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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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歌女との遭遇  Close Encounter with Kajo
 フリー・インプロヴィゼーションがフリー・ジャズ的なブロウイングの応酬による放埒さ/粗雑さを離れ、音響的な繊細さと精緻でこわれやすい瞬間的な構築、あるいは生成するドローンの多層的かつ継続的な変容へと向かう時、どうしても流動性というか、流れの勢いが失われてしまうのを感じないわけにはいかない。もちろん、後者に流れが欠けているわけでは毛頭ない。しかし、局面の素早い展開や、反対に静寂への沈潜に妨げられて、そうした流れがミクロな局面に限定されがちなのも確かだ。エレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションを経た、音色の多彩さと微細な速度を活かしながら、尽きることなく滾々と湧き出し、自ら産み出した流れに棹さして漕ぎ出し、滔々と流れ行く‥‥そのような演奏はないものかと。
 今からちょうど1か月前の1月12日、私はそうした演奏を確かにこの耳で聴いた。幸運な出会いに喜び過ぎたのか、その翌日の午後には高熱を出し、数日間寝込まなくてはいけなかったのだが、それでも出会いの事実は揺るぎないように思われた。しかし、熱に疲れた身体では、それを言葉に、ましてやライヴ・レヴューのまとまった文章とすることは到底できなかった。書きかけてはみたものの、中断を余儀なくされた。
 ある事態を言葉にするというのは、やはり「生もの」の部分があり、時間が経てば否応なく鮮度は落ちていく。さらに言えば、「書く」とは言葉を通じて感覚の深みへと降りていくことであり、その降りていくべき感覚自体が薄らいでしまえば元も子もない。だから、こうして書きあぐねた場合、たいていは目論みを破棄してしまうこととなる。だが、これまでそうした事態に陥ったのは、言葉を構築する段階で、「事態」の方が色褪せてきてしまう場合に限られていた。ぶっちゃけた言い方をすれば、「その場ではいいかなと思ったんだけど、こうして冷静になってみると、実はそうでもなかった」というようなことだ。言葉にすると嘘臭くなり、表現が上滑りしていていかにも大げさと感じられる。言葉の構築が目指す水準に、「事態」の方が耐えられなくなってしまうのだ。もちろん、それは私の記憶の問題であり、さらには私の感受力に限定された範囲内でのことであって、ここで「事態」とは、あくまで私の認識した事態にほかならない。しかし、書き手としての私にとって、他にどんな「事態」があるというのか。
 ともあれ、1月12日に私が出会った事態は、そうした類いのものではなかった。それはその後もずっと私の身体の中に存在し続け、あちこちにぶつかりながら動き回り、様々なかたちを取った。図らずもFacebook上で、シンガポールの音楽祭に参加した高岡大祐の日記文が、トマツタカヒロの「いいね」を通じて流れてきた。そこで彼は演奏のことよりも、食い物と釣りのことを多く語っているのだが、そうした語り口は私の中に居座っていた「事態」と鋭く共振した。また、『松籟夜話』第二夜の準備のために、クォーツ・レーベルに残された民族音楽の現地録音や、当時のデヴィッド・トゥープとポール・バーウェルらによるフリー・インプロヴィゼーションを何度となく聴き返したことも、「事態」と密接に共鳴した。それゆえ私は、「事態」を生じせしめた彼ら、歌女(高岡大祐、石原雄治、藤巻鉄郎)のCD『盲声(Blind Voice)』(Blowbass)を、『松籟夜話』第二夜の当日、当時のトゥープたちの「魂の同志」として、ミッシェル・ドネダと中谷達也のデュオに続けてかけることとなった。

 「事態」の当日から1か月が経過し、私には「事態」を語ることの出来るだけの体力が回復しただろうか。あるいは私の中の「事態」は語るに足るだけの生々しさ、正確さを維持しているだろうか。それは実は心もとない。しかし、来る2月14日(土)には、再び彼らのライヴが都内である。それに立ち会う前に、何とかこれを言葉に吐き出しておかねばならないと思うのだ。



