■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

映画のために音を設計すること − フィルム・レヴュー『イーダ』  Designing Sounds for a Movie − Film Review for "Ida"
 妻に連れられてポーランド映画『イーダ』を観にイメージフォーラムへ。昼食の都合があって11時からの初回に。終わって出てくると12時30分から始まる次回上映入場待ちの人の列。これは初回を選んだのは正解だったかも。
 ネットで見ても好評が多い作品だが、それは主人公の少女の人生物語として。それとは少し異なる角度から眺めてみたい。とはいえストーリーには触れることになるので、以下、未見の方はネタバレ注意のこと。



 冒頭、モノクロの画面に作業に勤しむイーダの顔が映し出される。背後の壁面がしっとりとぼけている。真っ白や真っ黒を排した、乳白色から様々なグレーに至る明度の階調の柔らかな移り変わりが、人物の、事物の輪郭をくっきりと浮かび上がらせることをしない。光もまたまぶしさを抑え、遍く広がり、陰影を際ただせない。フェルメールにも似た室内絵画の静謐さが漂う。やがて修道女である彼女たちは作業を終えて、キリスト像を外へ運び出し、修道院の庭に設置するのだが、屋外に出てもモノクロームな階調の柔和さは変わることがない。明暗は注がれたコップの水をこぼすことなくなだらかに推移し、積もった雪とそこから覗く黒土も、それらがつくりだす幾何学的な文様を強調することがない。
 しかし、これと対照的に物音は耳を打つ。爆音にまでアンプリファイされたり、顕微鏡的に拡大されることはもちろんないし、イコライジングやモジュレーションを施されて、質感を誇張されることこそないのだが、画面に映し出される像との距離感からすると明らかに不釣り合いに大きな物音が響く。イーダが叔母と会うように院長から命ぜられる場面、行きたがらないイーダとの科白のやりとりが、それでも響きの穏やかさを保ち続けるのに対し、部屋を出ていこうとするイーダの靴音は絵画的調和を破って鳴り響く。あるいはイーダと同僚の修道女たちが荷造りを進める場面、旅行用トランクのベルトを締める際のシュルッ、シュッという音が室内に響き渡る。質素な食事を一同で黙して摂る際に、スープ皿に打ち付けられる金属のスプーンの喧噪。



 路面電車による移動。車両の走行音が流れる風景を伴奏する。この映画にはいわゆる「映画音楽」が用いられない。しかし、部屋でレコードがかけられれば音楽が流れ出す。自分の引き取りを拒んだ叔母のアパートを尋ねたイーダが、部屋に招き入れられる場面。しかも、別室には明らかに情事の後の男が帰り支度をしている。場面の緊張とは場違いな陳腐なポップ・ミュージックのレコードがかかっている。
 イーダは叔母から自身がユダヤ人であることを告げられ(彼女はそうとは知らずにカトリックの修道院で育った)、彼女と両親の墓探しの旅に出ることになる。叔母はクラシックのレコードをかけ、カー・ラジオから音楽を流し、ひっきりなしに煙草を灰にし続ける。
 彼女たちはイーダの両親の住んでいた一軒の家にたどり着く。現在の住民たちは過去にそこで暮らしていたユダヤ人たちについて触れようとしない。やがて彼女たちは、両親がユダヤ人狩りを避けていったんは森に匿われたものの、結局は隣人のポーランド人(非ユダヤ人)たちによって両親が殺されたことを知る。だが、そうした衝撃の事実を、検事(その後、判事に転ずる)という職業を通じてだろう、叔母はうすうす知っていたようだ。だが彼女もうすうすは知りながら直接向き合うことを避けてきた「息子もまたいっしょに殺された」という事実を突きつけられることになる。彼女はまだ幼い息子をイーダの母に預けていたのだ。


 例の家に現在住まう男が、イーダの両親たちを埋めた場所に案内すると申し出る。その代わり、自分たちをそっとしておいてくれと。森の中に深く入り込み、イーダと叔母が見詰める中、彼は土を掘り続ける。やがて目的のものが見つかる。
 叔母が息子の頭蓋骨を採りあげ、イーダもまた両親の遺骨を布に包む間、この映画唯一の「映画音楽」が束の間流れる。平坦に引き伸ばされたオルガンに似た音色が厳粛さを連れてくる。男はイーダになぜ自分は助かったのかと問われ、幼かったから、幼くてユダヤ人とわからなかったからと答える。男の子は肌が褐色で割礼を済ましていたと。彼女を神父に預けたのは自分だと。そして両親と叔母の息子を殺したのも。
 彼女たちは家族の墓地へ向かう。叔母が運転する車をずっと前方からとらえていたキャメラ(彼女たちの顔貌にフロントガラスを滑る景色の濃淡が映り込む美しさ)が、この時だけ後ろへと回り込み、彼女たちの後ろ姿をとらえる。一瞬だけ、先ほどの埋葬場所で流れた音色がフラッシュバックする。


