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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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いま再び始まる - 「タダマス18」ライヴ・レヴュー  It Begins Again - Live Review for "TADA-MASU 18"



 チェロの弓弾きを思わせる掠れたたなびきが、眼前を水平に横切っていく。唸りをあげて吹きつける風よりも、足元にくっきりと映る雲の影よりも、ゆるやかに重々しく悠然と。平らかな音響の歩みが、果てしなく続く地平線の広がりや遠く霞む白い山並みを浮かび上がらせる。時は流れず、その場に立ち尽くして、変わることのない景色ばかりが息を止めたまま回り続ける。リズミックなシーケンスやループ等、虚ろな空間を埋め尽くして厄払いするための仕掛けは施されない。だから、ぞっとするような深淵が至る所に口を開けており、時に音響がそこにはまり込んで、チベット密教の巨大な喇叭にも似たこの世のものとは思えない非現実的な低音を轟かせる。「機械的あるいは電子的な変容をリアルタイムで施している」とのことで、おそらくはディレイの使用により、音響が一部折り重ねられる部分はあるものの、決して和声方向でのサウンドの積み重ねによる構築が目指されているわけではない。むしろ、ここに現れる響きは、尺八の独吟における、管の内部に張りつめた息が相互にせめぎあいもたらした、揺らぎによるモジュレーションや倍音の高まり、重音の軋むようなぶつかりあいのように聴こえる。ふとウードのソロが姿を現す。その像は電気増幅により鞭のようにしなう鋭さを欠いて、代わりに夢見るようなフォーカスの甘さをたたえたまま、しばし洞窟の壁に投影され、ふっと掻き消えてしまう。

 持続音による音楽はファンタジーに行きやすいのだが、この演奏は並外れた意識の集中により、どこにも行きつかない「孤独」に耐えている。【多田雅範】
 以前には歪んだ音色でヒステリックに弾きまくっていた彼だが、この10年はライヴ演奏でもギターの弦を責め立てるよりも、放たれた音の電子変調に没頭していた。この演奏はホールで行われており、エレクトロニクス操作と生な残響が入り混じることにより、言いようのない深さを生んでいる。【益子博之】
 左右のパンニングの酔うような効果がすごい。空間の広がりを最大限に強調している。まさにジャケットのイメージ通りの音。最後のウード演奏が一発だけですぐに消えてしまうところも素晴らしい。【小林豊美】

 3人のイメージをつなぎ合わせると、尽きることのない彷徨、孤独と消耗の果てに、一瞬の幻が立ち現れる光景が浮かび上がる。なるほど確かに。ただし、ここでの「操作」が、ミュジーク・コンクレート的な精緻な構築でも、結局はすべての音を同一の質感へと溶解/還元してしまうオタク的な電子変調の繰り返しでもないことは強調しておきたい。それは放たれた音を「素材」化して、改めて手元へと引き戻すことではなく、「放った音を手放さない」ことにほかなるまい。むしろ剣で言う「残心」のような。どこまでも心を残し続けること。少々披露された他のトラックを聴くと、もっと普通にBill Frisell的で、伸びやかな音色の描き出すアメリカーナなたなびきが甘やかなノルタルジアすら香らせている。そこで世界はこのように荒涼としてはいないし、もっと普通に呼吸が通い、時の流れが滞ることもない。この曲の「At Least There Was Nothing」との題名は、『Only Sky』という作品タイトルとまっすぐに響きあっている。本作品の核心を明かすトラックに違いあるまい。

 この日の「タダマス18」はこのようにして、1枚目からいきなり深く切り込んできた。最近の「タダマス」の「ポップ・サイド」(多田)と呼ばれもする前半の展開に、いささか違和感を覚えていた私にとって、これはうれしい驚きだった。

