■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

光と影は共に闇から生まれた − 『New Year Silence』ライヴ・レヴュー  Light and Shadow, Both Are Born from Dakness − Live Review for "New Year Silence"
1.うっど漫々 a.k.a. woodman「蝋燭の点火と明滅」
 ローソクのパフォーマンスは6年振りにやるんですが、これは別に「無音」というようなことではなくて、25年前くらいにタイはバンコクのパッポンっていう、新宿歌舞伎町みたいなところのゴーゴー・バーに行った時に、水着の女の子が音楽に合わせて踊ってるんですけど、よく停電があるんですね。音も明かりもパタッと消えてしまって、全くの暗闇になってしまう。僕たちは本当にびっくりしたんですが、現地の人たちは慣れたもので、何事もなかったようにローソクの明かりと、あとボンゴとか出てきて、歌を歌ってそのまま平然と続けられていく。そのうちに電気もつく‥‥みたいな。そういうことがひとつベースになっています。
 あと、ひとつお願いなんですが、暗闇の中でも、あるいはローソクの明かりでも眼を凝らせば、ああマッチ擦ってるとか、何をしているか見えてしまうと思います。あえてそうではなく、暗闇の中で眼をつぶってぼんやりと光を感じるみたいな、そういう風に見ていただけたらと思います。それでは始めます。

 まったくの暗闇の中、かさこそ、ぱりぱりと小さな音が続く。マッチ箱をいじり、テーブルの上に置かれたアルミホイルに触れているのだろうが、当然のことながらよくわからない。空調の音が浮かび、上階の足音が動き回る。しゅっと音がして光が上がり、前列の客のシルエットが浮かび、その向こうに演じているwoodmanの顔が見える。やや暗い黄色みを帯びた光がさらに明るくなる。試しに眼をつぶってみると、何もわからない。なので思わず前列の肩越しに演者の手元を覗いてしまう。すると彼の手元には最初テーブルの上に置かれていた、ガラスのコップ型のローソクのほかに、もう1本、小さなローソクが灯されていた。彼は小さなローソクを手に持つと、傾けて蝋をアルミホイルの上に垂らし(蝋が垂れる際に、光の雫が滴るように見えて美しい。実際には化学油脂製のローソクとのこと)、そこにまた別の小さなローソクを置くと、ローソクの火を移しに掛かり、3本目に火が点くと手に持ったローソクを振って、炎を消してしまう。ドアが開く音がして、盛大に衣擦れがする。遅れてきた客の姿は見えない。woodmanは火のついた小さなローソクを掲げ、入り口の方を伺うようにして、すぐに手に持ったローソクとテーブルに置かれたローソクを共に吹き消して、また元の真っ暗闇にしてしまう。客席に座っている客の立てる衣擦れ。椅子の軋み。くぐもった携帯電話のヴァイブ音。外を自動車が通り過ぎる音。がさがさ、ぱりぱり。しゅっとマッチの明かり。彼はしばらくマッチをそのまま手に持って火をたちのぼらせ、細長い炎が先に白く立ち上っていた煙を照らし出す。

 以下繰り返し。もちろん正確な反復が目指されるわけではない。時にマッチはローソクに火を点す前に吹き消され、あるいは手に持った点火済みのローソクを、テーブルに置かれたローソクの炎を吹き消した上に継ぎ足そうとして失敗し、倒して消してしまったり。アルミホイルを折り曲げて、火のついたローソクを包み込み、消してしまうというのもあった。しかし、終了までに繰り広げられたアクションをパターンとして取り出せば、せいぜいこんなものだ。それらの組合せをやり尽くすということでもない。「即興的」というよりは行き当たりばったりに、すべては進められる。

 終演後の後口上として彼は、6年前にスーパーデラックスで演じた際には「音楽」としてやったのだが、とても疲れてしまったので、今日はそうしなかった。家のある谷中から会場に向かう途中で根津の商店街を通るが、店に明るく明かりが点いていて、「夜にずいぶんとウソをつかせているなあ」と思った。今日は演じていて楽しかった‥と述べた。