 叔母とイーダは対照的に描かれ続ける。叔母の言うところの「あばずれと聖女」として。黒髪の叔母は常に(場違いな、空気を読まない)音楽、煙草、酒と共にあり、男を物色し、時には部屋に連れ込んで「これが人生だ」と。このまま信仰に一生を捧げようとするイーダに「まだ楽しみを知らないのに」と。対してイーダはグレーのベールに髪を、修道服に身を包み、ほとんどものを食べない。そんな彼女が道中ヒッチハイクで拾ったアルト吹きの青年のバンド演奏に惹かれる場面が興味深い。
 彼らは彼女たちが泊まるホテルのラウンジで演奏しており、イーダは叔母との食事の際に彼らのリハーサルを耳にすることになる。その後のナイトクラブ営業時に叔母に行こうと誘われるのだがイーダは興味を示さない。寝入ろうとする彼女の耳元に響くラウンジの喧噪。嫌悪の対象としての音楽。酔った叔母が戻った後、部屋を出た彼女は螺旋階段を立ち上ってくる音楽に惹かれ、降りていく。すでに客は去り、掃除婦だけが残るラウンジで、彼らは自分たちのためにクロージング・テーマを奏でている。静かな、だが先ほどまでとは打って変わった入魂の演奏。吹き終えた青年は聴いているイーダに気づき、コルトレーンの曲(「ネイマ」)だと告げる。
 その後に、彼女が鏡の前でベールを脱ぎ、髪を解く場面がある。イーダの母親のように美しい赤毛と叔母の賞賛する明るい髪が、「もう一人の彼女」として姿を現す。


 結局、旅は彼女たちに不可逆な変化をもたらすことになる。イーダは無言が支配し、食器の音だけが響く食事の時間に「思い出し笑い」をこらえきれない。「外」を知った証し。結局、本格的に修道女となるために必要な、その後の一生を信仰に捧げる誓いを立てずに避けてしまい、彼女は同僚二人の誓いを列の後ろから見守ることになる。一方、叔母は男を連れ込んだ翌朝、きちんと身を整え、大音量でモーツァルトのシンフォニーのレコードをかけてから、大きく開け放ったアパートの窓から飛び降りる。
 叔母の自殺でアパートに出向いた彼女はドレスに袖を通し、ハイヒールを試し、レコードをかけ、煙草を吸い、強い酒を壜からラッパ飲みする。そして叔母の葬式で再会したアルト吹きの青年と付き合い始める。ジャズ・クラブでのシリアスな演奏に聴衆の一人として耳を傾け、コルトレーン「エキノックス」のレコード(シングル盤なんて本当に存在するのだろうか?)でダンスする。ダンスしながらの睦み合いはベッドに場を移し続けられる。ここで「イーダは叔母に流れていた血に、『もう一人のイーダ』に目覚める」という安易な結末への不安が過る。だとすればダンス・シーンで止めておいた方がよかったな、その方が余韻が残ったのにと。
 だが、彼女は結婚して子どもをつくろうと言う青年が寝付いた後、これまで着ていたドレスではなく、ベールと修道服に身を包み、家を出て行く。ずんずんと脇目も振らず歩き続ける彼女の姿を前方から揺れながらキャメラがとらえ続けて「幕」となる。


 対向車がひっきりなしにすれ違う中、前方だけを見据えまなじりを決して歩き続けるラスト・シーンは、「修道院へ帰る」のではなく、「もう一人のイーダ」として生きるのでもなく、自力で第三の道へ歩み出した‥‥ととらえたい。修道院に帰るのだったら、バスや路面電車に乗ればいいのだから。
 このラスト・シーンも実は「現場の音」ではない、「映画音楽」が流れる。アルフレート・ブレンデルによるバッハ「われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」のピアノ演奏。
 だが、ここには伏線がある。これまで本作の演出は一貫して現場の物音を強調してきた。科白も音だが、それは強調されない。しかし、入院した老人から両親の最期について聴き取ろうとする時、老人の荒い息は強調される。同様にかけられるレコードやカー・ラジオからの音楽もまた強調される。「その場で生じる物音」として。だが、音楽についてはひとつだけ例外的な取り扱いが許されていた。後に続く場面の音を前の場面にかぶせる「ズリ上げ」を、音楽に関しては用いている箇所が幾つかあった。次の場面で映る車内のカー・ラジオの音楽が、その前の場面の最後で流れ、そのまま続くというように。これは本作の場合、特例的な措置と言える。
 だから、イーダの歩く姿にピアノの音が重ねられた時、すぐに場面が転換するに違いないと思った。これはまた「ズリ上げ」なのだと。しかし、予想に反して(裏切って)、彼女は歩き続ける。どこまでもどこまでも。これまで作品内で与えられたルールの及ばない新たに開かれた場所へ出て行くこと、それを観客に体感させるために、これまで特例措置の伏線を執拗に張り続けてきたのではないだろうか。

