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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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物語自身のスピードで ― 蛯子健太郎「ライブラリ」喫茶茶会記ライヴに向けて  At the Speed Stories Themselves Go Forward ― For Kentro Ebiko “Library” Live @ Café Sakaiki
 蛯子健太郎率いる「ライブラリ」の音楽は、昨年の出会いの中でも特に重要なひとつだ。高岡大祐と多田雅範は口を揃えて「音楽の魅力とは『謎』だ」と言うのだが、私が「ライブラリ」の音楽に感じる魅力もまた、「謎」のかたちをしている。
 魅力的な「謎」を、平板でつまらない回答に置き換えてしまうことなく、より魅惑的に輝かせること。そのためには「謎」を突き詰め、深めるしかない。またそれが、私たちが「謎」に対してできる唯一のことだろう。昨年11月28日に喫茶茶会記で行われた彼らのライヴのレヴュー(※)を、時系列に沿って曲ごとにコメントを付していくという、私にしては珍しいスタイルで書き綴っているのは、ともかくも頭の中に渦巻いている「謎」をいったん紙の上に吐き出して、眺めてみたいと考えたからにほかならない。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-328.html

 その後、少しして、蛯子からアンサーが届いた。そこで「謎」は見事に深められている。彼のブログから以下に全文を転載する。


「先日のライブラリ@茶会記 11/28(金)を終えて・受容について」

もう既に日数が経っているし、批評家の福島恵一さんが、当日の晩に(鉄の熱い内に)詳細なレヴューを書いて下さり、本質に外側からブレない光を当てて下さっているので、自分からは何も言う事は無いか、と思っていたのですが、「この日記」を書こうと思うと、ライブラリは、あまりにも自分の日常に、接ぎ木され、或は「エイリアン」の幼生(チェストバスター)の様に寄生されているので、触れないわけにはいかないのだ、と思いました。

音楽の内容を語るのではなく、宣伝のつもりも無く、美化するつもりも、大きく見せるつもりも本意の逆、という事で、自分は今年2月のライブ以来の9ヶ月をこのライブの為に生きて来た部分が在ります。

「自分が変わらなければ」という思いが非常に強く、かといって何が、どのように、というのは(当然ですが)、日々生きて行くことによって、その日毎に景色が変わって行く以外には、全く分かりませんでした。別の言い方をすれば、それが「やりたかった事」なのです。

そのプロセスを意識的に過ごし始めた当初は、ライブをする事自体、視野に入れてませんでした。バンド、ライブラリ、という括りも、それが自然の流れであれば、犠牲にする、という選択肢もありました。ただ、毎日生きて、自分の命、たましいを確認する。それ以外には何一つアプリオリには進めまい、という必用が精神的にありました。

それが5ヶ月経って、7月頃に、自分の内部で、ふっと「ライブをしよう」という流れに変わって来ました。ただそれは、自然の放物線を描く様に、7月や8月にすぐライブ、というのではなく、それから4ヶ月後の11月28日に決まったのです。リーダーとして、そういう流れ、を無視するのはとてもよくない事だったでしょう。

別の言い方をすれば、たったの9ヶ月間とも言えます、では、その間に、自分の何が、どう変わったのか、今振り返ってみると、「受容」という事だと思います。ほんの僅かに(ほんの僅かです)、様々なことが、以前に比べると、受け入れられる様になり、その僅かな変化を、音にすることができました。悪怯れるつもりはありません。その様に、楽屋でも、ステージでも、感じられ、それ以外、別の言い方は出来ないのだと、思いました。

こうして書いてみて、分かったのですが、「ライブラリ」は自分の病気の部分、或は社会との関わりの中で、擦り剥けて、怪我をしてしまった、患部と関わりあう為の何か、みたいですね。「接ぎ木」とか「寄生」といった表現になった所以かもしれません。

次回は4月頃ライブをしたいと考えていますが、スケジュール調整でどうなるか、目下未定です。ただ、「こうすればいい」という公式的なフォーミュラは、時間の流れ、命の流れ、から乖離し、流れを無視し易いものかもしれません。そもそも、それに依って擦り剥けてしまったのでしょう。

