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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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ディスク・レヴュー 2014年6月〜12月その3  Disk Review Jun. - Dec. 2014 vol.3
 2014年後期ディスク・レヴュー第3弾は、フィールドレコーディングやドローンからの9枚。前回、前々回に比べやや少ないなのは、フィールドレコーディング的な素材や手法を用いながら、ミュジック・コンクレート風に緻密に構成された作品群、Ireneusz Socha『Polin』(Mathka)、Joseph Clayton Millsらによる『Huntress』(Suppedaneum)、Arturas Bumsteinas『Different Trains』(Bolt)、Fossil Aerosol Mining Project『17 Years in Ektachrome』(Hand-Held Rcordings)等を、ポップ・ミュージック枠で取り扱うことにしたせいだ。理由はと言えば、ポスト・プロダクションによる音響操作や緻密な編集構成が、今回の高岡大祐『女木島』のレヴューで触れた「フィールドレコーディング特有の冷ややかな視線、機械の聴覚の異質性」を損ない、「耳の凝視」の強度を欠くように思われるからなのだが、もちろん失うことを通じて得るものも多い。それらを評価するのは、スタジオやMTRを楽器として活用するポップ・ミュージックの視点にほかなるまい。



David Michael, Slavek Kwi / Mmabolela
Gruenrekorder Guruen 144
David Michael(fieldrecording,editing), Slavek Kwi(fieldrecording,editing)
試聴:http://www.gruenrekorder.de/?page_id=12575
 この耳の視界に飛び込み、突き刺さる音響の鋭さ/鮮やかさは一体何なのだろう(折り畳まれたジャケットの内側に収められた、巨大なミミズだかヤスデだかの、心臓によくない写真波のインパクトがある)。よくある背景をぼかして、手前の対象をくっきりと際立たせるというやり方ではない。奥行きのパースペクティヴをしっかりと保って、どこまでも見通せる透明性を持ちながら、なおかつ音は痛いほど皮膚に食い込んでくる。見知らぬ音に惹きつけられ耳がそばだてられ、音源を耳元にたぐり寄せるように聴覚がブーストされる、あのプロセスが随所で起こっているようなのだ。その結果、奥行きへと向かって整序されていたかに思えた空間のパースペクティヴは、距離を欠いた聴覚断片のモザイクへと変貌し、視点を移動しながら撮影したスナップショットを並べて構成したDavid Hockneyの異形なパースペクティヴを思わせるものとなっている。この不可思議さに魅せられ何度となく聴き返しているのだが、依然、謎は深まるばかりだ。かろうじてひとつ言えるのはFrancisco Lopez『La Selva』との比較で言えば、過剰ではあるが飽和せず、稠密ではあるが充満しないということなのだろう。熱帯雨林に生息する生物、とりわけ昆虫の驚くべき多様性は、かつて博物学者たちに「種」の存在を疑わせ、単に個物の果てしないヴァリエーションの連鎖があるだけではないかとまで考えるに至らせたわけだが、ここにはそうした自然の驚異に対するあからさまな抵抗が看て取れる。随所に見られる痛々しい傷跡のような編集の痕跡においてもまた。


Frederic Nogray / Merua
Unfathomless U23
Frederic Nogray (fieldrecording,editing)
試聴:https://unfathomless.wordpress.com/releases/u23-frederic-nogray/
 船のエンジン音が止むと、聴き手は辺りを包み、天へとたちのぼる虫の音の充満のうちに、ぽつんとひとり取り残される。微かな水音や足音。別の水の流れが次第に大きくなり、耳の視界の中央を占める。とたんに機内で聴くジェット機のエンジン音を数倍にした轟音が辺りを包む。にもかかわらず、虫の音は変わることなく一定に響き、そこに鳥の声も混じるから、フィールドレコーディングした音素材を重ね合わせているに相違あるまい。耳に迫る音世界の鮮明さ/迫真性は、決して前掲作に引けを取らない。だが、ここで前景化するのは鳥や虫の声ではなく、雨音であり、波のしぶきであり、先のジェット機のエンジン音(に聴こえる濁流の響きなのだろうか)であり、つまりは個別の点景ではなく、集合的な(あるいは複合的/構成的な)音景が異様なまでに圧倒的なプレゼンスで聴き手の身体に肉迫してくるのだ。ジャケットにはNograyによる「解説」として「この夢のようなコンポジションは、Merua(ホンジュラスの北岸)が遺した印象と数年前にペルーのアマゾン熱帯雨林で得たシャーマニックな体験の印象を共に編曲したものである」と記されている。確かにここには、常に「いつの間にか○○している」の連続であるような、飛躍を意識させずに瞬時に移動し、時間の流れを跳躍して、「あちら」と「こちら」、「あの時」と「この時」を自在に結びつけ、同時に体験してしまう異次元的な感覚が、ふつふつと息づいている。むしろ覚めることのない悪夢の感覚。エコーもファズもドローンもないが、すこぶるサイケデリック。200枚限定。


