ハープの4つの側面 − Rhodri Davies『Pedwar』ディスク・レヴュー Four Facets of Harp − Disk Review for Rhodri Davies "Pedwar"
2015-04-29 Wed






また、David Toopによるライナー・ノーツが収められており、彼は「ハープ」という楽器の「古さ」にシンボリックに言及し、途中でJohn Cageによる20台のハープのための作品に触れながら、楽器の歴史を東大寺正倉院の収蔵物以前にまで遡っていく。ようやくRhodri Davies『Wound Response』に話が及んだかと思うと、彼はそこにアフリカのリズムを聴き取り、話題はKonono No.1等へと横滑りしていく。『An Air Swept Clean of All Distance』を聴いてCy Twomblyから古代へと通ずる道筋を思い描くというのも、「古代」的シンボリズム+ワールド・ミュージック的な視点に基づくものであり、全体を通じて、どうも「お仕事」的な安易さが感じられる。大風呂敷を広げるばかりで、おそらく彼にはRhodri Daviesの音楽/演奏自体を掘り下げる気があまりないのだろう。


当時の私が『Trem』をどのように聴き、衝撃を受けたか、2004年のDavies/Butcherデュオによる来日時のライヴ・レヴュー「テムズ川は深く静かに流れる」(『News Ombaroque』vol.69掲載)から、この作品について触れた部分を引用しよう。
虚空に明滅するソプラノ・サックス。輪郭がにじみ、そこから溶けて流れ出すような電子音。石造りの床を這う冷気の揺らめき。遠くでようやく暖まりだしたスチームパイプがカーンと甲高い音を響かせる。それらの音どもは冷たい湿気を含み重く垂れ込めた空気の中で、思い思いに様々な波紋を広げながら、決してひとつにはなろうとしない。まして、そこに置かれた1台のハープへとは収斂しようもない。ある音は身体を軋ませながら宙高く弧を描き、同じ弓奏から生み出されたもうひとつの音は、乾きしわがれて床に火花を散らしている。むしろここに働いているのは、演奏者の意図以上に演奏空間の特性による選択である。
デイヴィスのソロ作品『トレム』は、彼と盟友マーク・ウォステル(vc)が根城としている教会オール・エンジェルズで録音されている。聖堂の圧倒的な空間ヴォリュームは、神岡鉱山の地下深くに満々とたたえられた重水がニュートリノの通過を逃さないように、微細な音すら余すことなくとらえ、ねっとりとした波紋の広がりを通じて、空間の隅々にまで伝播させていく。演奏は決して先を急がない。音数も少ない。過剰な残響の充満に盲いてしまうことのないように。だが音(群)と音(群)を隔てるしかるべき間は、波紋が遠ざかり、空間が平らかに静まるのを待つだけでなく、彼が空間を渡っていく音に眼を凝らしている時間でもある。いやむしろ、彼は水からが放った音を、そこで初めて聴いているようにすら感じられる。意識に映る音のイメージを追いかけていく指先ではなく、遥か空間を渡って届けられる音を待ち焦がれる耳がそこにある。
(中略)こうして、空間からの呼びかけにその都度アクションで応えながら進められる演奏は、アクション自体が複数の音を同時に放つものであることも手伝って(これは弓奏を多用する結果であり、共鳴部分の多いハープの構造上の特性でもある)、必然的にずれをはらむことになる。それは全体を視野に置くことなしに、画布に顔をこすりつけるようにして次々に部分を描いていった絵に似ている。剥き出しの神経に触れてくるような感覚に鮮烈に訴える細部と、全体パースペクティヴの歪みのねじれがもたらす奇妙な生々しさ。それは、自ら放つ音がすぐさま空間に奪い取られる(空間に向けて音響を放つというよりも)ところから産み出されたものなのだ。このことは、テープを用いた表題曲の奥行きのない平板さ(本作の中で悪い意味で異彩を放っている)が、反対側から証し立てていることでもある。
ここで言及している「手元から奪い去られる音」のあり方については、同じ『News Ombaroque』vol.69に掲載された別の論稿(「音響について」連載第6回)においても採りあげている。そちらについても該当部分を抜粋引用することとしよう。
沸き上がる入道雲の向こうに筋雲が空高くたなびき、左手中頃には鱗状の羊雲が厚く層を成して垂れ込めて、一筋の飛行機雲がそれを貫いてどこまでも線を伸ばしていくと、いつの間にか足元には灰色の靄がねっとりとたゆたっている‥‥。ロードリ・ディヴィス『トレム』においては、そうしたあり得ない光景が、1台のハープから引き出された音響に拠り描き出されていく。美術館の展示室で見た慎ましい動き、手元を照らすそばから気化してしまいかねない希薄な響きが、大聖堂の最上のアコースティックを得て、このようにモノクロームながら豊かな陰影に富んだ、彫りの深い音像をかたちづくるに至ったのだろう。この感触は『トレム』の録音が行われた教会におけるコンサート・シリーズの演奏(『The All Angels Concerts 1999-2001』(Emanem)で聴くことができる)に共通している。ソロやデュオ演奏によるちっぽけなアクションが、大聖堂内の気象を揺り動かし、様々な形状の音の雲を浮かべ、あるいは霧や靄を操って、空模様を緩やかに移り変わらせていく。
彼は演奏の仕方を規定する要因として、楽器、聴衆、空間、グループ(共演者)の経緯との関係を並列して挙げ、次のように語っている。
「この教会では、空間の音響条件があるべき演奏の仕方を語りかけてくる‥‥『トレム』は空間と即興演奏することに深く関わっている‥‥私の音楽は、どんな場所でも同じことを演奏するというより、私がその中にいる環境に対して応答している。コール&レスポンスで演奏するのではなく、空間や自分のまわりにある音に敏感であるように‥‥。」
ここで空間は明らかに楽器の一部となっている。広大な空間をレゾネーターとして利用するということではない。そうした部分的な機能補充ではなく、この圧倒的な環境ヴォリュームと接続されることにより、楽器は決定的な変容をきたしている。ここで楽器は空間に深く埋め込まれ、分ち難く結びつくことにより、演奏者の手元から奪い取られ、この空間の一部となっている。楽器を携えた演奏者が空間(環境世界)の中に立っているという構図はもはや成り立たず、楽器は外部の環境世界に属している。演奏は指先(あるいはその延長と言うべき様々な音具)と楽器のインターフェースにより産み出されるが、音は生まれるやいなや、すぐさま彼の手元から奪い去られてしまう。結局のところ彼は、この広大な空間により変容/増幅された圧倒的な響きとして打ち返されるものしか聴くことができないのだ。
この後、論旨は、意識の中で鳴っている音を指先でたどるのではモノローグに過ぎず、それを「自己との対話」とするには、そこにズレを持ち込む必要があるとして、長井真理『内省の構造』(岩波書店)に触れていったりするのだが、それはさて措くとしても、その後の音盤レクチャー『耳の枠はずし』の「環境による音/響きの侵食」や、現在継続している『松籟夜話』で提唱している「環境・音響・即興」へとまっすぐにつながっていく論点が、もうここでほとんど示されていることに改めて驚かされる。すなわち、Rhodri Daviesは私にとって、「聴くこと」の新たな扉を開いてくれた、かけがえのない恩人のひとりなのだ。
試聴:

試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/confront/confront-16.html
http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=11811

