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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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森重靖宗ライヴ@喫茶茶会記 仮想レヴュー  An Imaginary Review for Yasumune Morishige Live at Kissa Sakaiki
 去る8月15日、綜合芸術茶房喫茶茶会記で森重靖宗による単独ライヴが行われた。すでに予定が入っていて(そりゃ何たってお盆ですから)、駆けつけられなかった私がFacebookに「ぜひ誰かレヴューを」と書き込んだところ、原田正夫がライヴの様子をとらえた写真を載せてくれた。それによると第1部がピアノによるインプロヴィゼーション、第2部がチェロによるインプロヴィゼーションだったとのこと。
 その後、原田からは演奏の印象を短く伝えるメッセージも届いた。「金曜日の茶会記、森重さんのソロ、良かったです。自分にとって森重さんの繰り出す音に、他の即興演奏家には無いある種の色気というか官能的な何かを感じてきたのですが、そういったところからさらに進み出た、乾いている訳ではなく、かといって、かつてのように肌にざわざわと染み入ってくるような濡れたかんじではない、そこにはかつてと少し違う『Morishige』がいました。写真撮らせてもらいましたが、ファインダーから森重さんを見つめながら、撮る事に集中しつつも、音を聴いて、何度もうんうんと頷きました。」
 それを読みながら、鮮明かつ的確にとらえるべき瞬間を写し取った写真を眺めていると、そこにピアノ弦の振動やチェロの筐体の軋みに揺り動かされた室内の空気の震えが浮かんでくるような気がした。もちろんそれは空想であり妄想に過ぎない。けれど、原田の写真に否応なく惹き付けられ掻き立てられる心の乱れのままに、これを仮想のレヴューに仕立ててみたら‥‥と思い至った次第。
 というわけで、以下の文章は、ライヴのその場に居合わせなかった者が、そこに出来した事態に想いを馳せながら綴ったものに過ぎない。


1.ピアノ・インプロヴィゼーション
 ピアノに向かい、静かに頭を垂れ、息を澄ます。まるで武芸者が呼吸を整えつつ間合いを計るように、次第に集中が高まり、感覚が研ぎ澄まされていくのがわかる。濁りが沈殿し上澄みが透き通るように、沈黙が磨きあげられ、ピアノの黒い筐体の回りに引き寄せられた闇が、その深さと広がりをいや増したような気がする。もう、こうしてどれくらい時間が経ったろうか。まだ、森重は音を放とうとしない。両手は拳に握られ腿の上に置かれたまま、ぴくりとも動かない。しかし、演奏はもうすでに始まっている。


 彼のピアノ演奏を以前に一度だけ聴いたことがある。その時のライヴ・レヴューを参考に引いておくとしよう。
 「道に迷った挙句、だいぶ遅れて会場に着き、そっとドアを開けると、男がピアノの前で頭を垂れていた。残り香のように漂う響き。男は眼を瞑ったまま鍵盤を押さえた指を離そうとしない。音が中空に吸い込まれると、鍵盤から生えた腕がおもむろに動き、少し離れた白鍵をゆっくりと底まで押し下げる。すっと立ち上がった音が、次第におぼろに響きへと解けていく間、男は白鍵を押さえた指で弦の響きを探っている。アップライト・ピアノのハンマーの構造から言って、そんなことは原理的に不可能なのだが、それでも男は弦の響きを指先で探るのを止めようとしない。ピアニストの身体で最もエロティックなのは、鍵盤と接する指の腹だとロラン・バルトは書いたが、男はさらに遠くを見ている。針金で金庫の鍵穴を探る錠前師を思わせる、全身が耳となったかのような集中/沈潜。弦の振動の減衰を確かめ、振動が乗り移った別の弦へとつながる白鍵へ指を運ぶ。こうした右手の井戸掘り人夫にも似た間歇的な彷徨に、時折、外からやってきた左手が、全く違った歩幅の足跡を割り込ませる。男はますます深く頭を垂れ、指先はそこに点字が彫り込まれているかのように鍵盤をさすらい、かそけき音の柱を建てていく。最初の硬質な輪郭が切れ切れとなり、希薄な響きへと移ろう中から、他の弦の共鳴が姿を現し、幾重にも解けながら溶け広がる。震災で倒壊した高架柱の亀裂から覗くねじ曲がった鉄筋のように。音の透明な内臓。」*
*レヴュー全文は次を参照。
 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-52.html