Francisco Lopez / Obatala - Ibofanga
無番号(The Epoche Collection - vol.3)
Francisco Lopez (fieldrecording,editing)
試聴:http://www.art-into-life.com/phone/product/5208
 Lopezの「熱帯雨林モノ」の代表作というべき『La Selva』の眼の眩むような圧倒的充満、オールオーヴァーな多焦点的広がりはここにはない。音は巧みに整理され、そこここに響く虫の音が、節度あるパースペクティヴを保っているようにすら見える。しかし、眼前に広がるサウンドスケープに耳を差し入れるならば、ここに示されている音響が巧妙に重層化され、互い違いに重なり合って、奥行きを見通すことが叶わないのに気づくだろう。
ハレーションをもたらす眩暈を誘わない代わりに、特定の響きに合わせたつもりの耳の視線は、いつの間にか他の響きへと横滑りしてしまい、音景を揺らぎや不整合をはらんだエレクトロニカ的な「反復」の集合ととらえている。一方、そのすぐ裏側では手前の虫の音の変容した反響や雨音、あるいは何物ともつかないざわめきが絶えることのない催眠的な変形を続けていて、時折、音景色がきっぱりと切り替わるたびに、いま何を聴いていたのかと途方に暮れることになる。300枚限定。


Yiorgis Sakellariou / Klaipeda
Unfathomless U24
Yiorgis Sakellariou(fieldrecording,editing)
試聴:https://unfathomless.wordpress.com/releases/u24-yiorgis-sakellariou/
 リトアニアの街や隣接して広がる森で収録した音源は、得体の知れない超低音の振動から始まる。その後も豊かに鳴き交わす小鳥や響き渡る虫の音に耳を傾けながら、通過する飛行機や作業機械の動作音、爆発音(発破を仕掛けているのだろうか)等が臆面もなく侵入してくることを隠そうとしないどころか、執拗に繰り返しさえする。同様に凄まじい水音が突然に噴出し、急に大雨が振り出し、作業ノイズの向こうに合唱らしきものが浮かぶ等、編集の跡もまたあからさまに示され、耳の視界は突然に切り替わる。暴力的な切断。それは雨音が高まったかと思うと、突然に遠ざかり、軒先からの滴りに焦点が合わされるといったように、屋外から屋内への耳の視点の移動によっても、またもたらされる。壁を通して聴く遠い雨音には、時折雷鳴のような響きが混じり、通過する飛行機や機械の動作音もまた回帰してくる。熱帯雨林に向けられたマイクロフォンが、獣や鳥、虫の声や、風や葉擦れの音、雨音やせせらぎの濃密な交響に耳を澄ますのに対し、ここで街に、そして隣り合う森に向けられた耳の視線は、響きの記憶を重層的に圧縮し、魅惑的な混淆物をかたちづくっている。200枚限定。


Simon Whetham / Never So Alone
Cronica 073-2013
Simon Whetham (fieldrecording,editing)
試聴:http://www.cronicaelectronica.org/?p=073
   http://cronica.bandcamp.com/album/never-so-alone
 巨大な空洞を風が吹き抜ける響きなのだろうか、虚ろな音がこだまする中、おそらくは吊るされた金物が風に揺れてせわしなくぶつかりあい、ブランコがキーキーと軋んでいる。虚ろな風の響きに電子音の繰り返しが重なり、その手前に浮かび上がる、小石をいじるようなカタカタと乾いたちっぽけな響きを、ますます小さなものにしてしまう。風の音はいよいよ強まり、すっかりパースペクティヴを欠いて、眼前を圧するほど巨大化しする。手前にぴちゃぴちゃとぬかるみの音が響く。空間を包み込む薄暗く茫漠としてとらえどころのない響きの移ろいと、手前に像を結ぶちっぽけな動作/物音の展開。時折きらめくはっとするほど美しい響きをよそに、すでにしてこうした構図自体が、見知らぬ街を当てもなく彷徨する者の不安や寂寥感をじくじくと分泌しており、時には圧倒的な「音の壁」が出現して、聴覚を、身体を、周囲に広がっているはずの現実世界から切り離すに至る(すべての音源はリスボンでフィールドレコーディングされた)。Whethamの作品は、やはりこうした暗いものの方が出来がいい。2013年作品。


