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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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ディスク・レヴュー 2014年6月〜12月その2  Disk Review Jun. - Dec. 2014 vol.2
 2014年後期ディスク・レヴュー第2弾は器楽的インプロヴィゼーションからの14枚。前回の「その1」で採りあげた音響的インプロヴィゼーションの作品群について、原田正夫から「クラリネットとソプラノ・サックスばかり」と指摘されて思わず「なるほど」と唸ったが、今回の選盤では、Michel Donedaを例外として、ピアノと弦楽器が主体となっている。楽器特有の音色というか、「皮膚の薄さ」みたいなものが分かれ目となっていることは容易に想像できるが、と同時に例外であるDonedaの特異性が照らし出され、くっきりと浮かび上がることにもなってくる。



Christian Wolff / Pianist: Pieces performed by Philip Thomas
Sub Rosa SR389
Philip Thomas(piano,prepared piano)
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/SR389CD.html
   http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=19167
 洗練された、とはこの場合、徹底した濾過により不純物を取り除いた‥ということであり、また同様に鍵盤/アクションの重さも調性的重力も徹頭徹尾排した‥ということであるのだが、そうした果てに開けるフェルドマネスクな優美さは、このところの即興演奏の傾向にとって、救いようのないほど甘美な落とし穴ではないかと思う。対してヴォルフの作曲作品から生まれる響きは、そうした「蜃気楼化」とは縁もゆかりもない路傍の小石のような素っ気なさと確かな手触りに満ち満ちている。残酷なまでに開かれた空間にあって、音は転がり、飛び交い、すれ違い、ぶつかり合う。だがピアノの演奏により眼の前に視界として開けるのは、その限られた一部分だけだ。キャメラのフレームの中に、外から突然飛び込んでくる音が、一瞬だけ描き出す交錯の軌跡。彼の作品はそうした瞬間の敷き重ねとしてできている。『ジョン・ケージ・ショック』で聴かれた、張り詰めた沈黙とそそり立つ音の壁はここにはない。音は積み重なることなく、線すらほとんど描こうとしない。ましてや緊密な構造を築き上げることなど。そこでは「即興的瞬間」が、至るところに口を開けている。全3枚組のうち、たまたま通りかかった音たちの連なりがフレーズやリズムを擬態し始めるCD2やCD3に収録された2000年代の作品よりも、CD1所収の1950年代の作品に、荒れ果てた風通しの良さを感じずにはいられない。


Morton Feldman / Two Pianos and other pieces, 1953 - 1969
another timbre at81x2
John Tilbury(piano), Philip Thomas(piano), Catherine Laws(piano), Mark Knoop(piano), Anton Lukoszevieze(cell), Seth Woods(cello), Mira Benjamin(violin), Linda Jankowska(violin), Rodrigo Constanzo(percussion), Taneli Clarke(percussion), Naomi Atherton(horn), Barrie Webb(trombone)
試聴:http://www.anothertimbre.com/feldmanpiano.html
 前稿でフェルドマンをけなしておきながら、すぐさまそのフェルドマンの作品集を採りあげる理由は、フェルドマン作品の演奏をはじめ、フェルドマネスクな振る舞いの多くとは異なり、ここでは音が冷え冷えとした固い芯と冷たい密度/質量を有していることにある。希薄さに憧れ、自らを早急に消去してしまおうとする短絡志向の代わりに、隠しようもない音の身体の鈍重さを研ぎ澄ますべく向けられる耳の視線の鋭敏さがある。
 冷たく張り詰めた水面から、さらに厳しく冷えきった大気へとたちのぼる「湯気」。私にとってフェルドマンの作品は、その無重力性を含め、ほとんどそうした「湯気」のたゆたいとしてあるのだが、ここではピアノの筐体のうなりや、ペダルによる弦の制動の手応え、ハンマー・アクションの重み等が、先に述べた密度/質量の硬いしこりのような手触りを与える。だが、それにしても見事な演奏/録音だ。代表作品として長大な弦楽四重奏曲やオーケストラ作品も挙げられるフェルドマンだが、ここでの演奏を聴いていると、すべてはまずピアノのために、ピアノによって書かれたのだと思わざるを得ない。