 ステージ部分の左側には、大口径のバス・ドラムがスキンを上に向けて椅子に乗せられ、その周囲に大きなシンバルが2枚、スネア、フロア・タムが配され、大きなフレーム・ドラムが立てかけられている。さらには様々な直径の小シンバルやゴング、大小の金属ボウル(普通に台所で見かけるようなもの)が、ドラムや椅子の上に置かれている。フロア・タムから吊り下げられたり、無造作に床に置かれているものまである。その雑然とした散らかり具合は、ビフォーというよりアフター、それも粉や卵をしこたま使って大量のケーキをこしらえた後、まだ片付けていない厨房‥とでもいった感じだった。

 対して左側には手前にミキサーがあり、その横に細長いスーツケース型のヴィンテージ・キーボードが‥‥よく見ると枠だけで鍵盤がない。エレクトリック・ピアノの鍵盤から何からみんな取り外して、音源となるチューニングされた小さな金属板とピックアップだけを剥き出しにしたものだと言う。


1.Leo Dupleixソロ
 開演時間を少し過ぎて、人の良さそうな西洋人が姿を現す。彼が椅子に着いて発した最初の音は正弦波風の電子音だった。引き伸ばされるうちに付帯音による表面の凹凸/陰影が目立ってくる。次第に充満してくる音色に、左手で前述のフレームを叩くと、はるか遠くでグランド・ピアノの弦が虚ろに震える。荒れ果てた廃墟を思わせるオカルト・アンビエント。細い竹ひごで金属板を引っ掻きかき混ぜると、きらきらした響きが半ば闇に沈みつつ、細かなちらつきをつくりだす。時折何かが「爆ぜるような音」(寺内久)が鋭く耳を刺す。ゆるやかにうねる持続音と刻一刻生成を続けるちらつきが溶け合い、結果としてゆったりとたゆたう空間は、Jozef Dumoulinがエレクトリック・ピアノとリヴァーブを巧みに操って、魔法のように出現させた70年代ジャーマン・ロックを思わせるスペーシーな広がりに似ている。が、前述の「爆ぜるような音」や過大入力に歪んだようなザラザラしたノイズの手触りと消化の悪さは、Leoの演奏により同時代的な生々しくリアルな切迫感を与えていたように思う。
 周波数成分の異なる二つ以上の層が擦り合わされ、さらにその背景の暗闇で巨大な音の影がもぞもぞとうごめく。それは暗がりにそそり立つパイプオルガンであったり、はるか遠くから渡って来る雷鳴であったりする。至るところ干渉がせめぎ合い、摩擦が大きすぎて状況は固着的であり、場面転換は流暢に進まない。だがそれも当然と納得させる手触りの確かさが、この演奏にはある。


2.歌女(高岡大祐、石原雄治、藤巻鉄郎)
 「ああ、休憩いらないすよ。もう、すぐ始めちゃいますから」と高岡が右手を高く挙げて店主の鈴木に大声をかける。残りの二人がケースからスティックや音具を取り出す間に、早々とチューバを抱えた高岡が試しに二つ三つ音を出す。スティックや音具を床に並べ、あるいはドラムの打面の上にセットする際に出てしまう音。シンバル・ケースのファスナーを慌ただしく開ける音。「あはは、もう演奏が始まっているみたいだ」と言いながら、高岡が足元の金属ボウルを藤巻の方へ蹴って渡す。そのカラカラと乾いた音に、じゃらじゃらした音具の音色が絡み付いたかと思うと、もうマウスピースには息が吹き込まれていて、いつの間にか動き始めた列車のように、演奏はもう始まっていた。

 二人は水平に置かれたドラムの打面に覆い被さるようにして、それぞれに細かい律動を生み出す。刻まれるリズムは前のめりに急坂を駆けくだり、グルーヴの円環を描かない。そうした循環的なビートを編み上げてしまわないよう、常に打音の網目を歪ませ、飛ばし、あるいはつなげているように見える。その一方で、二人は交替しながら「ポン」とフロア・タムを叩き、ゆっくりとした拍を偽装する。高岡はマウスピースを大型のタンバリンのようなフレーム・ドラムやバスドラ、スネアの打面に押し当てて息を放ち、あるいはパーカッシヴな破裂音を放出して、そうしたリズムの流れを後押しし、引き止める。そこにはリズムの上に管楽器のフレーズが乗るといった通常の役割分担はかけらも見られない。マウスピース/チューバは、打楽器の音の層に割り込み、あるいは浸透して、それと一体となりながら異なる速度で流れる。そこに泡立ちや渦巻き、乱流が生まれる。