 演者の意図を詮索するような、詮索することにより新たな価値を見出せるようなパフォーマンスではあるまい。暗闇で一人の男がローソクを点けたり消したりした、というだけのことだ。それ自体に何かもっともらしい意味がある訳ではない。しかし、それがもたらした結果は、そうした身も蓋もない説明からは想像もつかないほど、豊かなものとなり得る。音も光も同じ一連の身体動作によって生み出されるが、暗闇や暗がり、あるいは前列の客のシルエット等により分断され、二つは別の層になって現れる。さらに音は演者の立てる物音や咳、客席で生じる様々なノイズ、外から侵入してくる周辺音等が入り混じる。光もまた、明るさや色合いを変え、さらにそこに演者の身振りや炎の揺らぎ、それらがかたちづくる影や闇の輪郭や濃淡の様々な度合いの変化が加わり、それらは観客/聴衆である私自身を巻き込んで生成変化し続ける。演じられる意図が明確でなく、動作も何の変哲もない日常からきちんと切断されることなく、だらだらとつながっていることが、かえって幻惑的な乱反射を生じさせる。これがもっと前後の切断のはっきりした、パッケージとして切り離し取り出せるようなものだったら、こうした曖昧さの魅力は薄れてしまったことだろう。この引きずるような持続、切れ目のない混濁感が重要なのだろう。蛇口を締めてもぽたぽたと滴り続ける水滴、あるいはいつまでもじくじくと粘液が滲み出して乾かない傷口のように。


2.tamaru「映像作品上映」
 正面に白い布がぴんと張られ、向こう側がまったく見えなくなる。そのスクリーンに向こう側からPCの動画ファイルが再生投影される。
 しばらくそのまま映っていたPCのデスクトップ画面が切り替わり、最初、暗いグレーの縞模様が映り、少し揺らめいたかと思うと、モノクロームの雪景色に変わっている。薄暗いような「生明るい」(生暖かく明るい)ような画面には、何の特徴もない住宅街に雪の降る様子が、2階以上の高さの室内からとらえられている。ピントが甘く輪郭がぼけているように見えるのは降りしきる雪のせいなのか、暗さのせいなのかわからない。画面はフル雪のちらつき以外は動かないようでいて、すーっと白い影が道路を横切ったりする。音が消されていることが画面から生々しさを奪い、非現実的な、手触りのないものとしている。変化のない画面にもう飽きたのか、ひっきりなしに動いて衣擦れをたてまくる観客がいる。
 一瞬の黒画面(?)を挿んで、画面が切り替わる。今度は窓が並んだ建物。やはり「生明るい」光の中を雪が降っている。ゆっくりとキャメラがズームし、視線が屋根の方にずり上がっていく。壁の一様な白さの中にちらつくような奇妙な運動が潜んでいる。最初、スクリーンの布地のきめかと思ったが、それならば映像と同期して動くはずだがそうではない。

 白画面。うっすらと不織布のきめのようなものが浮かび、ゆっくりと息づいているように見える。そのうちに画面を横切る淡い線が、上から下へ何本か通り過ぎて行く。前述のきめと重なりあってちらつく、薄いしみのように心もとない線だが、見詰めるうちに高く張られた電線ではないかと気づく。そのうちに雪の残った屋根が姿を現し、見当通りであることがわかる。
 画面が切り替わり、池の表面のように見える。水面に映る景色と向こう岸の草むらが揺れながらつながっている。黒い小さな影が中央から右へ移動し、鳥が飛び立ったらしいことがわかる。うっすらとした緑色がにじみ、全体がぼうっとして、ますます輪郭が曖昧になり、ほとんど染みのような斑紋が揺れているだけ。画面全体の均質性の強さがオールオーヴァーなつかみどころのなさ、視線の落ち着きどころのなさを生み出している。実際、視線も、水面の揺らぎとは異なるリズムで、うつらうつらと画面を揺れ漂うばかり。
 続いては、水の中の鯉の群れを上からとらえた画面。白や黒、錦等、これまでとは異なるはっきりとした色彩が現れるが、水面の揺らぎとそれに伴う反射、たちのぼってくる泡、鯉自体の身をくねらせる動き等が相俟って、それこそ、くすんだ色あいをした三角や四角の断片が、震えながら浮き沈みしているようにしか見えない。急に横から光が射し込み驚いて振り向くと、何と隣の客が携帯電話の画面を眺めている。