 続いてはSimon Jermynという耳慣れないベース奏者の参加作品が2枚続く。こうした新しい才能に出会えるのも「タダマス」の醍醐味の一つだ。

ただ2 Ingrid Laubrock(ts), Mat Maneri(va), Tom Rainey(dr)と、「タダマス」常連で固めたSimonのリーダー作からの曲は、アメリカーナを香らせる高音のベースの弾みで幕を開けた。弾け転がる音の粒。音像のマニュプレート感が前掲作とのつながりを暗示する。ゆったりとしたフレーズを奏でながら、積み重なることなく、そのままてろてろと溶け広がるヴィオラがそこに重ねられる。溶解したヴィオラの水平な広がりに、ふうわりと空気を多く含み輪郭を淡く滲ませたテナーの水平な持続が現れ、互いに混じり浸透しあう。Laubrockってこんな風にChris Speedみたいに吹いたっけ…と思う。特殊奏法を用いたり、ことさらに音響的ではないものの、器楽的な演奏の指定席から影だけがふらふらとさまよい出て、サウンドの領域に遊んでいる感覚がしっかりと伝わってくる。後でライヴ演奏のステージ写真を見て、メンバーの輻輳や佇まいのてんでバラバラさ加減に驚いたが、その時に頭に浮かんだ「アナクロニズム」の語が、本来は(我が国で通常用いられる)「時代錯誤(特に「時代遅れ」)」の意ではなく、前後関係を反転させたり、時間軸状の差異を無視して並列に結びつけることによる「時間感覚の混乱」を意味するものであってみれば、これは意外と正しい直感かとも思う。それはジャケット写真について益子が指摘していた、金はあって家にプールもあるんだけど、不満がくすぶっている退廃感ともつながっていよう。私もこの写真には年老いた白人たちがしわがれた肉体をさらす、「孤独なボウリング」的な孤独感、閉塞感を強く感じた。
 響きの帯が広げられ、互いに重なり合う。【多田雅範】
 クラシック音楽のような耳触り。ゆったりと歌う感じとふっと分かれる分身の術(笑)。【小林豊美】
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ただ3 続くSimon参加の2作目は、Chris Speed(ts), Lander Gyselinck(dr)とのトリオHoward Peach。やはり高域に限定したベースの丸っこい音の粒を転がし、あるいは震えるような演奏がスティールパンを思わせるせいか(ただし「跳ね」はない)、Speedのテナーの「すっぴん」の音色、鼻歌的フレージング、息があがって続かない感じのアーティキュレーション等とあいまって、「弾まないカリプソ」との印象を与える。だが、それにしても、これはSpeedの「棒読みサックス」(多田雅範)の魅力を最大限に引き出した演奏ではないか。以前に彼の力むことなくすらりと入ってエッジを際立たせず、輪郭を曖昧にしたままなだらかに推移する「棒読み」の特質を、「サックス演奏をジャズの流儀で格好良く見せるための『永字八法』の脱構築」と読み解いたことがあったが、ここでは「ジャズにちっとも似ていないジャズ」をすら離れ、隙間だらけの風通しの良さを保ったまま、彼らは糸の切れた凧のようにふらふらと、どこにも属さない音楽ジャンルの中間領域を漂流していく。
 この前半の展開があまりにも素晴らし過ぎるため、後半、サウンドがアブストラクトな強度を高めつつ稠密化してくると、スペースがなくなって息苦しくなるとともに、このどこにもなかった新たな手触りや香りが失われてしまったように思う。前半と後半に分かれた演奏だったが、これまで後半のSpeedしか聴いたことがなかったので…と前半の新鮮さを讃えた小林に同感。

ただ4 そのSpeedも参加したDevin Gray(dr)の作品は、続くKris Davis Infrasoundの作品と合わせてKris Davis(p)の作品世界として提示されたように思う。前者の辺りを手探りする息音、ピアノの単音、モジュレーションを来すベースのアルコ、シンバルの破片やフレーズの断片が振り撒かれて、始まりそう動き出しそうで、結局行かない感じは充分にコントロールされたコンポジション感を色濃く漂わせるものだった。一つひとつは決して難しくないフレーズを、だがあえて危うく不均衡なままに積み上げて、なお決定的にはバランスを失わない微妙な平衡感覚とドラムが細かい刻みで無理矢理辻褄を合わせて弥縫的に貼り合わせる強引さの共存。どっちつかずの無調なフレーズの繊細な積み上げは、私にかつてのHenry Cowを思い出させた。彼らにはこうした荒削りな貼り合わせ感覚はなく、むしろ代わりに室内学的なアンサンブルの卓越による「シェーンベルクのロック化」的な趣きがあったのだが。

