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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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アンドレア・チェンタッツォ ライヴ・イン・ジャパン  Review for Andrea Centazzo Live in Japan
 鳥取空港を定刻通り離陸したANA298便は到着予定時刻に10分ほど遅れて羽田空港に着陸した。たぶん空港の外れの滑走路が割り当てられているのだろう。機体はゲートまで延々と空港内を走行し、さらに接続したゲートから空港出口まで動く歩道が配置されているとは言え、1km近く歩かされたような気がする。京浜急行に乗ると、今度は各線の遅延情報が表示されている。原因欄にはearthquakeと。だから会場最寄りの明大前駅に20時30分に着けたのは幸運だったと言うべきだろう。20時の開演にはもともと間に合うはずがなかったのだから。


 受付担当の女性に案内されて入口の重い扉を開けると、予想外の大音量が噴き出してきた。前半のトリオ演奏は(何度目かの)クライマックスを迎えているようだった。近くに残されていた唯一の空席に身体を押し込む。眼の前の秋山徹次はエレクトリック・ギターから間断なくノイジーなサウンドを射出している。中央に陣取ったアンドレア・チェンタッツォは、ドラム・パッドからけたたましい電子音のパルスを叩き出している。反対側の壁際に腰掛けた石川高も携えた笙に懸命に息を吹き込んでいるようだが、サウンドの奔流に呑み込まれてしまって、どれが彼の音だかわからない。

 一転して静かな視界が開け、吹き切って進む笙の響きの輪郭がくっきりと浮かび上がる。チェンタッツォはドラム・セットの各部を点検するようにカタカタと鳴らし、スキンを擦るが、小音量ながら先ほどまでの破裂的な粒立ちを失わない。秋山が両者を取り結ぶように、繊細な爪弾きとブーストされたノイズを交互に繰り出し、さらにリヴァーブをかけてまるでオブラートで包んだように輪郭を曖昧にしたリフレインと、そうしたもやつきを鋭く切り裂くサステインの往還へと移行していく。胴のない打面だけの2バス、やはり深さのない打面だけの幾つものタム、4枚のシンバルを重ねたツリーが3本。ツアーのための移動用とは言え大掛かりなドラム・セットを改めてしげしげと眺めていると、キックを入れたトライバルなビートが急に噴出して演奏を押し流していく。と同時にチェンタッツォは手元にあった小シンバルを弄び、タムにランダムに打ち付けて、スクエアなビートを濁らせ、撹乱し、傷つけることを忘れない。ここでは秋山とチェンタッツォがそれぞれ独立した展開を見せ、笙のゆるやかな呼吸とおおらかなうねりが両者を共に浸し、丁寧に縫い取って、一つの風景として成立させていた。

 それにしても、演奏状況の変転をクールに達観し、「無造作に演奏する」ことをモットーにしている感のあった秋山が、これほど「動かされる」とは思わなかった。ギターの弦にせわしなくアクトするだけでなく、視線を上げることなく絶えずエフェクターのペダルを踏み替え、多彩なサウンドのスペクトルを端から端まで使って、しかも次々に切り替えていく姿は、「対応におおわらわ」であるように映った。原因は波状攻撃的に次々に押し寄せるチェンタッツォの突っ込みの鋭さにある。ドカドカと叩き込み、奔放にスキンを鳴り響かせるかと思えば、足元に転がした金属ボウルを突き回していたぶり、ドラムを指先や掌で叩いて手触りを楽しむ演奏は、振幅が大きいだけでなく、他の演奏者の領域に自在に越境してくる性格のものだ。最近の「即興演奏」と称するものにありがちな傾向、取り澄まして盛りつけられたオードヴルみたいに、各自が白い皿の上にあしらわれた「点景」にとどまり、混ざり合うことはおろか、影響を及ぼし合うこともなく、それぞれ個人的な作業に没頭するパーソナライズされたあり方とはおよそ異なる姿勢がそこにはあった。それは決してラウドであることを意味しない。小音量のシークェンスにあっても、チェンタッツォは「物音演奏」が陥りやすい盆栽的な自閉性にはまることなく、常にそこからズレ、逸脱していく。そこには共通して彼の卓越した「打つ力」が働いている。グルーヴやテクスチャーの構築/完成へと向かわず、それを切り裂いて、あるいは隙を突いて放たれる「場違いな一打」。それは音の密度が上がり、絶え間ない打撃がシーツ・オヴ・サウンドを織り上げる場面であっても、粒立ちのムラや傷、偏差、仕掛けられたランダムネスがそれを波立たせ、ほどいていく。胸のすくような大胆な連打と、にもかかわらず団子状に固まることもなければ積み重なることもなく、多方向に散乱していく音の軌跡は、往時のキム・デファン(金大煥)を私に思い起こさせた。