 続いての画面はよくわからない。細かい市松的な模様が向こうへと起伏を持ってなだらかに続いているように見える。粒子が荒れていて、ウイルスの電子顕微鏡写真みたいにも見える。陰影があるようでないようで、光源の位置のよくわからない明るさが希薄に漂っている。立体なのか平面なのか、大きさや距離、奥行きもよくわからない。ただ、その前の鯉の画像と比較して、時間の流れていない感じが際立っている。しかし、動きがまったくないわけではない。ミクロにちらつくような、溶け広がってにじむような動きが、背後に潜んでいるように感じられる。ピントが合ったりずれたりする感覚があり、画面全体が静かに息づき脈動しているようにも思われる。しかし、それは観客の視覚の問題かもしれず、暗がりを見詰めていて暗くなってきたかと思うと、知らず知らずのうちに眼を細めていた‥‥といった感じにも似ている。「AHA動画」を眺めているみたいに、気づかないところで何かが姿を変えているようにも思われ、落ち着かないことこの上ない。すべては運動の只中にあるというベルクソン的なヴィジョン? あるいは腐食のようなミクロで緩慢な変化? そうした疑念と不安が画面全体に薄く薄く溶け広がり、輪郭は震え滲みちらつき、ミクロな脈動が全景に波及するようでいて、再び見直すと何事もなかったように整列している。

 終了後、tamaruが簡単に謎解きをしてくれる。最初の雪景色から鯉の画像までは、デジカメの動画機能で撮影したファイルを大型のPCモニタで再生し、それをハイヴィジョン・ヴィデオで再度撮影したものだという。後で訊けば、さらにPCモニタの表面に薄く剥いだティッシュ・ペーパーを貼付けて風で揺らしていたとのこと。そうした横からの物理的な揺らぎの介入を受けつつ、デジタル→デジタルの転送回路をアナログへと切り開くことにより、別種の読み取り/変換上の揺らぎがそこここで顕在化してくることになる。一時流行ったCDプレーヤーの読み取りミスの手法化などよりも、はるかにデジタル技術の本質/核心を突いた、それでいてあっけらかんと簡素で種も仕掛けもない、そして驚くほど実り多い豊かな試みと言えるだろう。画面上の事物の、揺らぎをはらみつつも空間にはまり込んだような静謐な佇まいは、ジョルジォ・モランディ的な魅力をたたえている一方で、その揺らぎはとても視覚では受け止めきれず、手指の間からこぼれていく微細な豊かさを誇っている。
 最後の不可思議な風景は、布地を接写した静止画像をPCモニタに映し出し、明度やシャープネスをマニュアルで操作しながら、これをやはりハイヴィジョン・ヴィデオで再度撮影したものだという。ヴィデオの方の自動調整が働き、次第に暗くなって画面を暗さに対応して明るく撮影する結果、なかなか暗くならず、そこに不安定な揺らぎが生じるのだという。「腐食」のような静止の只中に潜む運動/変化をイメージしたのは、ある意味、当たっていたかもしれない。以前にブログで採りあげたMontage(山道晃)の映像作品で、羽田空港から飛び立つ旅客機を沖合からとらえるうちに、あたりが暗くなってくると、だんだんとヴィデオのオート・フォーカスが旅客機の速度に対応できなくなり、不定形の染みが近づいてきて、急に旅客機のフォルムにメタモルフォーゼする場面があったが、あれとよく似た手法と言えるかもしれない。言わば画像エンジンの裏をかき、騙して空回りさせること。


