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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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場の濃密さに招き寄せられた者たち − 喫茶茶会記グループ展『迷宮のエルドラド』レヴュー  The Attracted by the Dense Place − Review for Kissa Sakaiki Group Exhibition "El Dorado in the Labyrinth"
 11月10日の『松籟夜話』第一回の準備や11月17日が締め切りだった少し長めの依頼原稿のためのリサーチと執筆もあって、それ以前に観た一連のライヴについて報告できずに来てしまった。時間的に随分遡ることとなるが、それらについて順次レヴューしていきたい。まずは11月8・9日に開催された喫茶茶会記グループ展『迷宮のエルドラド』について。
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 谷中にあるEthnorth Gallery(いよいよ12月3日に販売開始されるstilllifeの新譜のリリース元であるNature Blissの経営する雑貨店)に立ち寄った際に周囲を散策し、千駄木にも立ち寄った。フライヤーの案内図を頼りに、その時にも歩いた千駄木の通りの行列のできる漬け物屋を過ぎた左側に、立て看板が出ていなかったら間違いなく行き過ぎてしまうだろう小さな路地があった。ビルとビルの合間のさらに奥。「迷宮のエルドラド」とはこのことかと合点が行く。ヨルダンはペトラ遺跡の見立てか。
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 ドアを開けると、もう演奏が始まりかけている。とりあえず板張りにリノリウムの敷かれた床に腰を下ろしてあたりを見回す。横に細長い空間の三方の白壁にイラストや写真が展示されている。見上げると梁が剥き出しの吹き抜け。位置が不自然だから、おそらくはもともとあった部屋の床を抜いて、吹き抜けにしてしまったのだろう。その真下にサンドバッグが鋳鉄のフレームに吊るされ、オブジェとして設えられている。壁際のパイプ椅子には、髪を後ろで束ねた高岡大祐が黒尽くめの巨体を押し込み、チューバを抱えている。
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 高岡がやおらチューバのマウスピースを外して、楽器本体に鋭く息を吹き込む。キーには触れようともしない。加速され粒子状になった息が吐き出され、互いに衝突し、静かな、だが激しい軋轢を生み出す。一瞬で張り詰めた空気に、中空に突き出された脚の異様さが応える。足指の引き攣った動きと踏み板の軋み。壁の中の階段の途中から室内に脚を投げ出しているのだ。やがて隙間から這い出るようにして、トマツタカヒロの身体が姿を現す。銀灰色の蓬髪に墨で汚された白い稽古着(空手着あるいは柔道着)。チューバの息音にホーミー的な倍音が乗る。トマツの身体の減速した、ことさらにゆっくりとした動き。しかし反り返る足指から足裏の、いや全身に張り詰めた緊張が伝わる。チューバの吸い込む息の深さと吹き切る息の鋭さの対比。幾つもの層が重なり合う流れの変化。トマツがサンドバッグを揺らし、金具が軋みを上げる。唾が飛ぶような息によるパーカッシヴな打撃。トマツが四つん這いになり、高岡も立ち上がって歩き出す。
 チューバのホラ貝のような持続音を背景として、トマツの身体が屹立する。一見硬直して動かないようで、腹筋が浮き沈みし、足裏をナメクジのように這わせて前へとにじり進む。チューバが音色はホラ貝のまま音高が上下し、起床ラッパのような起伏を描くと、トマツの身体は突然床に倒れ込み、駆け出し、階段を駆け上がる。ホラ貝の輪郭が解け、再び息と風と管の鳴りが複層化した流体が姿を現す。2階から吹き抜けへと脚が突き出され、しばらく動いた後、トマツの身体が現われ、剥き出しの梁へと乗り出していく。