高岡大祐(Daisuke Takaoka) / 女木島(Megixima)
Blowbass solosolo-006
Daisuke Takaoka(tuba,fieldrecording)
試聴:
 ある日突然ひとりになれるところへ行きたいと思って旅立った、香川県高松市沖の女木島における滞在中のフィールドレコーディング。チューバを練習し、音を録音し、食料を手に入れるために釣りをする日々が、そのまままるごと、ここには収められている。様々な速度/強度の息や口腔で生み出すことの出来る多種多様なノイズを、チューバの曲がりくねった管に吹き込む試みは、拡張奏法の開発というより、異言症(グロッソラリア)の発作のようにしか聴こえない。耳が響きを聴き取って息や口唇をコントロールしているというより、息と管内の気流、そして周囲の気圧の間の動的平衡が暴走して、高岡の身体から、音としての確固たる輪郭を持たず、ぐずぐずに溶解した骨無しの不定形(アンフォルム)の、言わば「声のヒルコ(蛭子)」を、聴取など到底追いつかぬ勢いで吸い出し噴き出させている‥とでもいった印象なのだ。島人たちが日常的に交わす会話のあっけらかんとした残酷さを含め、諸星大二郎的世界とでも言おうか。本作に収録されたトラックの過半を占めるチューバの練習を、インプロヴィゼーションと位置づけることも可能なのに、なぜ本作をこの枠に割り当てたかと言えば、チューバの音響にも、島人の話にも、釣りをしている間に過ぎゆく時間にも、フィールドレコーディング特有の冷ややかな視線、機械の聴覚の異質性が向けられており、そのことが隠しようもなく明らかになっているからにほかならない。


Daniela Fromberg, Stefan Roigk / Doublette
Edition Kunstraum Michael Barthel 無番号
sound:heaters,flue,ventilator,water dripping,chimney sweeping,vibrations,demolition work,removing of ceiling beams,deconstructing the scaffolding,blow torch,buzzer
試聴:http://www.art-into-life.com/phone/product/5582
   http://omega-point.shop-pro.jp/?pid=88113623
 ミント・グリーンのベネチアン・ブラインドを組み合わせたコンストラクションと壁面に取り付けられたスピーカーから放出される音響(『Heat』)と、廃物の木製ガラス窓枠を組み合わせたコンストラクションとガラス面に装着したスピーカーから(『Transition』)という、二つのインスタレーションの音響を収める。前者は水音とその変容体(電子的変調ではなく、録音の際の耳の視点の相違が差異を生み出しているのだろう)が背景ノイズに浮き沈みする中、手前にふと物音が現れる。むしろスクエアな空間の広がり/形状が硬調のトーンで映し出される印象。後者では背景音がより明確に機械の動作音による構成へと置き換わり、響きに巨大な質量と拡大された距離が触知されるが、サウンドの硬質な冷ややかさは変わることがない。50部限定。



Craig Shepard / On Foot:Brooklyn
Edition Wandelweiser Records EWR 1303
Katie Porter(clarinet), Devin Maxwell(snare drum,glockenspiel), Jack Callahan(melodica,triangle,bottles),Erik Carlson(violin), Nick Didkovsky(electric guitar), Dan Joseph(hammer dulcimer), Larry Polansky(electric guitar), Mathew Scumer(baritone saxophone), Kristen McKeon(alto saxophone), Erin Rogers(tenor saxophone), Craig Shepard(music,text)
試聴:https://craigshepard.bandcamp.com
   http://www.onfoot.org/onfootbrooklyn
 様々なロケーションでの野外演奏のフィールドレコーディング。と言っても、よくある「名所絵」的な構図とは程遠い。まず、その場に特有のサウンドスケープのじっくりと時間をかけた提示があり、演奏はそこにうっすらと香りを付けるように加えられる。ことさらにアンビエント的でも、かといって街頭ハプニング的でもない演奏は、本当にその場で演奏されているものなのか、後から付け加えられたものなのか、実のところ聴覚だけでは判断できない。ひとつ言えるのは、それらが音楽としての輪郭を有していながら、かと言って自己を徒らに際立たせることなく、すでにある風景の傍らにさりげなく佇んでいる‥‥ということだ。そう、ここでの主役はあくまでも「場の音」であり、映像にたとえるなら、演奏はその場で鳴っていて、なおかつその姿はスクリーンに映らない、すなわちフレームの外から聴こえてくるように感じられる。我々は外界の一部をフレームで切り取って、それを風景として眺め、慈しみ、愛でる。それが絵画や写真であれば、フレームの外部は存在せず、フレームの、すなわち風景の完結性はより確かなものとなる。しかし、聴覚は原理的にそうした完結性を持たない。それゆえ、弛緩しきった音が安逸に横たわるだけの「ヒーリング・ミュージック」に、せめてもの彩りにと、遠くで遊ぶ子どもの声やら小鳥の声といった切断され、ひからびた貧しい心象風景を「添加」することが行われる。ここでは話は逆だ。我々の外部にある「風景」の、そのフレーミングの外側に、さらに世界が広がり息づいていることを明らかにするために、演奏は付け加えられる。2013年作品。


Gilles Aubry / The Amplification of Souls
Adocs Publishing
Gilles Aubry(fieldrecording,editing)
試聴:http://www.earpolitics.net/projects/the-amplification-of-souls-bookcd-on-adocs-to-be-released-end-of-sept-2014/
 コンゴの首都キンシャサの市街、及び市内のペンテコステ派教会における集会のフィールドレコーディング。付属のB6版78ページの冊子(むしろこちらがメインで、CDの方が付属資料なのだが)には、Aubryが収録した音源を用いて行ったサウンド・インスタレーションに対するレヴューと今回のプロジェクトに関するAubryへのインタヴューが収められている。その内容の紹介は私の手に余るが、Murray Schaferが人間のつくりだすノイズにより汚染されたサウンドスケープを「ロー・ファイ」と呼び、貶めていたことに対する批判は興味深い。実際、キンシャサにおいて電気増幅に拠る歪みやハウリングは、もはやサウンドの欠かせない、そして活き活きとした一部となっているのだ(その点でChristina Kubischによる昨年の傑作『Mosaique Mosaic』と似ている)。特に市街各所で収録された音源のコラージュとなっている1曲目において、マイク・テストから始まる電気増幅された声やギターの音は、手前を横切る人々の声や自動車の交通騒音と明らかに異なる手触りを有しており、パースペクティヴの凄まじいばかりの混乱にもかかわらず、くっきりと浮かび上がる。対して教会に集う群衆の間に入り込んだ2曲目においては、電気増幅された説教(というかアジテーションというか)に熱狂した人々が口々に叫び、さらにはそうした人々もまたマイクを向けられて、混沌としたやりとりが増幅放射され、恐るべきカオスをつくりだす(ゴスペルを一斉に唱和するような「調和」などどこにも存在しない)。Aubryは人々の間を泳ぎ回りながら、あちこちにマイクを向ける。その様は『神聖騎士』でヴードゥー儀式のトランスをキャメラで撮影したマヤ・デーレンにも似て、人々の興奮に自らを溶け込ましているようだ。映像人類学において、フィルムが何をとらえ記録できるかが論じられたように、録音の可能性が論じられなければならないだろう。ひとつ言えるのは、視覚像を欠くことにより、対象化ための(あるいは対象化による)「距離」を確保できないがゆえに、録音の聴取は境界/輪郭の溶解による同一化の圧力を、(音声を伴う)映像よりもはるかに強烈に受けるということだ。聴いていて、ほとんど集団悪魔払いの現場に放り込まれたような恐怖を覚える。ぼんやりとした響きの「染み」からカイロ市街の雑踏がむくむくと姿を現す前作の魔術的驚きはないが、ここには録音機器が鮮明にとらえてしまう「現実」への痛烈極まりない批評があり、それはまた別種の足元を揺さぶるような驚きを与えてくれる。そこには確かに同種の眼差しや手つきが横たわっているように感じられる。
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ディスク・レヴュー | 15:47:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
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