John Edwards, Mark Sanders, John Tilbury / A Field Perpetually at the Edge of Disorder
Fataka Fataka 9
John Edwards(double bass), Mark Sanders(drums,percussion), John Tilbury(bird calls,piano,tape)
試聴:http://recordings.fataka.net/products/529458-a-field-perpetually-at-the-edge-of-disorder-john-edwards-mark-sanders-john-tilbury-fataka-9
 John Tilbury再び。一聴、ゆるやかな倍音のたゆたいはフェルドマネスクな洗練を予想させるが、すぐに凍てついた打鍵の厳しさ、内部奏法による弦のくぐもった交響がつくりだすぞっとするような虚ろさ、プリペアドによる響きのマテリアルな輝き等に冷水を浴びせかけられ、眼が覚める。先に述べたプリペアドや内部奏法はもちろん、単音のトリルやコード弾きの響きの滲ませ方等、ピアノの多面的な力能を自在に操って、多方向へと同時多発的に展開するTilburyの魔法見たいな手さばきを、他の二人は、天才ドリブラーを迎え撃つディフェンダーのように、距離を詰めすぎず、しかるべきスペースを保ってフォローする。この距離感がここでの演奏を特別なものにしている。通常のピアノ・トリオだったら、もっと遠いか、もっと近いかのいずれかだろう。遠くからフレーズやリズム・パターンを投げ交わしあうのでもなく、近接戦で身体を触れ合わせながらアクションの応酬を繰り広げるのでもなく、まさに一音一音の響きのぶつかり合い/溶け合いの次元で、事態は進行する。音の輪郭が明確な部分が多いため、昨年のベストと言うべきJohn Butcher,Thomas Lehn,John Tilbury『Exta』(Fataka)の幽明境をさまよう感覚はないのだが。昨年のベスト選にあちこちで挙げられていたSophie Agnel,John Edwards,Steve Noble『Meteo』(Clean Feed)も充分に優れた演奏なのだが、本作と並べて聴くといささか色褪せる。「ピアノ・トリオの革命」というよりは別次元か。Fatakaに拍手を。


Ishmael Wadada Leo Smith, John Tilbury / Bishopsgate Concert
Treader trd021
Ishmael Wadada Leo Smith(trumpet,zurna), John Tilbury(piano,prepared piano,bird whistle)
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=bx7bDoY5Umg
 John Tilbury三たび。この爺さんは何なんだ。ちなみにJohn Tilbury 79歳、Ishmael Wadada Leo Smith 73歳。各々のソロとデュオを収める。Tilburyの響きと滲み、手触りと奥行き、の交錯がるくるめく世界を開いていく演奏に対し、Leo Smithはさながらサウンドの筆を振るって、ゆらりとたなびく線と、細やかに震える斑紋と、一気呵成にまっすぐ引かれた軌跡により、響きの「書」を描き上げる趣。空間の広がりを活かし、トランペットは固有のヴォイス/叫びの地平を蹴立てて、よりアブストラクトで、より具体的に音響でしかないような次元へと踏み出している(匿名的なノイズの発生装置としてのズルナもまた)。Tilburyはそれを懐深く迎え入れつつ、自らの音の網目を敷き重ねる(時に直接的なアクションの応酬、よくあるフリーなやりとりに陥ってしまっている場面もないではないのだが)。こちらにTilburyがいて、あちらにLeo Smithがいて、そこに対話が生まれるというより、どちらのものでもない二人の間の領域に、やはり二人のどちらのものでもない響きが浮かび上がる。


Hugh Vincent, Yasumune Morishige / Fragment
Improvising Being ib28
Hugh Vincent(cello), Yasumune Morishige(cello)
試聴:https://julienpalomo.bandcamp.com/track/fragment-i
 音が二つながら一つになって噴き出してくる。フレーズの投げ交わしによる対話などではなく、エッシャー描くところの互いをペンで素描し合う右手と左手のように、両者は互いを分つべき距離を欠いて、ぴたりと肌を重ね合うところから演奏を始める。そこでのやりとりは、たとえば昆虫の生活世界において、分泌物の濃度変化がたちまちに生理的反応を引き起こすように直接的だ。叩く音、擦る音、掠れと軋み、引き絞られる弦の張力、楽器を表面を滑る掌。とりわけ特徴的なのは、弓の背を用いたアルコにより生み出しているのだろうか、ミッシェル・ドネダがソプラノ・サックスから引き出す「息音」にも似た、微かに泡立ちを含んで迸る音の流れの使用である。それは弦を振動させずに、その隙を突いて滑り出る、すばしこい細流にほかならず、弦に弓を極端に強く押し当てて生み出す、圧縮され張り裂けんばかりの軋轢に満ち満ちた重苦しく震える音色と鮮やかな対照を描く。ふと漏らしてしまう吐息のようにすべてに一歩先んじる前者と、口ごもり、言いよどみ、乾いた舌が上あごに貼り付いて、痛々しい吃音に至る後者。二人の絡みの相互浸透的な濃密さは、ほとんど器楽演奏の極みに達している。