3.坂本宰の影「シルエットパフォーマンス」
 スクリーンの向こうでしばらく準備しているようだと思っていたら、演者が前に出てきて、今日何をやるか何も考えていないので外へ出て一服してくると告げる。まだ始まらないと安心した観客たちも外へ出たりした後、しばらくすると演者が戻ってきて、本日はwoodmanと共演することにした、自分は懐中電灯1本でやる、ついてはもう一服してくると告げて、また外へ出てしまう。woodmanの口上と言い、この前説と言い、あるいはそれらを生暖かく「疑似家族」的な内輪ノリで生暖かく受け容れる聴衆と言い、こういうグダグダしたのが今の流行なのだろうか。この時点でかなり不安になっているが、しょうがない、とりあえず腹を括って見届けようと心に決める。

 結論からすれば、パフォーマンスは新鮮な驚きに満ちており、なおかつ、簡単な仕掛けから限りなく豊かな変化を生み出すという点で、本日の一連のパフォーマンスを貫く縦軸を、さらに太く長く射程を伸ばすものだった。
 冒頭、暗転し、しばらく真っ暗闇が続く。暗さが身体にしんしんと沁み込んでくる中、視界にぼんやりと何かが浮かび上がりつつあることに気づく。まるで床から冷気が這い上がるように、どこからともなく明るさが忍び込んでいるのだ。ぼんやりと中空に浮かぶような明るさの感覚は、周囲の壁や前列の観客のシルエットの輪郭を次第に浮かび上がらせる。「照らし出される」のではない。光がどこからやってきているからわからないから。むしろ闇から「かたち」が析出し、そこに光が分泌され希薄に満ちつつあるという感じ。まさにそのようにして、自らの身体も今まで溶けていた闇から浮かび上がる。はるか昔のこと、池袋西武スタジオ200でトニー・コンラッドの実験映画『フリッカー』を観た際に、明滅する画面を見詰めるうちに主客が反転して、明滅する光源に客席にいる自分が照らし出される感覚を覚えたことがあったが、それとも少し違う。切り離されることにより、周囲の空間と自分の身体/視角が同時に立ち上がってくる‥‥という印象。
 やがてスクリーンに人の姿が浮かび上がり、たぶんちょっとした光源の操作なのだろうが、一瞬で大きく薄い影へと変貌し(腕を突き出していてポーズも異なる)、次いで両者がさらに別の付随的な輪郭と共に重ね合わされる。
 影は常に振動し、たちまち溶けて流れ、希薄化し、多方向に歪み、闇に溶けて、またくっきりと浮かび上がる。まさに常に運動/変化のプロセスの只中にある。たとえ一見くっきりとした輪郭を保ち、静止しているように思われる時であっても。
 光線の広がりやそれによってもたらされる歪み、あるいは周囲の壁面の多重的な反射をうまく利用しているのだろうが、ここで光と影はほとんど切り離されて、別の層/相を自由奔放に動いているように見える。直進する光が直接に物体の像を落とす影は、物体の物理的な転写であり、最も揺るぎない記号であるはずなのだが、ここでは両者をつなぐくびきは鮮やかに切り落とされているに違いない。眼にも止まらぬ速さで光が走っても、影はゆっくりと動き、あるいは影がとめどもなく湧き出し、果てしなく溶け広がる時も、光はじっとそこにいる。
 光源に何かをかぶせているのか、抽象的な襞や文様がするすると展開したり、ゆっくりと息づいたりすることもあった。そうした不可思議さに比べると、たとえば傍らにあったコートハンガーの影を歪ませ、揺り動かしたり、あるいはプラスチック製の洗濯物カゴの網目のスリット効果で光を干渉させたりするのは、いささか理科実験的に感じられた。
 また、演者がスクリーンの横から姿を表し、懐中電灯を操ってそこにある様々な物の影を映し出す様も、ある意味、プロセスの公開により「へえ〜、あれがああなるのか」的な驚きをもたらそうという狙いなのかもしれないが、私にはいささか平板で冗長に感じられたことを告白しておこう。