イーダの母が牛小屋のためにつくったステンドグラス

 そう考えるのには理由がある。一見、虚飾を排し、センセーショナルなギミックや特殊効果を使わず、ただシンプルに必要最小限の映像だけを連ねて制作されたかに見える本作は、そのさりげなさの裏に、いったん気がついてしまうと息苦しくなるほどの、緻密なコンポジションを敷き詰めているのだ。いわゆる「映画音楽」を使わないということは、すべて同時録音で済ますということでは必ずしもない。この作品で「その場」に流れる音の多くは、物音もレコードやラジオによる音楽も、多くのポスト・プロダクションを施されているように思われる。たとえば冒頭近くに示される叔母の仕事である法廷の場面。まるで虫の音のように空虚に拡散して室内一杯に響き渡っていた検事による陳述の声が、次第に収束して発話者と釣り合う輪郭を獲得し、意味を語りかけるように変化していく(ちょうど遠くからこちらに近づいてくる人物に、次第にキャメラのピントが合っていくように)。最後のスタッフ・クレジットでも、サウンドに関するポスト・プロダクションの担当スタッフが相当数いた。選曲に関しても、単に時代背景や聴き手である叔母のキャラクターを考慮するだけではなく、その音楽が流れる場面に対する「対位法的」な異化効果を入念に考え抜いたもののように思われる。ヴィム・ヴェンダースが『さすらい』で、リュディガー・フォーグラーにポータブル・プレーヤーでキンクスのシングルをかけさせたのとは違うのだ。
 同様に、モノクロによる階調のなだらかな移り変わり、輪郭や陰影の柔和さを室内でも屋外でも獲得するために、映像に関しても相当量のポスト・プロダクションを施しているように見受けられる。こちらもクレジットでは相当数のスタッフがいた。イーダの肌の大理石像のような「表情のない温かみ」はこうした努力の賜物であることだろう。

なぜか『午後の網目』のマヤ・デレンを思わせるカット

 音響と映像に係るポスト・プロダクションの可能性について書いたが、これまで見てきたように両者の方向性は、およそ正反対のものである。柔らかにけぶる明暗のなだらかな移行の連続性がもたらす調和の感覚により、映像が言わば破れることのない厚い皮膜を張り巡らすのに対し、音響が担うのはその都度その都度の不整合を力として、この皮膜を内側から大胆に食い破り、切り裂く動きにほかならない。映像+音響である映画を、両者を慣習的・制度的に曖昧に結びつけるのではなく、いったん切り離して、確信犯的に再結合すること。このゴダール的なテーマに対し、『イーダ』は見事な応答を示していると言えよう。
 ちなみに、映像の側に割り振られた調和的連続的皮膜を、カトリックの伝統や様々な歴史的矛盾を見てみぬふりをしながら引き継いだ戦後の共産主義体制に当てはめ、戦時中の対独協力によるユダヤ人虐待という歴史的スキャンダルを、皮膜を食い破る音響の力になぞらえることはもちろん可能だ。だが、それは数ある可能性のひとつに過ぎない。ユダヤ人問題の告発を作品のテーマ・メッセージととらえ、表象に関わる様々なヴァリエーションをそのための手段としてとらえる見方は、あまりに一面的で貧しいものだと思う。むしろ問いは開かれたまま、私たちの前に依然として横たわっているのだ。


『イーダ』 2013年 ポーランド
渋谷シアター・イメージフォーラム
公式ウェブサイト http://mermaidfilms.co.jp/ida/
日本版予告編※ https://www.youtube.com/watch?v=HEl1sE3nAUg
※音楽や日本語ナレーションを不用意にかぶせる愚を犯しているので注意のこと。
英語字幕版予告編* https://www.youtube.com/watch?v=oXhCaVqB0x0
*こちらも「映画音楽」はてんこ盛り。

スポンサーサイト


映画・TV | 00:45:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad