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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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沢井一恵ライヴ・イン・ロゴバ(ライヴ・レヴュー)
「アジアの絃~5つの類」 沢井一恵ライヴ・イン・ロゴバ

 輸入家具店ロゴバのショールームを活用したコンサート・シリーズ「平河町ミュージックス」第1回として、5月28日、沢井一恵の演奏による「アジアの絃~5つの類」が行われた。プログラムは次の通りで、古代の復元楽器から「現代楽器」まで5種類の楽器による構成となっている、。
 1.六段/八橋検校作曲(十三絃箏)
 2.畝火山/高橋悠治作曲(復元・五絃箏)
 3.神絃曲/三宅榛名作曲(復元・七絃箏)
 4.風がおもてで呼んでいる/高橋悠治作曲(琉球・三線)
 5.華になる/沢井忠夫作曲(十七絃箏)

 吹き抜けの高い天井と道路に面した2面に大きなガラスの開口部を持つ空間は、にもかかわらず布地の手触りを感じさせる壁紙や、あちらこちらに配されたアジア系生地の壁掛けや敷物のせいか冷たさを感じさせず、また全照明の明るさにも不思議とまぶしさを覚えない。沢井が奏する各楽器もまた、この空間のあちらこちらに配され(響きを考慮した結果だという。後に述べるように、部分的に張り出した2階のスペースまでもが利用された)、その結果、演奏は沢井が空間を経巡りながら、途中休憩をはさむことなく(移動する際に簡単な曲や楽器の説明はあったものの)一続きに進められた。プログラムのハイライトは、太い柱の前に設えられた十七絃箏に彼女が手をかざし、音が放たれるやいなや、重厚な音の柱がたちのぼった終曲「華になる」だとやはり言うべきだろうか。低音のグリッサンドが、強烈なクラスターが、強靭なドライヴにも凛とした響きの輪郭を揺るがすことなく、均質な層となって積み重なり、粒の揃った輝きを放つ様は、コンサート・フルグランドのピアノが鮮やかに弾ききられる様を眺めるようだった。もちろん、絃をたわめ、「さわり」を奏する箏はピアノとは全く異なる楽器だが、にもかかわらず、それが現代的なピアノ演奏に聞こえてしまうほど、それに先立つ演奏(特に最初の2曲)は、まさにいまここでしか聴くことのできない驚きを与えてくれたように思う。

 開演間際、数少ない空席に滑り込んだ私は、まず「六段」を、正座して十三絃箏を奏する沢井のほぼ正面で聴くこととなった。音が放たれ、余韻がたなびく。手の動きの後を音が追うにつれ、聴き知った曲が次第に姿を現していくかに思われた。しかし、むしろ眼前に浮かび上がったのは、ひとつひとつの音/響きの、聴いたことのないような裸の姿にほかならなかった。中空に一筆ですっと引かれたまっすぐな線。正弦波にも似た抽象的な響きは、旋律へともたれかからずに直立し、それぞれの音の質を保ったまま、やがて消えていく。私は沢井の動きを眼で追うのをやめ、響きに耳を澄ますことにした。旋律へとつなぎとめられない音。文字へと至らぬ筆の運び。高域の張り詰めた音との対比を通じて、その「硬質な輪郭」を演奏の特徴ととらえることも可能だろう。しかし、私をとらえたのは、むしろ、本来なら旋律をそのまま担うはずの、ストレス・フリーに弾かれた音たちの振る舞いだった。様々な色合いの和紙の帯がすうっと広げられ、端をにじむように漂わせながら、次第に色あせ湿気にくるくると丸まっていく様子。あるいは池に放たれた黒や金や緋や錦の鯉たちが、一瞬交錯し、また思い思いに離れ去っていく軌跡。それを旋律の解体、あるいは脱構築的な解釈と受け止めるのは、この音の涼やかな肌触りにふさわしくないように思われる。

 続く「畝火山」で彼女は2階に上がって演奏を始めた。私はちょうど彼女のほぼ「真下」あたりで演奏を聴くこととなった。ここでもCD「高橋悠治リアルタイム6 鳥のあそび」(フォンテック)で聴き知った高田和子の演奏とは、全く異なる響きが聞こえてきた。二人は共に木戸敏郎(国立劇場)が復元した楽器を用いているはずだが、CDに収められた音は、先の「ピアノ」のたとえで言えば、「ギター」のように聞こえる。それゆえ演奏は弾き語りのように、すなわち五絃箏が声の伴奏をしているように聞こえる。対して、この日の沢井の演奏では、五絃箏は手元で手繰る何物かの音と聞こえた。たとえば数珠やお手玉のような。その律動が手繰る指先を通じて身体に流れ込み、一方、放たれた響きはうっすらと手元を照らし出す。漏らされる息や声は、この律動に浸された身体から放たれたものではあるが、決して五絃箏の響きに伴奏/伴走されているわけではない(性交時の抽送の速度が、決してそれに浸された身体の漏らす息/声を伴奏することがないように)。
 手繰られる音は、そのかそけき響きのゆえか、呪具のたてる祭儀的な音とは聞こえず、むしろ童女か狂女の手遊びのように響く。低いつぶやきもまた呪文というより、たとえば幼子を亡くして気の触れた母親の繰り言のように聞こえてくる。こうして沢井の(シャーマニックな資質を存分に秘めた)身体を媒介としながら、放たれる2系列の音(手繰られる音と漏らされる息/声)は、共に聞こえるかどうかの微かな音量ながら、互いに互いを伴奏しないことによって、さらには別の物語的想像力をはらむことによって、シャーマニックな強度を共に高め、周囲のざわめきにも動じない独立した強度を獲得するに至る。実際、私の隣席の老婦人が咳き込み、取り出したハンカチーフを口元に当てて繰り返していた荒い呼吸さえも、私の耳には、この音楽にふさわしいもののように感じられた。
 五絃箏を立てて奏していたという沢井の姿を見られなかったことは、かえって幸運だったかもしれない。もし姿が見えたならば、先の独立した2系列はひとつに統合され、その分、豊かさと強度を減じてしまったのではないだろうか。作曲者である高橋悠治はこの作品について次のように述べている。「この楽器は音量がきわめて小さい。もともと夜の静寂のなかで、トランスにはいるための楽器なら、反復される開放絃の振動と無限につづく単調な拍をもつ音楽がそれにふさわしい」と。もしそうであるならば、それは人払いをした離れ屋で、あるいは人々が寝静まった後に人目を忍んで行われるのだろうから、隙間から覗き見るか、あるいは壁越しに聴き耳を立てるかしか、聴く手立てはないだろう。「床下」から姿を見ることなく聴き耳を立てるというのは、もしかすると最もふさわしい聴き方だったのではないだろうか。


沢井一恵さんの写真は平河町ミュージックスのウェブページから転載しました。
平河町ミュージックスURL
http://sites.google.com/site/hirakawachomusics/home



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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:41:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
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