 低い持続音と指先で管を叩く音や足音の混合物。梁に頭を打ち付け、柱を叩き、シーッと鋭く吐かれる息。息の泡立ちが沸騰し、管が薬鑵のように鳴り出す。身体が梁からぶら下がり、懸垂したまま中空を走り、溺れるようにもがいたかと思うとドスンと床に降り立って、今度は天井から吊るされたロープにぶら下がって大きく揺すり始める。吹き鳴らされるマウスピース。ロープで宙吊りのままもがく身体。カメラマンのように身体ににじり寄り、息を切り刻んで放ち続けるチューバ。
 身体が床に倒れ込み、そのまま座り込む。向かい合って胡座をかく身体とチューバ。循環呼吸による持続音。立ち上がった身体が客席を睨みつけるや、いきなりサンドバッグに強烈な蹴りを見舞う。連発するキックとパンチ。フレーズの断片、舌打ち、息の爆発、うめき声。ここで身体の鼓動とチューバの呼吸は、アクションの連鎖の中で、連結された機械のようにひとつになっている。サンドバッグに抱きついた身体の描き出す交合のイメージ。ロープにぶら下がって自転する身体と持続音をゆったりと巡らせるチューバ。
 フレームから外され馬乗りで締め付けられ叩きのめされるサンドバッグ。持続音の中で複数の層の軋轢が高まり、泡立ちながら、さらに音が強められていく。サンドバッグを頭上に持ち上げ、その位置で掲げたまま這い進む足裏の筋肉の蠕動。階段に駆け込み、逆さまに転落して床を這う身体。チューバの息が細くなり、ほとんど虫の息となって、やがて止んでしまう。身体はひれ伏したまま床に額を打ち付けていたが、そのうち動かなくなる。
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 終演後に高岡は「格闘家」相手に何をしていいかわからなかったから、とにかく相手を見たと話していた。演奏がどう変化しようとも、それを背景に見立てて変わらずに踊ってしまうダンサーの動きとの違いについても。彼の言う通り、主演/伴奏、あるいは前景/後景といった階層差なしの、同一平面上というか、距離のない近接セッションとなったように思う。だがそれは一昔前の「肉弾相打つ格闘技セッション」というような、ただただアクションの浪費を競い合うポトラッチではない。高岡の息の打撃はトマツの皮膚に食い込み、体幹を突き抜けて、彼の身体を突き動かしていたし、一方、トマツの筋肉のうねりは、高岡の響きを織り成す各層の配分を触発し、かき乱していた。息音を多用した高岡の繊細さは誰の眼にも明らかだろうが、階段や梁、ロープやサンドバッグを相手にしたトマツが同じくらいに繊細であったことが、その一見派手な動きゆえに見逃されてしまうことを危惧する。ミクロな次元への注視が両者に存在するのでなければ、このような緊密な相互触発はそもそも成り立ち得ない。
 やはり終演後にトマツは、精神障害者へのデイサービスに関わることにより、彼らの身体が介護者の態度を敏感に感じ取って驚くべき変化を示すことを知ったと話してくれた。だから肉「体」ではなく、肉「態」なのだと。よく舞踏やダンスでは「ただそこにいる」ことが一番難しいと言って、「ごろんとした身体」であることに至上の価値を置く。だがそれは到達不可能な「物自身」ならぬ「身体自身」を彼岸に据えた、単なるレトリックではないのか。私たちが見るのは、常に現れとしての身体である。だとすれば一個の身体としての輪郭を強調するよりも、それが内包する流動性を様態のスペクトルとして解き放つべきではないのか。トマツの言う「肉態」とは、まさにそうした身体のさまざまな様態の次元を指すように私は思う。それは例えば、動作の意味合いから切り離されて反り返る足指であり、板張りの床の木目の凹凸をまざまざと伝える足裏の蠕動であり、あるいはマウスピースを外したチューバに吹き込まれた息の粒子化である。

