこする音の、聴き手の肌をそばだてる響き。一方、『A Fender Rhodes Solo』とあまりに素っ気なく即物的に名付けられたJozef Dumoulinのエレクトリック・ピアノ演奏は、たなびく電子音のたゆたいがスペーシーな広がりをつくりだす。個々の音は明滅を繰り返しながら、決してフレーズを編み上げない。すうっと通り抜けていくほうき星の軌跡。ノスタルジックな初期の「手づくり」電子音楽の趣をたたえながら、電子音楽という「あらゆるサウンドのパレットを駆使できる」手法が陥りやすい、あらかじめ精密に描かれた下絵の完璧な再現へのオブセッションを離れ、「凝視する耳」の持続を自らに課し、先を見通し得ない手探りに神経を集中させる。この鋭敏さを増した皮膚感覚(火傷しかけてひりひりと疼く肌のような)は、「番外」としてプレイされたIngrid Laubrock Octetのたちこめる倍音の霧を介して指先が触れ合うグラス・ハーモニカ集団演奏に、確かに通じている。
タダマス14-2


3.「ジャズにちっとも似ていないジャズ」出現の必然性
 以前に、第3回四谷音盤茶会へのレヴュー「ジャズにちっとも似ていないジャズの出現可能性」で、次のように書いた。

 日々のライヴが日常であり、ひとりの演奏者が数多くのグループやユニットに属しているジャズの現場があるのに、改めて録音でも実験性が打ち出されるのはなぜだろうか。それを考えるためには、いま日本で「実験音楽」などと言われる時の「実験」との違いを明らかにしておく必要があるだろう。後者の「実験」が俗流ケージ主義に基づく、語の一番悪い意味での「パフォーマンス」、すなわち健忘症が可能にしたコンセプトだけの「ネタ」に過ぎないのに対し、前者は決してそうした新奇さを求めることのない、まさに自らの身体が新たに通り抜けるための環境設定である。先日の記事で少し触れたウィリアム・バロウズ風に言うならば「新たなヤクを試してみる」ということだ。その「ヤク」自体は以前からある。効果も文献には載っている。けれど自分の身体に使ってみてどうかはわからない。そこで実験が必要となる。結果はうまく行ったり、行かなかったり。それは「ヤク」の精製純度や、その時の自身の体調や精神状態、周囲の環境等によっても異なる。しかし、身体は確実に学んでいき、経験は積み重なる(後者の場合は「ネタ」が古くなるだけだ)。
 これからもジャズの世界では、様々な実験が、再検証と再創造が繰り広げられていくことだろう。それはジャズの定型や通念が厳しく問われていることにほかならない。もし「ジャズのふり」をしているだけならば、それが「ジャズに似ていない」ことは致命的な欠陥である。だが、ジャズそのものは「ジャズにちっとも似ていない」ことを、何ら恐れる必要はない。だとすれば、「ジャズにちっとも似ていない」ジャズが世界で一番出現しやすい場所はニューヨークなのかもしれない。

 前半のポップ系作品について、ズレや揺らぎへの傾向を「エフェクト」であるとした。彼らはそのあるべきプロセスを生きていないと。彼らはこれまでジャズが築き上げてきた数々の定型的表現をちりばめるのが好きだ。「ジャズ」の記号を帯びることが。そこではズレや揺らぎへの傾向と同様、「ジャズ的なサウンド」(典型的な楽器編成、特徴的な音色やクールでスタイリッシュなフレーズ等のアーカイヴ)もまた編集のための一素材に過ぎない。すなわち、「ジャズ的なサウンド」の継承者は、こうした「ジャズのふり」を尊重し、この見かけに敬意を払うものか、あるいは伝統芸の保存家(フリー・ジャズ伝統保存協会!)に過ぎない。緊密な交感を通じて、フライトしながら軌道を自在に修正していくアンサンブルの生成を、今日を生き延び明日に向かって歩み続ける「新たなジャズ」の本質と見なす理由がここにある。こうした回路を経ることによって、ジャズの可能性は「ジャズにちっとも似ていないジャズ」へと開かれていくだろう。今回話題となったズレや揺らぎへの着目/探求であるならば、新たな超絶技巧を駆使してズレや揺らぎを完璧にコントロールしながらヴァリエーションを展開していく仕方と、聴こえるか聴こえないかぎりぎの微少音量、輪郭の曖昧化、レイヤーの希薄化等により、そうしたサウンド・コントロールの重力圏を離脱して、もはや手の届かない向こう岸で生じるサウンドの自己変容を凝視し、これを追いかける仕方と。個人的には後者の方向性によりスリリングな可能性と、フリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディングとの通底を感じるところだ。
 そう言えば多田はEric Thielemansの演奏に「音楽を聴くのとは違う構えで、耳が音を追いかけてしまう」と語っていた。糸が切れ風に弄ばれる赤い風船を、やはり頬を真っ赤にしながら疲れを知らず追いかける子どもの姿。
タダマス14-3