それまで、それまでの分を、生きて行ければ、と思います。


 苦しい胸の内を吐露するように、告解調で綴られた文章は、重い荷物を背負って、なお歩みを止めることがない蛯子の姿を映し出している。だが、それにしても「受容」とは何だろう。受け入れるとは、いったい何を受け入れるのだろう。
 前述のライヴ・レヴューでは、蛯子のかけがえのない特質を「プレイヤーシップでもミュージシャンシップでもない何か」と名指している。また、彼らの音楽の特質について、「日常が文学へと飛躍する仕方をシミュレートした音楽だ。日常のうちに開けた様々な亀裂や解離を、私たちは無意識のうちに跨ぎ越え、あるいは修復して、それに陥ることなく歩みを進めている。昨日と同じ明日が来ることを疑うことなく生活している。通常の音楽演奏もそうであって、音の流れに身を任せれば、間違いなく終点まで送り届けてくれる。「ライブラリ」はその流れを断ち切り、あるいは踏み外す。あるいは前述の亀裂にはまり込む。そこに別の世界が開け、文学が生まれる。」としたためている。
 こう書きつけていた際に、私がぼんやりと思い浮かべていたのは、ヴッパータール舞踏団を率いた亡きピナ・バウシュのことだった。彼女は「タンツ・テアター」の作品をつくりあげるにあたり、メンバーに対して最近心に残ったことを演じさせる等、問いかけを発し、それに対する彼/彼女らの応答を冷ややかに見つめ続ける。繰り返しの中で疲弊し、不安に苛まれて変容していく動きは、ある瞬間に彼女の手によって掬い取られ、作品の中へと移植される。パズルのワンピースとして。精神分析のセッションにおける本質的な暴力性を露骨に解き放ったこの方法論が、彼女の作品にぞっとするような残酷な強度を与えている。
 蛯子がピナのような暴君だと言うつもりはない。しかし、「ライブラリ」のアンサンブルには、これとよく似た原理が作動しているように感じられるのだ。すなわち、楽理的にアレンジメントとして完成されるのでも、個々人のソロに委ねられるのでもなく、一人ひとりの特質(いや、宿命と言おうか)に沿って当て書きされた音楽を、自己イメージとは異なる鏡像と向かい合うようにして、自己と関連付けながら、いや自己をそこから彫り出すようにして、演奏する‥。そこから自分の知らなかった「自分」が生み出される。蛯子はそんなオルター・エゴを引き出す写真家や演出家のような存在なのかもしれない。カギは「彼/彼女をして、彼/彼女の物語を語らしめる」ことにあるのだ。

 そんな風に考えを漂わせていた時に、彼から3月6日、喫茶茶会記における「ライブラリ」のライヴの知らせが届く。コンサートは「物語自身のスピードで」と題されていた。謎めいた符合。
 そういえば彼は、最近のブログで何回も「物語」に言及している。


時間についた名前。
それは、データではなく物語りだろう。

結局のところ、我々は、おしなべて、早く速く進む事には馴染みがあるけれど、ゆっくりと進む事に関しては、全く慣れていない、アマチュアなのではないか?と思われます。
だから、いざ、ゆっくりと進むべき状態に入ると、人は鬱傾向になるのかもしれません。
もう一月も経ちますが、前回11月28日の「ライブラリ」のライブ以来、自分の中の何かが、ゆっくりと高度を下げつつ、軟着陸体制に入ろうとしている様です。
この、社会的な意識のスピードと、「軟着陸」しようとしている何か(たましい?)の速度の違いの激しい事!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
「!」の数が乖離の目盛りです。
結局「物語り自身のスピードで、物語りを読む」という、速度、は、遥かに、意識の想定外まで、繫がっている様に、感じるのです。

「物語り自身のスピードで、物語りを読む事の面白さ」と言う、意識(気付き)自体が、「実際」には「物語り自身のスピードよりも、何倍も速い速度で、物語りを読もうとしている(そうとは知らずに)」という状態に無自覚にさせていたのかもしれない。


 日曜の23時からNHKで、『ダウントン・アビー』という英国の連続ドラマを放映していて、観るのを楽しみにしている。大枠としては20世紀初頭、激動の時代に相続人をタイタニック号の事故で失った貴族の一族が、限嗣相続制の前に没落していく話なのだが、むしろ見どころはきめ細やかに演じられる群像劇にある。登場人物一人ひとりがそれぞれ固有のテーマ・メロディを持ち、それを絶え間なく変奏し、発展させ続けている。その絡み合いの見事さと言ったらない。米国で制作された『ER』も優れた群像劇だったが、展開の推進力や転調を、突然に運び込まれる急患たちに頼ることができた。『ダウントン・アビー』はそうした外部化の仕掛けを、禁欲的とも言えるほど最小限にとどめ、城館に集う者たちの宿命の交錯と変容だけで、激を紡ぎあげていく。
 各人の持つ固有の物語は、それぞれにふさわしい固有の速度でほどけていく。毛糸玉が転がるように。その速度の差異によってドラマが展開していく。まるで四方八方から交錯するドミノ倒しの列を見るようだ。こちらが先に倒れたから、この列が速度を受け継いで走りだし、さらに彼方へと線を伸ばしていく。そして、もつれにもつれて膠着状態に陥り、身動きのできなくなった物語の束が、それぞれの物語が固有の速度でほどけていくのに任せるうちに、絶妙の手順/タイミングでもつれがほどけ、いつの間にか問題は遠く彼方にまで流れ去っている。

 蛯子が「物語自身のスピードで」と言うのを聞いて、私はこのことを思い浮かべた。「物語自身のスピードで物語を読む」とは、複数の固有の物語が、それぞれのスピードでほどけ、それにつれて全体が変容していくのを見詰めるということではないか。それは言わば「成熟」を待つことであり、そのように「待つこと」自体を受け入れることでもあるだろう。それゆえ「ライブラリ」が社会との接点であり、擦り剝けた傷である‥というのはわかる気がする。同時にそれは敏感な粘膜が外に剥き出しにさらされている箇所であり、社会とのつながりを切断して、固く貝殻を閉ざした場所ではないということだろう。

 「謎」がさらに魅惑的に深められる様を、ライヴで目撃することとしたい。

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ライヴ/イヴェント告知 | 23:30:22 | トラックバック(0) | コメント(0)
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