 音がぽつりぽつりと置かれていく。空間を一望の下にとらえるパースペクティヴが先行して存在し、そこに音をマッピングしていく仕方を彼は採らない。これは時間軸上でも同様で、放たれた音の後に「しかるべき間」を置いて、次の音を放つことを彼はしようとしない。鍵盤を押さえた指先から機械仕掛けのリレーが走り、ハンマーが弦を打ち付ける、その一瞬を彼は全身全霊を傾けてとらえようとする。指先は懸命に打弦の衝撃のフィードバックを、響板を通じてピアノ全体に広がる微かな震えを探ろうとする。衣服の上から脈を探り、身体全体に広がる経絡を隈無くスキャンして、身体の奥底に潜む病巣を「透視」的に触診する韓方医のように。さらに耳が、いや全身の皮膚を総毛立たせて、解けていく響きに身を浸し、それを味わい尽くそうとする。灯された炎は、それが燃え尽きるまで、ずっとずっと見詰められる。身じろぎどころか瞬きすらせずにずっと。そうした所作と感覚の集中が、結果として長い「間」をもたらす。だが、これまで見てきたように、音と音の間に仕切り板のように沈黙が挿入されるわけではない。連ねられているものを後から切り離すのではなく、それらは最初からひとつひとつ別の峰としてそびえ立っているのだ。

 ますます深くピアノに頭を垂れ、ついには鍵盤に額が着きそうになる。その時彼はピアノの筐体の冷ややかさを、鍵盤の火照りを、直接に肌で感じ取っていよう。いやたちのぼる匂いをすら。原田の写真がとらえているように、鍵盤に置かれた手が手刀の形をしている。掌を垂直に立て、鍵盤に振り下ろされた手は、指先を走らせて音を連ねることなど最初から考えてもいない。繰り出された手刀は鍵盤に深く食い込み、放たれた力動はピアノの筐体を垂直に貫いて、床面へ、大地へと至る。そこに独立峰が築かれる。もはやピアノを突き動かし、鳴らしているのは指先でも手でもない。彼の鋭く突き抜ける想いだけだ。念のピアノ。


 原田は当日の様子を次のように伝えてくれた。「ピアノでの演奏は福島さんの言うようにまさに「念のピアノ」のようでした。手で祈っているような写真がありますが、これは両手を手刀のようにして、右手と左手の間隔を10~15cmほどあけて鍵盤を打っているところです。こういう時、執拗なまでの繰り返しになりますが、不思議とミニマルというかんじはしなかったです。指を伸ばして手のひらと共に鍵盤を連打もしてました。音は徐々に小さくなり、最後はハンマーがピアノ線を叩くか叩かないくらいに弱く鍵盤を叩いてました。そういう時は鍵盤だけがパクパクと小さな音を立てるだけ。」

 日が昇り、日が沈み、また1日が繰り返される。しかし、今日は昨日とは違う1日であり、それが充実したものであれば、「繰り返し」の感覚は自然と薄れる。個別性や独自性、あるいは一回性が際立てば、それは繰り返しではなくなる。森重の打つ音のはらむ独立性・一回性が、あるいはこめられた念の強さが、ひとつひとつの音を個別の出来事として現出させ、「ミニマル」といった尺度の適用を遠ざけたのだろう。しかし「鍵盤がパクパクと小さな音を立てるだけ」とは凄まじい瞬間だ。それは決して「弱音の限界」といったセンセーショナルなエクストリミズムに基づくものではなく、また、単なる奇をてらったパフォーマンスでもない。スチールのフレームに鋼線をぎりぎりと張り巡らした「ピアノ」という巨大な機械仕掛けを作動させることに費やされていた念が、そうした相殺を逃れ、ぶわっと噴き上がりたちこめる瞬間。今わの際の唇がぱくぱくと動くばかりで音にならない声と同じく、そこには凄まじいばかりの念が宿っている。


2.チェロ・インプロヴィゼーション
 チェロを抱え、弓をあてがう構えがすでに、部屋の空気を引き絞り、沈黙をぴりぴりと肌に痛いほどに励起する。この覚醒した(強制的・強迫的に目覚めさせられた)耳の視野に、ざらざらとしたマチエールを浮かび上がらせる沈黙をキャンヴァスとして、彼の演奏は進められる。