 転がす、落とす、散らばす。右手でリズムを前へ前へとローリングさせながら、左手で打面に置かれたシンバルを操る。膝で吊るした鈴を震わしたかと思うと、置いてあったボウルを払い落とし、蹴飛ばして鳴り響かせる。蹴り渡されたボウルを拾い上げてバスドラのスキンを擦り、フレームを叩く。そのまま置き捨てられたボウルが打面の打撃に振動して、甲高い鳴りを付け加え、それを高岡が取り上げマウスピースを押し当てて、騒々しく泣きわめかせる。
 雲が湧き起こり、形を素早く変えながら流れ過ぎるように、音があちこちから湧き上がり、するすると流れ出し、流量と速度をいや増して水路をかたちづくり、急に曲がり二つに分かれ再び落ち合って一つになり、水かさを増し、水底を削り、さらに瀬を速め、滝となって流れ落ち、逆巻き泡立って、さらに幾つにも分岐し細い流れとなって遍く広がり、地に沁み込み伏流と化し視界から消え失せ、再び地表に現れ滔々と幅広に流れ行く。放たれた響きは一瞬鮮やかな文様を描き、すぐに流れて音のしみとなり、視界から消え失せてしまう。

 突風のようなチューバの一吹きが一瞬すべてを吹き払う。浄められた場に循環呼吸によるチューバの持続音がたゆたい、吹きながら開口部をボウルやフレーム・ドラムでミューとして色合いを変えていく。シンバル同士の擦り合わせと、タムの打面に置いたシンバルを叩く振動が溶け合って、しばし鉛色のアマルガムを鋳造する。バスドラのスキンを竹ひごで擦り、空間を波打たせた響きが後に続き、高岡が咳を連発する。

 ストイックで分散した集中がここにはある。自らの身体を複数に分割し、同時に並行して走らせること。これがまず原則。床に並べたシンバルやボウルを両手で叩きまくりながら、椅子の上の音具を顎で掻き回し、足元の音具を爪先で弄ぶのは、決してダダ的な道化パフォーマンスではなく、この原則の具現化にほかならない。フレーズを奏さないこと、コール&レスポンスをしないこと、これらはその原則の系であり、言わば自分の身体を「私物化」しないことととらえられる。これにより刻々と変化し続ける音/身体の状態を提示することが可能となる。時折発せられるチューバのフレーズも、実際には「身をよじらせながら歩む」等、ある特定の身体状況の提示に過ぎない。
 そのようにして演奏は、やがてカーニヴァル的な喧噪に至る。


3.全員によるセッション
 歌女の3人の演奏は基本的に変わらないが、Leoによる電子音の放出と増幅された金属板の搔き鳴らしが、刻一刻と成分を変えるドローン状の音の層を生成することにより、殺人的な慌ただしさの中でさらに多彩なサウンドを試す余裕を手に入れていた。ドラムのひそひそ話に、マウスピースを外したチューバの、もつれねじれた吐息が重ねられる。息はやがて天井に頭がつかえたかのように、苦しげな押しつぶされたものへと変わり、サンダー・ドラムのスプリングの軋みと混ぜ合わされる。はるか彼方にバグパイプの響きが浮かび、くゆらされる電子音とチューバの寝息が柔らかく溶け合い、バスドラの縁が擦り続けられ、弓弾きされたシンバルの倍音が重ねられ、ふとチューバのざわめきが湧き上がって、分厚い持続がかたちづくられる。

 彼らは対話の線を張り巡らさない。つまりは場面を止めることをしない。押し合い、引っ張り合って均衡をかたちづくる代わりに、動き始めた方向に乗っかって、勢いを加速していく。立ち止まることなく動き続けるキャメラ・アイ。絶え間なく移り変わる耳のパースペクティヴ。うごめきかたちを変え続ける音の雲。自在に組み替えられるフォーメーションを切り裂き、一瞬のうちに新たな結びつきをつくりだすパスの軌跡。楽器を共有し、境界を軽々と越えて腕や足が伸びていく。それはバンドの演奏と言うより、殺人的に忙しい昼時の中華料理店の厨房のやりとりを思わせる。飛び交う注文の符丁。向かい合って鍋を振るう両側から金属のオタマが伸びてボウルから調味料をすくい、鍋を荒々しく揺り動かして叩きまくる。出来上がった料理を素早く皿に移すと、鍋を「ささら」で慌ただしく擦り立て、客席から下げられた皿や丼が、かちゃかちゃと鳴り響きながら、洗剤の泡に飛び込んでいく。