試聴:https://boomkat.com/vinyl/580676-rhodri-davies-wound-response

試聴:http://www.thewire.co.uk/audio/tracks/listen_rhodri-davies-recordings
このボックス・セットの表題『Pedwar』とは、Daviesの故郷であるウェールズの言葉で「4」(男性形)を意味するとのことだ。4つの作品を収めた4枚のLPのボックス・セットに付けられた名前としては、一見、あまりに芸がないというか、単純かつ直接的過ぎて、かえって何の意味も持たないように思われる。しかし、彼はこの4枚のソロ作品は、それぞれ異なる制限の下での作品であると言う。『Trem』の抽象的でもっぱら音色に関わるヴォキャブラリー、『Over Shadows』のe-bowにより持続的に振動させられた弦、そして限定した本数の弦を張った小型のハープによる『Wound Response』と『An Air Swept Clean of All Distance』と。
「空虚と充満」、「電気増幅とアンプラグド」、「持続と断片」、「距離と近接」、「プリペアドや音具の使用の有無」、「音数の多さと少なさ」‥‥と、さらに幾つもの二項対立の基準軸を引き出すことができる。ロートレアモンの詩句「解剖台の上でのこうもり傘とミシンの出会い」における事物選択の「必然性」を構造的に分析してみせたレヴィ=ストロースなら、さらに多くの軸線を数え上げることができるだろう。
先に触れた2004年の来日時のButcherとのデュオにおいて、Daviesはe-bowをはじめ幾つかの音具を用いたのだが、その選択はButcherの演奏に対する即時の反応ではないように見えた。眼の前で音を放つ共演者だけにフォーカスし、その一音一音に、一挙手一投足にミラー・イメージで即応するのではなく、会場である原美術館展示室のアンビエンス、アコースティック、聴衆の立てる物音を含めたバックグラウンド・ノイズ等を含めて総体としてとらえ(その中には当然、Butcherの音だけでなく自らの放つ音も含まれる)、これに対して戦略としての奏法を選択し、さらに局地的な戦術としてその時点時点での対応を判断しているように思われた。『Pedwar』に収められた4つの作品が、それぞれ一定の「制限」の下での演奏を貫徹していることに触れて、改めてそのことを思い出した。

これまで行ってきたライヴのフライヤーの集積を、「記憶の貯蔵庫であり、過去を振り返る際の参照点」と見なすDaviesにとって、過去の演奏の録音も当然そのようなものであるだろう。連綿と紡がれ、続いていく記憶。だが、今回の『Pedwar』はおそらくこの連続体に「以前/以後」を決然と分つ「切断」をもたらすことになるだろう。「以後」の彼の演奏と早く出会いたい。今とても強くそう思わずにはいられない。抑えようのない渇望として。
本稿は『Pedwar』の日本語によるレヴューの書き手を探しているという、Rhodri Daviesからの依頼を受けて書かれた。紹介をしてくれたFtarriの鈴木美幸に、そして何よりもそれを承諾し、音源資料等を提供してくれたRhodri Daviesに、末尾ながら感謝したい。と同時に執筆にとても長い時間がかかってしまったことをお詫びしたい。
なお、本作品について他に日本語で書かれたレヴューとして次のものがある。ぜひ、参照していただきたい。
http://www.ele-king.net/review/album/004339/
Rhodri Davies / Pedwar
Alt. Vinyl av058x
Tracklist
A1 Cresis 8:42
A2 Undur 5:15
A3 Trem 8:30
B1 Beres 6:14
B2 Plosif 3:07
B3 Berant 5:55
B4 Atam 3:38
C1 Over Shadows Part One
D1 Over Shadows Part Two
E1 Everything At Each Moment 3:17
E2 Questions Of Middle Distance 4:17
E3 The Concentric Blaze 2:59
E4 A Parallel Or Mirroring Space 6:21
E5 Here The Sun Does Not Enter 2:48
F1 'Pivotal' Object 2:34
F2 Only Compromises Were Arrived At In The End 2:07
F3 Closed Horizontal Illumined 2:17
F4 The Convergence Of How We Got There 6:50
F5 Fulfilment Of The Event 4:17
G1 Soaked Ruins Of A Raft 2:38
G2 In Distortion-Free Mirrors 3:00
G3 The Rule Was Corroborated In Non-Ordinary Reality 3:02
G4 Each Clear And Sudden Drop Is Itself 3:56
G5 Recapitulation Of 1:12
G6 Making Anything Perishable That Can Die 1:46
G7 Continues, Placement 3:25
H1 Fingers Pluck Played On By 1:50
H2 A Cut Circle Orbit Becoming A Virtual Universe 3:40
H3 The End Of Now 2:18
H4 Outward Radiating Against 2:14
H5 Each Annulling The Next... 3:14
H6 Wet Thru Mines Stone 2:32
H7 On The Outer Reach Of The Unending 4:52
A,B = Trem
C,D = Over Shadows
E,F = Wound Response
G,H = An Air Swept Clean of All Distance
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