 その反面、チェンタッツォがもはやフリー・インプロヴィゼーションに過大な期待を抱いてはいないこともうかがえた。彼は演奏の展開をもっぱら場面の転換としてとらえているようだ。そのため、他の二人の演奏がある膠着/停滞に至ると、濃縮された音響が化学変化を起こして新たな生成に至る可能性を見守ることなく、それをすぐさま見限る傾向があった。たとえばギターと笙のかたちづくるドローンの新陳代謝が滞り、二人が抜け出せなくなった場面で、チェンタッツォは先立つ演奏で散らばった音具を片付け、集めた小シンバルをきちんと重ねて、悠然と次に向けて準備をしていたし、演奏の最後で音が消え、秋山と石川が楽器を抱え、次の一音をいつでも放つことのできる臨戦状態で、演奏意識をフェードアウトしていこうとしているところで、彼はとっくに演奏を終えて、独り「ニュートラル・コーナー」に戻り、テーブルから拾い上げたオモチャのラッパを「プー」と鳴らして、あからさまに終止符を打ってみせた。



 後半のチェンタッツォによるソロは、自身による近年のコンポジションが演奏された。冒頭の「Voices」では、マラカスを手に取って、それでタムを叩き、リフレインを織り上げていく。と言っても、スティーヴ・ライヒ的なミニマルなグルーヴが生じるわけではない。彼はグルーヴの円環を回さず、「フレーズ」を叩き切って進む。マラカスのジャラジャラした付随的な音響やマイクロフォンで拾った音響に付加された残響も、グルーヴを脱構築する方向に作用している。しかし、これは導入部であって、フェルトの付いたスティックに持ち替えると皮の鳴る響きが前景化して、リズムと音色のテクスチャーの位相が揃ってくる。エレクトリック・パッドへの一打をトリガーとしてコーラスを思わせる電子音が鳴り響き、めまぐるしい連打による高揚と対比される。トリガーにより放たれるサウンド・ファイルはやがて荘厳な男声合唱、あるいは女声合唱へと移り変わり、その陰影深い交錯を、シンバルを持続的に叩き続ける雷鳴に似た響きが襲い、ついには叩きまくられたシンバルが集中豪雨のように真っ白に耳の視界を閉ざす。
 アフリカ的なものにインスパイアされたと言う、続く「Five Blocks Away」では小型のムビラ(親指ピアノ)が電気増幅され、最初は木部への打撃が鳴り響き、続いてキーへの強烈なアタックが歪んだ音響を轟かせ、PCから再生される透明なリフレインとの鮮やかな対比をかたちづくる。また3曲目「Mantra」ではPCから再生される男声の詠唱(チベット仏教のヴォイスだろうか)の間を空けた断続的な繰り返しと、ヴァリハを思わせるしなやかな植物質のリフレインを、シンバルの連打が覆い尽くしていく。

 こうして7曲ほどが披露されたのだが、一部を除き、いずれも非西洋音楽(民族音楽)から採集したサンプルをPCから再生し、それとドラム演奏を組み合わせるものだった。彼の態度からは、引用したサウンド素材に対するリスペクトが常に感じられたことは確かで、これを帝国主義的な文化搾取だなどと言うつもりは毛頭ない。エキゾティシズムを巧みに活用しながら、ポリティカル・コレクトネスを確保し、コンサート・マナーとしてのヴィルトゥオージテも欠くことがない点で、たとえば文化庁メディア芸術祭参加のホール・プログラムとして好評を博すことは疑いない。それをどうしても食い足りなく思ってしまうのは、「フリー」に囚われた私の業のためなのだろうか。
 スキンヘッドに黒ぶち眼鏡、堂々たる体躯をアジア的な黒衣に包んで(その姿は子どもの頃によく観た英国の特撮TVドラマ『サンダーバード』に登場する、変装の得意な悪役ザ・フッドを思わせる)、演奏が終わるごとに胸の前で合掌して礼を尽くす彼の姿を見詰めながら、私は眼の前で繰り広げられている音楽とAdiemusの作品との違いについて、頭の隅でぼんやり考えていた。確かに奔放に叩きまくられる打楽器のサウンドは、聴き流せる類いのものではなく、聴き手を金縛りにし圧倒する強度に満ちている。また、先に見たように、「打つ」ことへの集中や、サウンドの散乱への配慮が随所に見られ、演奏の只中に口を開ける「即興的瞬間」への対応も図られている。しかし、その一方で、演奏はサウンドを選定し配置したコンポジションの時点で完結しており、ここで示されるランダムネスの導入をはじめとする「即興的配慮」とは、すべて演奏を「再現」ではなく、「ライヴ化」するための「おまじない」的なパフォーマティヴに過ぎないと、やはり思わざるを得ない。ここで彼はまず「作曲家」であり、次いで「作曲作品の忠実な解釈者」であるにほかなるまい。
 コンポジションの演奏を終え、鳴り止まぬ拍手に彼は前半と同様のトリオによるアンコールで応えたが、2階に上がっていて、呼ばれて慌てて降りてきた秋山のセッティングが充分整わぬうちに始められた演奏は、それでも充分興味深い浮遊感覚に満ちたものだったが、チェンタッツォはこのセットを同じ一つの繰り返しだけで押し通した。そして、秋山と石川の交感の成立/不成立にかかわらず、次第にフェードアウトし、自身がこれ以上小さな音量で演奏できない地点に立ち至ったところで演奏を終了した。この時彼はコンポーザー感覚をリセットしないまま演奏に臨んでいたのだろう。

 こうした事態は予測できたことだったかもしれない。前回の掲載で紹介した彼の1985年の作品『Tiare』は、彼の比較的初期のコンポジションなのだが、もともと映像を伴う作品として制作されていて、それを幸いにもウェブ上で観ることができる(※)。音だけを聴いていると多数の打楽器や電子音、フィールドレコーディング素材等で構成されたサウンド・レイヤーが敷き重ねられ、あるいはズレ、あるいは多方向に散乱していく様が聴き取れるのだが、映像はむしろそうしたズレや散乱を調停し、収束させる「枠付け」として作用する。つまり、映像とセットで体験すると、演奏の中に口を開けている「即興的瞬間」が埋め合わされ、全体としてより「ウェルメイド」感が強くなってしまうのだ。響きの多彩さもあり、非常に興味深く味わうことができる作品なので、これはぜひ映像の有無を切り替えながら、各自体験してみていただきたい。
※https://www.youtube.com/watch?v=GMl4j-R0CGY

 前々回の掲載で、私は彼の『Indian Tapes』における達成を高く評価した。その中で、この作品がインディアン音楽に直接影響されたものでも、素材を引用して構成されたものでもなく、むしろ幼時からの彼の憧れの投影であり、言わば「見果てぬ夢」であることを指摘した。そして、もし可能ならば、その先にあったはずのものを今回の来日で目撃したいと望んだが、その願いは果たせなかった。
 象徴的だったのは、後半のコンポジション演奏の最後に演奏されたのが、まさにインディアン音楽にインスパイアされた作品だったことである。そこではインディアンの「戦いの太鼓」を思わせるリズムが演奏され、インディアンのチャント(詠唱)の断片が音素材として直接引用されていた。演奏は「聖なる声」のまわりを巡りながら、グルーヴを高揚させていった。かつての「見果てぬ夢」は別の形で現実の中にすでに取り込まれていた。

 最後にひとつ付け加えておきたい。コンポジション演奏の最後から2番目の曲は、エアー・シンセをフィーチャーしたもので、一連のコンポジション演奏の中で、最も不確定性やコントロール不能性が高く、演奏も遊戯的な喜悦に満ちたものだった。演奏後に彼が述べた曲名は「私がロバート・ムーグに会った日」だった。おそらくは初めてシンセサイザーに触れた際の、童心に帰ったような新鮮な驚きと無垢な喜びをベースにした作品なのだろう。そうした記憶や夢想を突き抜けて走る線がコンポジションの位相にも存在している以上、いつか『Indian Tapes』の見果てぬ先が、音響化される日が来るかもしれないと思う‥‥思いたい。私は大層あきらめが悪いのだ。

2014年9月16日(火)
明大前キッドアイラック・アート・ホール
秋山徹次(guitar)
石川高(笙)
アンドレア・チェンタッツォ(drums,electronics)

写真は小川敦生氏、橋本孝之氏のFacebookページから転載させていただきました。


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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:14:16 | トラックバック(0) | コメント(0)
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