 皆、途切れることなく音を出し続ける。それは自己完結的な音の繭を編み上げて、他の音を聴かないということではない。まったく逆だ。自ら音を出すことは、探査のための針を深く突き刺すことであり、よりよく聴き探ることにほかならない。ここで聴くことは受動的なだけの体験ではない。高岡はそのことを自身のブログで釣りについて語っている(※)。
※http://d.hatena.ne.jp/daysuke/20150116/1421371089

 フレーム・ドラムのスキンの上に浮かせた小シンバルの連打が高鳴り、スキンの振動を増幅させ、空間いっぱいに響きを充満させる。チューバもまたフレーム・ドラムを開口部にあてがい、音色をミュートすると同時にスキンの振動を付け加える。石原、藤巻の二人がそれぞれ別々の一連の動作の一部としてバスドラを叩く。バスドラの打面の中で異なる打撃、別々の演奏のプロセスがぶつかり合う。チューバを吹き破るようなバリバリとした鳴りが、加速を煽り立てる。統一された全体を構築することなく、常にはみ出し、こぼれ落ちていく部分。


4.耳の魂の同志
 他の演奏者と異なり、ミシェル・ドネダにとって息音とは、新たに獲得されたひとつの語法/語彙でもなければ、削りに削ったリダクショニズムの果てに残された骨と皮でもない。それはリードの鳴りが楽器の響きを一色に染め上げてしまうことの回避(新たに引かれた逃走の線)にほかなるまい。管の中の響きをリードの振動に一元化しないこと(リードによる独裁の拒否)。息の持つ多様な速度を、管を通じてそのまま解き放つこと。部屋の空間に管を直接差し込み、火照った息を吹き込んで息づかせること。クォーツ・レーベルに現地録音が残されたニューギニアの笛が、二人の演奏者の間の息遣い「呼吸」、2本の管の鳴りの響き合いが、それらが放たれる周囲の空間の響きの深度を巻き込んで高く低く速く遅く移ろいながら「共振点」を探り、そのまわりをゆるゆると巡っていく。それはまさに空間を吹き鳴らし、空間に響きを引き出される過程そのものだった。それゆえ『松籟夜話』第二夜では、このニューギニアの魔法の笛の「耳の魂の同志」としてドネダを召喚したのだった。そして続けて「歌女」を。

 高岡はドネダと同様の視点から息音を用いている数少ない演奏者だ。彼は楽器には興味関心がないと言う。彼が可能性を見出しているのは「楽器としてのチューバ」ではなく、チューバの大きく扱いにくい「器」なのだと。楽器の機能発達の道筋が、周囲の空間の状況に左右されずに、自己完結的に安定した響きの領土をつくりだすための歩みだとすれば、ドネダや高岡の試みは、楽器の内部に囲い込まれた「閉ざされた庭」を、「外」に暴力的に押し開いて接続し、楽器を息と「外」が通い合う一本の管へと再初期化することととらえられよう。その時、管は息を整流化/乱流化する装置であると同時に、「外」を探るために差し込まれるゾンデであり、また当てられる聴診器でもあるだろう。「内」と「外」に分け隔てなく耳が澄まされる。ドネダが盟友たる録音技師たちと行動をともにし、高岡が自ら録音を行うのは、決して偶然ではない。


2015年1月12日(月・祝) 水道橋Ftarri
Leo Dupleix(keyboard,electronics)
歌女(高岡大祐、石原雄治、藤巻鉄郎)
 高岡大祐(tuba,object)、石原雄治+藤巻鉄郎(bassdrum,separated drum kit,percussion,object)

歌女の次回ライヴ予定は2月14日(土) 於:池袋バレルハウス

当日のライヴの写真がなくて申し訳ありません。歌女の演奏の様子は、例えば次のページの写真を参照してください。
http://www.jazztokyo.com/live_report/report719.html

クォーツ追加4
歌女 / 盲声(Blind Voices)
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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:29:51 | トラックバック(0) | コメント(0)
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