 二人と話した後、アフターアワーズのざわめきの中で展示を見て回る。右辺を占める玉川麻衣の細密に描き込まれたペン画の数々。渦巻く雲の中で対峙する竜虎、あるいは「濡れ女」と題された水蛇様の人魚(ウンディーネ?)といった幻想的なモチーフが眼を惹く。それら古い物語の力を秘めた形象の喚起する伝奇的想像力を、グラフィックな画面の強度へと高めるために、空間を埋め尽くす描線や筆触が必要とされるのだろうか。どうも私には話が逆のように思われた。というのは、もしこれら形象とその配置に力点が置かれているのであれば、画面の四隅は背景のそのまた辺境に過ぎない。しかし彼女の筆致は、まさに画面の四隅を張り渡す揺るぎないテンションの構築へと向かっているように感じられた。たとえば木立の中で見上げた空を覆い尽くす枝の重なり。これが挿絵的な心象風景であるとすれば、切れ目から覗く空に焦点は合わされるはずだ。しかし彼女がかたちづくる画面は、到底、中央の空白のまわりに構築されたようには見えない。むしろ四隅、四辺から始め、空間を埋め尽くさんとする力が必然的に起伏や傾斜、褶曲を生じ、どうしても平面には収まり切らぬゆえに、中央部にピースのはまらぬ「セザンヌの塗り残し」が生み出されることとなった‥‥そんな風なのだ。それゆえ中央部の空隙は「ぽっかり」とは開けておらず、緊張にびりぴりと震えている。このように彼女の作品には、周辺から中心へと襲いかかる侵犯の力とそれを平面へと押さえ込む圧力との軋轢が、ごうごうと鳴り響いている。先に見た竜虎図の場合、そうした軋轢が雲の渦の強度へと昇華され、また平面化の圧力がもたらす奥行きのなさも、伝統的な構図のベタな(フラットな)広がりへと回収される。しかし、白狼の群れを描いた一枚では、そうした奥行きのなさは画面に息苦しさをもたらす。ここで空間は圧縮され、奥行きは事物の重ね合わせの順序としてしか現れてこない。風に吹かれた草のざわめきが結界の中に充満し、衝突して耳を聾する響きを立てている。
 彼女はまた先に述べたトマツと高岡によるライヴのクロッキーを描いていて、二人の動きに合わせてすっすっと足を運び、時には大股開いて段差に足を掛け踏みしめる姿は、トラとライオンを操る猛獣使いのように素晴らしく魅力的だったが、ライヴ・レヴューでは二人の交感だけにフォーカスしたため、はじかれてしまった次第。彼女はこの時のクロッキーをもとに鬼の絵を描こうとしているらしい。
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 森重靖宗が写真を撮ることは知っていたが、彼のホームページで作品を見かけたぐらいで、こうして展示を見るのは初めてのことだ。多くの作品が正方形にトリミングされて黒い台紙にマウントされており、画面の奥行きのなさ(フォーカスのずれが示す層の重なりはあるにしても)とも相俟って、作品の縁の部分での切断感覚、視界を断ち切られた痛みが鳴り響いてくる。画題は恐ろしく雑多であり、日常の様々な瞬間が事物の配列として並べられているのだが、先に述べた切断感覚、切り取られた痛みとともに示されることにより、それぞれが属していた生活の局面、行動や環境の文脈へは立ち戻り難い。すなわち、そうした「場面」の差異は消去還元され、画面からは残された「質感」が立ち上ってくることになる。キャメラの視線は必ずしも事物の表面にフォーカスしていない。高い解像度で表面の質感のみをスキャンすることは目指されていないのだ。それゆえ触発されるのは「手触り」といった触覚ではなく、もうちょっと感覚の深いところ、温度感や重みのあたりとなる。レンズにとらえられた汚れ、ほつれ、もつれ、ざわめき、反射、腐食等を通じて、ふだん視覚により刺激を受けることの少ない感覚部位が触発励起され、微妙な質感の違いへの感覚が深められていくのを感じる。
 「今回初めてこうして展示をさせてもらって思ったんですけど、写真を撮ること自体よりも、撮った写真をあれこれ選んで並べ方を考える方が好きかもしれないですね」と森重はいつものようにはにかみながら話してくれた。それを聞いてふと閃いたような気がした。
 最近の森重の演奏を聴いて、いわゆる「フレーズ」を弾かないだけでなく、弦にすらほとんど触れず、楽器の各部を鳴らし分けることだけに、ますます向かっているように感じていた。それはかつてこの国で「音響派」と呼ばれた者たちが陥った素材主義 − すなわち正弦波のみとか、1時間に3つだけの音とか素材を選択しさえすれば、それだけで演奏の水準が一定程度確保されると思い込んでしまうこと − とは明らかに異なるにせよ、いささか窮屈なまでに禁欲的で、私は教条主義的な危うさすら感じていた。しかし、そうした素材の限定は「前提」ではなく、インプロヴィゼーションにおいて強制されてくる、せかせかと慌ただしく加速され切り刻まれる時間/空間のあり方に抗って、眼の前の一瞬一瞬ではなくより遠くを見詰め、長いスパン/レンジで事態の推移をとらえることの結果なのではないか。身体の反射的な反応によって音を出し、事態を回避してしまうのではなく、身体のより深くまで沈潜して音を汲み上げること。最近の彼の演奏の変化として、他の演奏者の変化にすぐに反応を示さず、まずはじっくりと耳を傾け、その間、自身が音を出さない/出せないことを恐れなくなってきているのには気づいていたのだが、これまで、それが先の変化とは私の中で結びつかないままでいた。
 そんな閃きを手短に述べて、チェロを演奏することと写真を撮ることが直接に線で結べるとは思わないが、「作曲」という狭い意味ではない「コンポジション」ということで、演奏と写真への姿勢は共通しているかもしれないと伝えると、今までそんな風に考えたことはなかったけれど、そう言われて何かもやもやがすっきりして、クリアになった気がすると彼は語った。
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 先の展示スペースからはみ出した一角を、ロープで封印して展示された、トマツ自ら言うところの「魔法陣インスタレーション」についても、その一見雑然と散らかった配置にかつての読売アンデパンダン的な破壊性、「非芸術」性ばかりを見てしまうとしたら、それはやはり一面的に過ぎるように思う。すべての画像はトマツによる様々な外界の事物の「写し」であり、それらを切り刻んで並べた空間は、なるほど確かに彼の脳内風景=濃密な個人史を示すものであるかもしれない。しかし、もう一歩踏み込めば、それが図像同士の対応関係や空間的照応関係を、強く意識したものであることが見えてくる。
 ここで私は美術史家(とだけでは言い尽くせないが)アビ・ヴァールブルクによる図像アトラス「ムネモシュネー」(記憶の女神の名だ)のことを思い浮かべている。黒い背景の上に並べられた、どこかから切り取られてきた図像群。レリーフ、彫刻、絵画‥‥ありとあらゆるところから収集された情念定型を示す身振りの数々。それらの間に幾重にも交錯しながら走る関係の線。「魔法陣インスタレーション」を封印したロープの蜘蛛の巣のような交錯は、壁に貼られた図像群の間に立体的に走る見えない関係性の線を象徴していよう。これもまたトマツにとって「肉態」の表れなのだろう。先に触れたように、高岡もトマツにダンス/舞踏的ではない何かを感じ取っていたが、こうした表れを見ると、それはシャーマン的な能力ではないかと思えてくる。ここで脳裏を掠めているのは、シンガポールで見たザイ・クーニンのことなのだが。
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 このようにして見ていくと、今回の催しが、この場所=千駄木STOODIOの濃密さに鋭敏に感応したものであることが見えてくる。ことさらにサイト・スペシフィックな演出が施されてこそいないが、出演者たちはみな、この空間に招き寄せられ、それにふさわしいアクションを(展示を含め)繰り広げていたように思われるのだ。文中述べたように、いずれの出演者とも今回が初の出会いであり、また、再びどこかで出会うことがあるならば、この空間の持つ意味合いも、よりはっきりと見えてくることだろう。そのような機会が訪れることを願いつつ、企画者である喫茶茶会記店主福地史人の視線の確かさを讃えることとしたい。

2014年11月9日
千駄木STOODIO
高岡大祐(tuba)
トマツタカヒロ(肉態表現)
玉川麻衣(ペン画)
森重靖宗(写真)
福地史人(企画)

写真は喫茶茶会記ホームページ、トマツタカヒロFacebookページから転載しました。

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:07:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
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