 最近、ガラス板の上に敷いた砂を動かして絵を描くもの、あるいは複数の人が光源からの遠近を活用しながら身体の各部のシルエットを組み合わせて形象をかたちづくるものなど、影絵を用いたパフォーマンスがTV等でよく紹介されている。それらはいずれもリアルタイムのすばやく流動的なメタモルフォーゼを特徴とし、言わば「コンピューター・グラフィックにできない表現」を売り物にしている。今回の坂本によるパフォーマンスとこれらの違いは、まず後者が物語的な、あるいはシンボル操作等の連想的な変形のプログラムを有しており、場面や形象をメタモルフォーゼでつないでいくのに対し、前者はそのような下図を持たないことだ。ただしこれは今回のパフォーマンスが、「即興」による比較的短いものだったからかもしれない。彼のサイト「Sakamoto Osamu's shadow」(※)を見ると、以前のパフォーマンスの動画がアーカイヴされているが、その中には場面転換を基調としたものもある。もうひとつの違いは先に述べたように、後者では全く揺るぎない光と影の間の「写像関係」が、前者にあってはかなり切り離されて(もちろん原理的には切り離すことなどできないわけだが)、ほとんど宙ぶらりんとなっていることにほかならない。
※http://osamusakamoto.info


4.演じることと見る/聴くこと
 簡単な仕掛けが、受け止めきれないほどの豊かな変化をもたらす。それゆえ、仕掛けさえわかってしまえば、それは容易く誰にでもできてしまうようにも見える。しかし、実際にはそううまく事が運ぶ訳ではない。たいていの場合、豊かさは単に野放図なとりとめのなさと映るだろう。あるいはただ混沌の中で転げ回っているだけだと。考えてみれば、ここで明らかにされる豊かさは、何気ない日常の中に潜んでいるものだ。見る/聴くことを通じて、そうした豊かさに気づき、一部なりとも引き出すことが出来なければ、今回の一連のパフォーマンスで示された豊かさを受け取ることはできまい。それは演奏者の意図の照応物を、「演奏」の中に見出すという「回路」=社会的制度から踏み出すことでもある。そこではこうした豊かさは、不要なノイズとして、副次的な派生物として、単なる背景として、排除あるいは縮減されてしまうからだ。最近言うところの「実験音楽」悲しいほどの貧しさはそこにある。それは見ることも聴くこともせず、単に「コンセプト」の了解だけで成り立っているからだ。そんなものはコンセプチュアル・アートでも何でもなく、「企画書アート」に過ぎない。
 woodmanの飄々としたノンシャランさ、tamaruの透徹した凝視の視線の強度、そして坂本のスクリーンの裏側への隙のない注視と懐中電灯に添えられた手指の多彩なエフェクトと、三者三様の見ること/聴くことへの集中を体験できたことを、大きな喜びとしたい。
 また、昨年11月から始めたリスニング・イヴェント『松籟夜話』のキー・フレーズとして、相方を務めてくれている津田貴司(この日、彼は会場にいた。と言うか、このイヴェントはもともと彼が薦めてくれたものなのだ)が提唱しているのが、〈音響・環境・即興〉なのだが、この日のパフォーマンスはこの三題噺のうち、「音響」のところに「光」を代入したように感じられた。こうした不意の出会いを次に活かしていきたいと思う。


『New Year Silence』
2015年1月10日(土)
Ftarri水道橋店
うっど漫々 a.k.a. woodman, tamaru, 坂本宰の影

スポンサーサイト


ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:08:21 | トラックバック(0) | コメント(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad