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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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即興された瞬間 - ロジャー・ターナー&高岡大祐デュオ ライヴ・レヴュー  Improvised Moments - Live Review for Roger Turner & Daisuke Takaoka Duo
1.中崎町
 大阪駅茶屋街口から都島通りを進み、鉄道のガード下を抜け、地下鉄中崎町駅の表示が見えたところで左に折れる。それは人肌の暖かみをたたえた迷宮への入口だった。まるでタイムスリップしたように街並みが懐かしさを増す。昭和40年代、いやもう少し遡るかもしれない。廃墟の寒々しさや街並み保存地区によくある映画セットめいたつくりもの臭さはない。そこここに生活感が漂っている。さらに進むと道は細くなって曲がりくねり、思いがけないところに抜け道が開けている。何を目指すでもなく、ただただ道なりに歩いて、気が変わったら角を曲がろうと、最初から地図など当てにしなかったのがよかったのだろう。まちは大した予備知識もなくふらりと訪れた私たちに、様々な表情を見せてくれた。古いビルの駐車場に面した裏口にあるカフェ、路地の行き止まりでブロック塀に寄りかかっている洋食屋、お目当てのレストランは満員だったけど、もう一軒気にしていたカフェに入ることができた(さっき前を通った時は、ぴしゃりとも扉を閉ざし、てっきり閉店日だと思ったのだが)。女性店主が無愛想なのがむしろ心地よく、許しを得て、ストーブの前にちょこんと座っている店猫の頭を撫でていると、あるやなしやの尻尾を振って甘えてくる。BGMがデヴィッド・ボウイなのが気になって奥の部屋の本棚を見ると、ロンドンやグラム・ロック関係の雑誌や書籍がずらり。丁寧さと閃きを兼ね備えた料理を食べ終わり、店主に道を尋ねると、わざわざ店の前まで出て、指さしながら教えてくれる。大阪人がすべて押し付けがましく愛想とギャグを振る舞うというのは、マスコミの押し付けた偏見だと知る。


 戦災で焼けなかったために残る古い街並みをそのままに、リノベーションによりカフェやブティック、雑貨屋等が開店‥‥というと、最近よくあるまちづくり事例のようだが、これまでガイドブック片手に道頓堀や天王寺を歩き回っていた時には感じられなかった「静かな活気」がここにはある。ブティックや雑貨屋には、いささか素人臭いとは言え新鮮なデザインが並び、観光地化する前のホンデ(韓国ソウル)を思わせる。相変わらず出鱈目に散策を続け、江戸前とはまるで文様の異なる手拭屋や、ネットの紹介で「初めてでは絶対に行きつけない場所にある」と書かれていたフレンチ・レストラン等を見つける。



2.コモンカフェ
 目指す会場は通り沿いのマンションの地下にあった。天井が割と高い、小学校の教室の倍くらいの横長のスペース。客席の背後は一面の本棚が設えられていて、アート系から社会学、さらには『ガロ』まで、幅広い書目が並んでいる。ステージの背後の壁は濃い緑色に塗られ、スクリーン部分だけが白く塗り残されている。読書会やワークショップ、映画上映等の多目的に利用されるスペースであることが伝わってくる。

 さっきまでリハーサルをしていたロジャー・ターナーは、白髪頭をごく短く刈り込み、眉のあたりが厳しく張り出して、黙っていると頑固一徹な職人にしか見えない(鉢巻きが似合いそうだ)。しかし、高岡と談笑している時には、人なつこい笑顔がこぼれていた。高岡が友人たちに「今日は友達のドラマーが二人聴きに来るって言ったら、それは緊張するなあって言ってたぞ」と話している。開演までまだだいぶ時間があり、ターナーも手持ち無沙汰にしていたので、持ってきた彼参加のディスクを見せ、KONK PACK『BIG DEEP』のインサート(トリオの三人がステージ上に並んだ写真)にサインをお願いする。「これは珍しいんだよ。実は私も持ってないんだ。いいグループだったけどね」と話しながら、彼は自分の写真の輪郭からはみ出さないように注意深くペンを走らせ、えらく小さな文字で署名をしたためる。几帳面な人なんだな。きっと。
 聴衆は20名程度。フリー・インプロヴィゼーションのライヴであるにもかかわらず、半数近くが女性なのに驚く。場所に付いている客なのだろうか。



3.ターナー/高岡デュオ 第1部
 ドラム・セットの椅子に腰を下ろし、左脇に並べた何本ものスティックを選んでいたターナーが顔を上げ、高岡と視線が交わって演奏が始まる。シンコペートしたリズムと息音の交錯。マウスピースを装着したチューバに息を吹き込みながら、高岡はまずゆったりとした持続をたゆたわせ、くゆらし、少しばかり管を鳴らしてから、次第にアブストラクトなフレーズに移行していく。ターナーが眼の覚める打撃を一閃させ、リズムの網目を鮮やかに切り裂く。高岡は息音をスポスポとパーカッシヴに弾けさせ、チューバを傾け動かしながら、重音のうなりを紡いで、ターナーの連打を引き出す。
 ターナーは込み入ったリズムを滑るように編み上げ続ける。ビートは極端に細分化されながら、闊達なノリを失わない。手首から先を、あるいは肘から先を笞のようにしならせて叩き込む連打に、スネアが震え細かい破片が吹き飛ぶ。スティックを交換する間も、バスドラが急速調で鳴り続け、小シンバルや櫛の歯状の金属でドラムの打面を擦るといった音響的演奏の最中も、ほとんど音にならないほどの微妙さで、ハイハットが小刻みに踏み続けられている。ビートのつくりだす急斜面を、色とりどりの音色やリズム・フィギアが滑走し、あっと言う間に流れ去っていく。
 一方、チューバは、自らの可能性を一斉に解き放つドラムと競いあうように、音色を目一杯膨らませては絞り、ゆったりとたなびくかと思えば、バリバリと管を鳴らし、目まぐるしくフレーズを奏しながら自らを切り刻んで、楽器のスペクトルを全解放する。ここまで高岡は音具も用いなければ、マウスピースも外さず、あるがままのチューバを吹き続けている。「これで行けるところまで行こう」という静かな、しかし確固たる決意が感じられる。

 スネアの連打の最中に、ターナーが両腕の軌道をさらりと変えて、空中でスティック同士を打ち合わせて、巧みなシンコペーションを折り込んでみせる。高岡がこの日初めてボウルに手を伸ばし、ベルに放り込みミュートして、さらにうなりながら吹き続ける。グロウルによるドローンにフレーム・ドラムをかざし、スキンの振動を付け加える。ノンブレスによるロングトーンをどこまでも引き伸ばしながら、床に転がるボウルを蹴飛ばす。マウスピースを外して、吹き込む息を鋭く切る。
 ギアを入れ替えたチューバの加速に反応して、ターナーはスティックを巧みに操り、シンバルとフロア・タムを同時に打ちのめして、韓国打楽器アンサンブルを思わせる響きを生み出すかと思えば、ハイハットのシンバルを回転させ、金属片を押し付けて軋みの悲鳴を上げさせ、さらにスネアの連打へと立ち返って、リムやそれに近い部分にアタックを集中させ、より硬質に張り詰めた打撃を連ねながら、天井知らずに密度を高めていく。
 連打の怒濤に土俵際まで追いつめられ、チューバに吹き入れられる息は、曲がりくねり複雑に折り畳まれた管に砕かれて、切れ切れの破片となる。ホーミー風の倍音奏法は、やがてほとんどヴォイスと化し、一転してホラ貝のようにバリバリとチューバを吹き破りながら、菜箸で楽器の表面を擦り、息で風を切り、さらには外したマウスピースを逆さまにくわえて、赤ん坊の泣き声をあげる。

 ここで何を思ったか、高岡は、最初ボウルを載せていた小テーブルに手を伸ばし、飲みかけの缶コーヒーのアルミボトルを掴むと、蓋を開け、息を吹き込んだ。飲み残したコーヒーが床にこぼれる。さらにチューバのパイプの一部を外して鋭く吹き鳴らす。パンパイプに似た甲高い音が響き渡る。音色が鋭く絞り込まれ、反応が速い。フレーズを編み上げ、アタックを強め、声を使って一気呵成に攻め込み、土俵中央まで押し戻す。他の総てを捨てて小回りの利く「態勢」への組み替えに賭けたことが、ここに一点突破をもたらした。
 しかし、それにしても、ターナーの素晴らしさを何と言おう。不断にビートを生み出し、リズムの流れを途切れさせない仕方は、あるいはハン・ベニンクを思わせるかもしれない。ロールのキレや密度においても。しかし、彼にベニンクのパフォーマンス性はない。床を叩きながらどこかへ行ってしまうベニンクに対し、彼は椅子を一歩も離れようとしない。その分、集中と正確さにおいては、はるかに上回る。先に見た音色探求の貪欲さにおいても。それはおそらくフィル・ミントンの極端に多形的な声の変容(それはサウンドにおいて多彩であるだけでなく、そそり立つ崇高さから唾棄すべき下品さに至る幅広い感覚的かつ感情的なスペクトルを有している)との共同作業を通じて磨き上げられたものではないだろうか。フィル・ミントンとのデュオから、ロル・コックスヒル、マイク・クーパーとのThe Recedentsを経て、パンクな速度と音響的な強度を兼ね備えたKONK PACKに至る曲がりくねった彼のキャリアは、彼の演奏に驚くべき豊かさをもたらしている。その豊かさはヴォキャブラリーのレヴェルにとどまらない。展開に応じて自在に文脈を組み替え、不断に流れを生み出しながら、切断や飛躍に満ちた「即興的瞬間」が至るところに口を開けている。

 こうしたターナーの演奏の豊かさは、常に変容し続け、新しい面をさらして止まない高岡の演奏のあり方が引き出したものと言っていいだろう。ソロ/バッキング、あるいはソロ/ドローンというような固定した役割分担は見られなかった。それはせわしないカットアップの連続とも異なる。演奏/運動/聴取を通じて、演奏者の身体自体が流動に巻き込まれ、変容を余儀なくされる過程がそこにはあった。半袖Tシャツ1枚で演奏していたくせに汗びっしょりになっている高岡に、お疲れ様、すごく良かったですね、これだけではるばる大阪まで来た甲斐がありましたよと声を掛けると、いやあまだこれからですよと頼もしい言葉が返ってきた。



4.ターナー/高岡デュオ 第2部
 後半の演奏は静けさのうちに幕を開けた。息音がホワイト・ノイズ的なざらつきを見せ、ブラシによる摩擦音と混じり合う(ここでターナーはハイハットを踏んでいなかった)。そこに隙間風を思わせる甲高いピー音が差し挟まれ、微小音でリズムが疾走を開始すると、チューバを指で擦る音が応える。マウスピースもまた擦られ、グラス・ハーモニカに似た澄んだ響きを立ち上らせる。チューバはことさらにゆったり、深々と歩みながら淡い音の滲みをそこここに残し、ブラシの風切り音がそれに別の手触りを加える。管の遠鳴りや息の破裂音が風に乗って届き、ドラムによるリズミックなパターンもまた、煎り豆のように軽やかに響く。

 ターナーがアイロンの形をした金属のコテを取り出し、弓で弾いてうっすらとした倍音を香らせながら、バスドラとフロア・タムによるシンコペーションを組み立て始める。高岡がフレーム・ドラムにボウルを載せマウスピースを逆さまに押し当てて応じる。最初希薄だった応酬は次第に密度を増し、シンコペーションによって激しく身体を揺さぶりたてる律動の嵐と、ノンブレスによるロングトーンの揺らぎ、息の乱れ、つぶやきが浸透しあう。探求は微小世界へと誘われ、ターナーが金属棒をすり合わせ、さらにシンバルに触れさせて、微かな、しかし複合的な響きを漂わせれば、高岡はチューバのベルをフレーム・ドラムでミュートし、そのスキンの僅かな振動をボウルを載せてプリペアする。アタックを消去された余韻の希薄な揺らめきが、ふと浮かび上がる。こうしたミクロなやりとりの中でも、ターナーは決して「叩き」を排除しない。繊細なスティック捌きが蜘蛛の巣のように希薄な網の目を広げていく。高岡が立膝を着き、深く頭を垂れて、チューバのベルで床を擦る。今やチューバはゲリラの持つバズーカ砲のように、ターナーの頭部に照準を合わせている。最後の一撃/一吹きが高らかに鳴り響き、演奏はフィナーレを迎えた。


 終演後、いろいろな声が聞こえてきた。ずいぶんと久しぶりにこの手の演奏を聴いた(かつては一緒にジョン・ゾーンも、灰野敬二も、三上寛も聴いたのだが)妻は、いい演奏だったわねと前置きして、最初の方のチューバの演奏なんて、まるで大きな赤ん坊(=チューバ)を抱いてあやしているみたいだったと語った。
ターナーのことも高岡のことも知らず、告知のチラシを見て、チューバとドラムだけの演奏ってどんなんだろうと思って聴きに来た若い女性がいたという。彼女は大層満足して、終了後、ターナーのCDを買い求め、彼にサインをもらって行ったらしい。
 高岡のFacebookへの書き込みによると、関西ツアーのブッキングの中で、彼だけがターナー自身によるご指名とのこと。他の共演予定者たちの評判を聞いて‥ということらしいが、単に「共演経験のない楽器だから」という理由ではないだろう。予想できない事態を待ち望み、それと真摯に向かい合ったターナーの姿勢を称賛したい。彼の願いは最良のかたちで実現したというべきだろう。
 高岡の共同作業者の一人である、Blight Momentsのドラム奏者橋本達哉は、やはりFacebookに「周りに誰もおらんかったら転げ回って叫んでました」と書き込んでいた。これはすごくよくわかる気がする。ターナーの叩き出す音は、たとえそれが極小音量だったり、ビートを持たない音響的なものであったりしても、身体を揺さぶり動かす力を強烈に秘めている。それは彼がリズムや音色を幾らでも編集可能な「概念」とみなすのではなく、身体を通して生み出され、また身体へと返ってくる、身体と切り離し得ないと言うより、身体の中枢に深々と刺さっているものととらえているからだろう。『松籟夜話』第二夜での表現を引けば「身体の内部に尻尾を残した音」ということになるだろうか。もちろん、高岡が放つ音も同様の性質を有しており、パーカッシヴな噴出やリズミックなフレーズの産出のみならず、ノンブレスによるロングトーンや息音の使用にあたっても、そのぐらりと傾く揺らぎや切り裂くような鋭さを通じて、聴く者の身体を賦活し揺すぶりたてて止まない。

 そして高岡自身は「あの時、即興しました」と力強く書き込んでいる。「本当にその場の思いつきであったり、今までやったことのない事に瞬間瞬間挑戦する事って、『即興演奏』とかカテゴライズされた中ではなかなかないような気がします。そこで僕はあえて、即興、したいんです。やったことないことにトライしなかったら、それは僕にとっては即興と言い難いです」とも。ここで誤解のないように付け加えておけば、「今までやったことのない事」とは、単に新奇な企てを指すものではなかろう。今回のレヴューでは、高岡が缶コーヒーのボトルに手を伸ばす瞬間を、特権的な一瞬として描き出している。しかし、それは今回の演奏中に数多く存在した「即興的瞬間」のうちの一つに過ぎない。さらに言えば、缶コーヒーのボトルや楽器から取り外したパイプを吹き鳴らすことが、即興を保証するわけでは決してない。
 前もって準備しないことがイコール即興であり、あるいはそのようにして生み出される数多の「即興演奏」を前提として、それを裏返す/裏切るというやり方が即興演奏の新たな扉を開くかのように喧伝されている。しかし、それらは演奏を始めた時点で「それが即興演奏である」ことがすでに保証されているという致命的な勘違いを犯している。そうではなく、眼の前に立ち現われてくる一瞬一瞬に対し何に賭けるかが即興であり、こうした「即興的瞬間」はあらゆるところに口を開けている。特に今回のデュオ演奏では、一瞬への目の覚めるような賭けに総毛立つ瞬間が何度もあった。その度に新たな視界/展望が開け、めくるめく興奮と陶酔を味わうことができた。
 高岡は、ライヴ終了後の打ち上げで行った店でのターナーの様子を書き綴っているのだが、きっと彼は満面の笑みをたたえて、こう言ったのではないかと思う。「いやー、今日はダイスケに引き込まれて、思わず即興しちゃったよ」と。

 階段を上がると、心地よく火照った興奮の陰から空腹が顔を覗かせる。中崎町に寄って開いている店を探し、「大阪は意外と魚がうまいんですよ。素材のことはあまり言われないんだけど、腕のいい料理人が多いから」と高岡に教えてもらったのを思い出し、和食の店へ。調理も給仕も女性ばかりの店。突き出しが何と小ぶりの椀によそわれたけんちん汁。温かさにほっとする。グレの刺身と穴子の湯霜がおいしかった。

2015年2月26日(木)
大阪 中崎町 コモンカフェ
ロジャー・ターナー(dr,perc), 高岡大祐(tuba,objects)
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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:45:55 | トラックバック(0) | コメント(0)
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