4.「世界音楽」としてのジャズからのとらえ直し
 私には『Jazz The New Chapter』のとらえ方や、ヒップホップの結びつきにジャズの転機や将来可能性を見出すやり方は、「ジャズという記号」の転生、すなわちリユース/リサイクル可能性を問うもののように思われる。そこではジャズは「世界音楽」ではなく、依然としてアフリカン・アメリカン文化に出自を持つ「ブラック・ミュージック」のファミリーの欠くことのできない一員なのだ。それはそれで構わないとも思う。私自身のジャズのとらえ方が、この国のコアなジャズ・ファンにとっては到底あり得ない、許し難いほど黒人音楽とのつながりに重きを置かないものである特異性も、自分なりに理解しているつもりだ。
 だが、ブラック・ミュージックに軸足を置いたスタイル変遷史としての「ジャズ史」が行き詰まっていることを思えば、「始まりとしての『ブラック・ミュージック』としてのジャズ」と「現在の帰結としての『世界音楽』としてのジャズ」の比重配分を逆転した、「反転したジャズ史」を思い描くことは可能であるし、また、必要でもあるだろう。たとえば『Jazz The New Chapter』の巻末にオマケのように添えられた「The Newest Map of World Jazz」を拡充して主軸に据え、黒人性の顕著な噴出を時代的・地域的な特質としてピックアップする構成が考えられる。たとえばHorace Tapscottや彼の率いたPan-African Peoples Arkestraは、Beaver HarrisらによるThe 360 Degree Music ExperiencesやLuther Thomasを担ぎ出したCharles Bobo Shawらの動き、Juma SultanのAboriginal Music SocietyやThe Pyramids等のIdris Ackamoor周辺の達成等を横断的に結びつけ、さらにSun Ra ArkestraやPhilip Cohranらの営みに遡る一方で、現在まで連なるAnthony Braxton, Leo Smith, Henry Threadgill, George Lewisらの試みを別のかたちの発露としてきちんと押さえていくといったような。
 こうした見方はかつて竹田賢一が自ら作業課題として掲げていた見方に、あからさまに影響/触発されている(笑)。こうした布置の中でこそ、すでになかったことにされてしまった感のあるロフト・ジャズ・シーンの再検証・再評価や、『Love Cry』以降の後期Albert Aylerの再評価も、単にマニアックなディスコグラフィ検証等の「学術的」な研究よりも、はるかにアクチュアルなものとなり得るように思われるのだ。「Wynton Marsalis以降のジャズ史が描けない」というのは、フリー・ジャズによる切断を「新伝承派」というフィクションで糊塗し、ロフト・ジャズ・シーンにおいて、あるいはヨーロッパの即興演奏シーンにおいて進められたポスト・フリーの探求を一顧だにしないからではないか。たとえばECMレーベルの初期30作品は、こうしたポスト・フリーの空間の探求のカタログとでも言うべきものであり、そこにはDerek Bailey, Marion Brown, Anthony Braxton, Paul Bley, Alfred Harth, Barre Phillips, Paul Motian, Return To Forever, Circle等、驚くべきラインナップが名を連ねている。Manfred Eicherの「見者」としての幻視力に驚嘆するほかはない。先に述べた「拡充され主軸に据えられる『The Map of World Jazz』」の焦点のうち一つは、明らかにECMレーベルに据えられることとなるだろう。
タダマス14-4

2014年7月27日(日) 18:30〜21:30
於:四谷三丁目 綜合藝術茶房喫茶茶会記
益子博之、多田雅範、井谷享志
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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:19:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
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