Michael Francis Duch / Tomba Emmanuelle
Sofa SOFA543
Michael Francis Duch(contrabass,voice)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=20322
 コントラバスの弓弾きが果てしなく繰り返される。ゆるやかに張り詰めた弓の往復が生み出す凝縮された響きが、会場である美術館の暗く冷たく重々しい空気に深々と切り込み、彫り刻んでいく。固い床や壁に反射し、空間を駆け巡った音は、海から蒸発した水がやがて雨となって山々に降り注ぐように、自らの生まれた場所へと還り、弓の往復に巻き付いて膨らませ、さらに響きを豊かなものとしていく。やがて音は仰ぎ見る広大な空間全体を揺り動かすに至る。『エマニュエルの墓』との表題が気になって調べてみると、本作は音楽祭の委嘱により、ノルウェーのアーティストEmanuel Vigerandの作品を収蔵した、彼の名を冠する美術館の中の大霊廟で行われた演奏だった。写真を見ると、ゆるやかに湾曲し天井と一体となった壁面をフレスコ画で埋め尽くした洞窟様の空間は、まるで胎内を思わせるなまめかしいものとなっている。墓=胎内という輪廻の中で共鳴/共振点を探りながら続けられる演奏は、この空間を遍く満たす羊水を呼吸するものとなった。


Cenk Ergun / Nana
Carrier Records CARRIER 025
So Percussion(percussion ensemble), Joan Jeanrenaud(cello)
試聴:http://carrierrecords.com/index.php?album=cenk&category=all&artist=none
 1曲目の金属調律打楽器(おそらくはヴィブラフォンやグロッケンシュピール等)のちらつくような交錯や共振のループ形成、あるいは倍音のたゆたいにフォーカスした演奏は、Alvin Lucier「Silver Street Car」やNick HenniesとGreg Stuartのデュオを思い浮かべさせるが、ここでの演奏は打撃の間合いや音程の間の干渉をコントロールするよりも、前掲作同様、空間を呼吸することを思い描いている。対して2曲目は一人のチェロ奏者の多重録音による四重奏曲。亀裂が断層を生じ、ズレが累積して波紋を広げていくような統合失調症的構成を持つ。歩みを緩めて止まりかける向こうにすっと走り出す影が浮かび、ふと歌い始めた調べがズレながら重なり合い、かたやピチカートが句読点を打つという具合。


Natural Morta / Decay
FMR Records FMRCD361-0914
Frantz Loriot(viola,objects), Sean Ali(contrabass,objects), Carlo Costa(drums,percussion)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=18466
 絶え間ない弦の軋み。間を置いた控えめなピチカートと弓弾き。パタパタとブラシで奏されるスネア。それぞれ別の層を動く響きが時に時間軸状で重なり合い、時に空間座標上で遠く離れながら線を結び合う。引き絞られる弦。柔らかく鳴り響くシンバル。掻きむしられる弦とネック。彼らは互いに背を向け合い、壁の方を向いて各自の作業に取り組む(たぶん)。尖らした硬い鉛筆で描いたような、線の細い乾き切った響きは決して溶け合うことなく、孤独な彷徨を続け、空間にすぐに消え失せてしまう希薄な軌跡を描く。匂い立つような金属質の倍音、遠ざかるタムの足音、低く唸り続ける弦。ばらばらに動いていた音が、ふとした拍子に同期の兆しを見せ、集い始めたところで、はらはらとこぼれ落ちて、出来かけた定型をさらさらと崩していく流動。そこからまた新たな響きが芽吹く。2013年作品。


Populista Presents Ralf Meintz, Karolina Ossowska, Mikolaj Palosz play Giuseppe Tartini La Sonata in Sol Minore Al Terzo Suono
Bolt BR POP10
Karolina Ossowska(violin), Mikolaj Palosz(cello), Ralf Meintz(sound design)
試聴:http://www.art-into-life.com/phone/product/5481
 「悪魔のトリル」で知られるイタリアン・バロックの作曲家/ヴァイオリニスト、ジュセッペ・タルティーニの作品を、引き伸ばされた強靭な持続の下、抑揚や装飾音一切無しで弾き切った結果、ほとんどTony Conradを思わせるミクロな衝突と軋轢に満ちた世界が姿を現す。ヴァイオリンの平坦な軌跡は、その鋭く研ぎ澄まされたエッジで空間を切り裂き、チェロはその凝縮された音色の広がりにより床を伝い、埋め尽くして、壁を這い上る。音高的には時折あからさまな音階も姿を現すなど、いかにもイタリアン・バロック的な叙情的な親しみやすさをたたえているのだが、いかんせん、この空間/時間を支配しているのは、音高組織の政治力学ではない。もちろん一瞬ごとに弓の下から生成するサウンドの強度が、このそそり立つ音の建築を支えているのであって、コンピューター操作で音源の時間軸を操作しても、この手に汗握る緊張は得られまい。


Michel Doneda / Everybody Digs Michel Doneda
Relative Pitch RPR1027
Michel Doneda(soprano saxophone)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=19628
 久しぶりのソロ・レコーディング。まっすぐな管に吹き込まれた息は、リードの振動の起動因へと自らの力動のすべてを差し出してしまうことなく、狭い隙間をすり抜け、幾つにも分流し、管のあちこちを震わせながら空間へと射出され、思い思いの速度と軌跡を描いて、空気を揺すり立てる。こうして息音を自在に操る演奏を聴いていると、管楽器のリードが抑圧的な整流化装置であることがよくわかる。息に内在する多方向へと散乱する力は、リードによってその分岐する流動性をせき止められ、倍音が生じるとは言え、一定の振動モードに馴致されてしまう。野生の「息」の家畜化。その頸木を逃れたところでは、息とは「プネウマ」の原義通り、何よりもまず「風」であることがわかる。それゆえ、Donedaの演奏は大気の流れ/動きと文字通りインタラクティヴなものとなる。放たれる息の流れが、空気の壁に立ちふさがれ、そこにミクロな押し引きが生じる。管の鳴りが空間へと波紋を広げ、震えた空気が管を揺すぶり入り込もうとする。彼の「演奏」は、そうした眼に見えない、耳にもほとんど聴こえない潜在的な層での闘争/交感であり、私たちが「聴いて」いるのは、それがたまたま音として一部顕在化したものだけではないのか。ならば水面下で繰り広げられる力動の交錯に、そこで生じる渦や乱流、素早い噴出に身体をどっぷりと浸してみなければなるまい。クラシック音楽のトレーニングは、音や響きの有する様々な側面のうち、(基音の)音高のみを極端に重視し、それ以外の豊かさをばっさりと切り捨ててしまう傾向があるように思うが、そうした耳でこうした演奏を聴いても、おそらく、いったい何が起こっているのかさっぱりわかるまい。きっと「ガラスを爪で引っ掻いたのと同じ」にしか聴こえないことだろう。


Michel Doneda, Le Quan Ninh / Aplomb
Vandouevre 1542
Michel Doneda(soprano saxophone,sopranino saxophone), Le Quan Ninh(percussion)
試聴:http://grisli.canalblog.com/archives/2015/03/03/31634144.html
 永年の盟友同士のデュオ。Le Quan Ninhもまた、様々な音具を駆使して多種多様な音色を引き出しながら、ドラムのスキンや他の各部の振動を通じて大気と交感する演奏者であり、演奏はさながら熱帯雨林の喧噪をとらえたフィールドレコーディング作品のように、多元的にあちらこちらから立ち上り、流れ行く響きの絶え間ない流動として現れてくる。とは言え、そこにはやはり「デュオのかたちづくる地平」が(おそらくは聴き手の因習的な聴取のうちに)生じてしまい、大気の流動と踊るダンスは、大気の生々流転の向こうに共演者の音を見透かすものへと変じてしまう。前掲のソロに比べ、音粒子の速度や運動性が若干おとなしく感じられてしまうのは、ひとつにはそのせいだろう。もうひとつの原因は、ステージ全体を漫然ととらえた録音にある。前掲作の録音を担当した、やはりDonedaの永年の盟友である録音技師Pierre-Olivier Boulantが、彼のトレードマークである手持ちの長いブーム・スタンドを、興趣の向くままに振り回しながら録音したならば、響きははるかに活き活きとしたものとなったのではないだろうか。


歌女(Kajo) / 盲声(Blind Voice)
Blowbass  blowbass-003
高岡大祐(tuba)、石原雄治・藤巻鉄郎((bassdrum,separated drumkit,percussion)、
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/blowbass/blowbass-003.html
 本ブログで採りあげたライヴでは、解体したドラム・セットを分有する二人の打楽器奏者が、リズムを迸らせ、自在にスペースをつくりだしながら音楽を組み替え、パーカッシヴなアタックからドローンとしてうねる持続音まで、不定形なサウンドをブリコラージュ的に生み出すチューバと一体となって疾走し、変容し、流動してみせる「歌女」だが、このデビューCDでは、打楽器奏者二人の各々のソロ作品同様、打楽器演奏の音響的な側面に焦点が当たっていて、演奏は重い静謐さへと傾き、チューバのハウリングやモジュレーションとしか思えない音響にも冷ややかな距離が感じられる。疾走というよりは緩やかな生成と言うべきか。しかし、音の滲みや気配よりは、実際に生じた物音や動作が引き起こしたノイズの確固たる輪郭と質量が感じられ、後半に向かって演奏の直接的密度が増して、運動性が前景化してくるため、やはり器楽的インプロヴィゼーションに割り当てることとした次第。冒頭、演奏場所にスクーター(?)で乗りつけるところから始まり、最後には部屋から出て、大崎の街頭に歩み出すという構成は、ギミックというより、本作が持っているフィールドレコーディング性(ディスク・レヴュー その3を参照のこと)や、「in situ」性(ある空間・時間の中で起こるすべてを音楽/演奏として聴く仕方)の具現化ととらえたい。


Harry Partch / Plectra and Percussion Dances
Bridge Records BRIDGE 9432
試聴:http://www.bridgerecords.com/products/harry-partch-plectra-and-percussion-dances/
 オクターヴを43に分割した特異な微分音階や不思議な形状をした創作楽器群等により、反時代的な「奇矯さ」ばかりが喧伝されるPartchだが、ここでの溌剌としたノリの良いフレッシュな演奏を聴くと、従来の厳かな演奏が歴史博物館の展示物のように思えてくる。もちろんアフリカだったり、中近東〜西アジアだったり、東南アジアだったりする音色のエキゾティシズムは極めて濃密なのだが、自由闊達めくるめくリズムの噴出/展開ゆえに、そうした濃密さのうちに立ち尽くし窒息してしまうことなく、次々に新たな扉が開け放たれていく。1953年の初演時コンサートの再現という趣向。思わず発作的にデューク・エリントンとファン・ガルシア・エスキベルの間に並べたくなるモンドな瞬間も。Lou Harrisonよりずっとポップ。


Arnold Dreyblatt / Arnold Dreyblatt, Choice
Choose Records 無番号
The Orchestra of Excited Strings
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=14827
 激しく乱打される弦の生み出す響き/倍音の錯乱した交錯で知られるArnold Dreyblattの1977年から2007年に至る発掘音源編集盤。ここではむしろ持続の強度が前面に押し立てられているのが興味深い。持続音のたゆたいのうちにきらめく金属質のかけら。きらきらとした打弦の散乱を、ハーディ・ガーディの持続とベースの弓弾きが生み出す倍音の雲が包み込む。あるいはハーディ・ガーディとベースの弓弾きの重ね合わせが、ほとんど瞑想的な分厚いうねりをつくりだす底の方から、響きの輪がゆったりと巡りながら浮かび上がってくる。ひとつひとつの楽器ではなく、混沌のうちに輪郭を溶解させる中から生じてくる集合的な息づき/脈動。一見類似しているGlenn BrancaとDreyblatt の違いは、Dreyblatt は常にミクロな隙間を保ち、さらさらとしたアコースティックな響きと倍音が互いに映り込むようにして、Brancaのように荒っぽい電気増幅の「粘性」を活かして、隙間なくモノトーナスにそそり立つ壁を構築しようとしないことだろう(だからこそBrancaはJohn Cageに「ファシズム的!」と批判される0:だが)。Dreyblattがアパラチアン・ミュージックを演奏するカントリー・ロック・バンドMegafaunに客演した『Appalachian Excitation』(Northern Spy NSCD 044)もなかなか面白い。
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ディスク・レヴュー | 00:37:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
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