 たとえばCD『fukashigi』に収められたかつての演奏では、鋭く閃く弓がチェロの楽器としての輪郭を切り裂き、冷たい血潮の如く噴き上がる音が聴き手の耳を問答無用したたかに打ちのめし、そのまま彼方へと駆け抜けていく。そこでは射出された音の孤独な軌跡が、がらんとした空間の冷ややかさを照らし出していた。
 それに比べると最近の演奏は、あまりに「チェロ(の弦)を弾かない」のではないかと思わずにはいられない。はたはたと舞う指先がチェロの躯体の表面をたどり、弓もまた躯体の辺やブリッジ、エンドピンに当てられ、微かな軋みをたてる。複雑な発音機構を持つ「機械仕掛け」たるピアノにあっては、「間接性の戦略」(意外にも森重は内部奏法もプリペアドも行わず、ピアノ弦に直接アクトしない)がむしろ楽器と対峙する「演奏する身体」を独自の「作法」で浮かび上がらせ、念を強めていたのに対し、共鳴体に剥き出しの弦を張り渡しただけのチェロにおいては、弦に直接アクトしないことが迂回/回避を思わせ、核心に踏み込まないじれったさを感じたことも正直なくはなかった。それゆえにこそ、橋爪亮督、中村真とのトリオによりコンポジションすら演奏したtactile sounds vol.14で、新たな扉を開いたことに快哉を叫んだのだった(※)。
※この演奏については、次のレヴューを参照のこと。
 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-286.html

 実はtactile sounds vol.14の後、同じく喫茶茶会記で行われた「音ほぐし」第14回で森重のチェロ演奏(ソロ・インプロヴィゼーション)を聴いている。演奏はもちろん悪くなかった。しかし、新たに開かれた扉の向こうの世界を伺うことはできなかった。ひたひたとチェロの胴を洗う物音は、わずかに彼の手元だけを照らし出す。それを覗き込みながら、いささか世界が閉じているのではないかと思わずにはいられなかった。この時は他の出演者たちの演奏に納得がいかず、レヴューを書くには至らなかったのだが、そのことは覚えている。
 チェロやコントラバスで弦を弾かずに演奏すること自体は、フリー・インプロヴィゼーションの世界では決して珍しいことではない。ただ、通常の使い方はあくまで「変化球」であって、それを主体に音世界を構築する者は少ない。そうした数少ない存在に英国のコントラバス奏者Barry Guyがいる。彼は体型的には、Barre PhillipsやTom Coraのような身体が細くて手足が長い「ガガンボ」型ではなく、頭が大きく手足が短い「ずんぐりむっくり」型なのだが、人並みはずれた身体の柔軟さゆえか、楽器のどこへでもすっと手が届く。これは以前にライヴを見て驚かされた点だ。彼はその鍛え抜かれた手練手管をもって、楽器のありとあらゆる細部を撫で回し、「女体」から自在に吐息やあえぎ声を引き出してみせる。「急所」を知り尽くした色事師のように。Guyのそうした華やかなプレゼンテーションに比べると、森重の「演奏」はより秘めやかで、あくまでも声を押し殺した中、気配だけを縫って進められる。まるで視覚を封じることによって皮膚感覚を研ぎ澄ませていくように。だが、そうした暗がりでの粘膜の睦み合いに深く深く落ちていくことは、果たして良いことなのだろうか。私には森重の演奏が「洗練」の罠にはまっているように感じられた。

 原田はこう書いている。「確かに、森重さんのチェロ演奏、ボーイングで奏でるのが減ってきていますね。茶会記でのチェロのソロはかつてに比べれば「奏で」てはいなかったのですが、かといって「物音・具体音」的でもなかったです。少しリヴァーブをかけていたのですが、エフェクトはそれだけだったのに、低音をループさせて高音を重ねているような弾き方をしたり、集団即興をしている時より「響き」を重視しているところがありました。」

 原田の撮影した写真を見ると、弓を構えた姿の静謐さはピアノ演奏に通じるものがあるが、次の瞬間、身体がぐいっと動いている。重心が動き、輪郭が乱れ、軸が揺らいで、身体が流れ出し、視界から掻き消える。まるで「カチッ」と奥歯を鳴らして「加速装置」(石森章太郎『サイボーグ009』参照)のスイッチを入れたように。この身を躍らせて、急な流れに身を投じていく姿は、「新たに開かれた扉」の向こう側の景色を予感させてくれる。いささか語義矛盾となるが、森重は自らの演奏に禁欲的なまでに貪欲な男だ。ひととき囚われていた閉域を鮮やかに切り裂き、軽やかに蹴立てて、扉の向こうへと走り抜けていく彼に、次回こそは会いに行こう。


 なお、今回のライヴ会場では、彼の参加した新譜が販売されていたとのこと。これまで何度となく共演を重ねてきた相性のよいユーグ・ヴァンサンとのデュオ。このリリースが森重の新たなステップを確固たるものとすることを期待したい。

Hugues Vincent / Yasumune Morishige "Fragment"
improvising beings ib28
試聴:https://julienpalomo.bandcamp.com/track/fragment-i
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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 17:43:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
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