ただ5 「ロック化」をキーワードとして提示したのは、バス・クラリネット4本(コントラバスやコントラアルトを含む)をフューチャーしたKris Davis Infrasoundを、益子がinfrasound(超低音)のグループ名に沿って、「バスクラのブリブリ感」を中心に紹介しながら、それがロック出身のレコーディング・エンジニアにより薄められていると評したことへの違和感に基づいている。オルガンとエレクトリック・ギター、ピアノのぶちかましとJim Blackのドラムによるみっちりと中身の詰まった「どファンク」アンサンブルがブレークすると、管のフリーな咆哮やあるいは管楽四重奏的演奏が差し挟まれるというのは、ファンク・ミュージックの定型を換骨奪胎したロック的なコラージュではないか。ここでのKris Davisの欲望は、あからさまに低弦の強烈な打鍵やクラスターの連打へと向かっており、それらのサウンドをフリー・ジャズ的な混沌を回避してコンポジションとして成立させるために、ロックの鋳型が用いられたように思う。もちろん、この編成の有する可能性はそれだけには留まらないのだが。


 後半はTim Berne, Henry Threadgill, Steve Colemaと大御所三人の新作を連べ打ちし、さらにThreadgillの遺産後継者と言うべきTomas Fujiwaraへとつなげる怒濤の展開。

ただ6 Tim Berne's Snakeoilは圧倒的な音の壁。何しろ一音一音が強く重い。輪郭が太く固く明確で中身もソリッドに詰まった音塊が、城の石垣のように剃刀の歯すら差し込めないほど隙間なく構築されている。そそり立ち押し寄せるようなテーマ提示部分が終わって、展開部分は音出しが減ってデュオ編成等になるのだが、硬質さ、稠密さ、ソリッドな重量感等は変わらない。たとえば新加入のギターは明らかに器楽的と言うより空間的/音響的な演奏をするのだが、それすら希薄には漂わず、「鉛の雲」とでも評すべき、不穏な重たさを有している。ECMからの3作目ということで、さらにグループ・サウンドの独自性に磨きがかかった印象。前作に引き続き、今回の「タダマス」の冒頭を飾ったDavid Tornがプロデュースを担っていることがポイントかもしれない。
 次の小林と益子の指摘は、実に的確に彼らの本質を突いている。
 組合せのいじり方と空間の使い方でできている。【小林豊美】
 このメンバーでしかできない音の力。Berneによるテーマ作曲等は90年代から変わっていないのだが、以前は彼が出ずっぱり吹きっぱなしだったのに対し、今はテーマが終わるとすぐに引っ込んでしまい、他のメンバーのデュオの交替により構成している部分が多い。各演奏者もただソロを取るのではなく、ちゃんと音を聴いていて同じことをしないから、場面が停滞せず、どんどん動いていく。【益子博之】

ただ7 ThreadgillのCD2枚組新作からはチェロをフィーチャーした長尺の曲を。前作からベースの武石務が抜けているが、チューバのラインやチェロのピチカートが自在に代わりを務め、むしろ彼らの音楽の変幻自在なブリコラージュ的輝きをいや増す結果となっている。Threadgillたちの演奏を聴くたびに、限られた空間内で大人数が一度に自由に創造的にダンスして、かつぶつからず、しかもぶつからないためのルール/仕掛けが、そのまま各演奏者が入れ替わり立ち替わり新たな断面を提示するアンサンブルの生成原理となっている…という奇跡に驚かずにはいられないのだが、今回もまさにそう。特に先ほど触れたようにベースを欠いたことが、そのポジションを他の楽器が代わる代わる占める「15ゲーム」を思わせる組替性、柔軟な運動性をもたらしたように思われる。短く断片的なフレーズによる演奏は相互の対位法的な関係を前提としながら、Ornette ColemanのPrime Time同様、不断にヴァリエーションを生成し続ける。だが、Prime Timeにおいてメンバー相互の衝突/交錯が鋭敏な小魚の群れのように編み上げる流動的な平面が、最終的にOrnetteが間断なく吹き続けるソロの土台となってしまうのに対し、Henry Threadgill Zooidにあっては、円環が巡るような動きがメンバー間の関係を、Threadgillを含め柔らかく解きほぐし、徹底的に相対化してしまう。Prime Timeと共通する類似楽器間の鏡像的配置(本作ではかなり薄らいでいるが)についても、常にズレながら螺旋状に巡ることを基本とし、ありとあらゆるデュオ関係へと拡大適用される。Threadgillの功績は、何よりもこうした生成原理を(ハーモロディクスよりもはるかに)精緻に磨き上げたことにあるだろう。「自身はほとんど吹いていないのに、いなくてもThreadgillの音楽になっている」【益子博之】と言われる所以である。

ただ8 Steve Coleman作品は移り巡る回転感覚をThreadgillと一部共有しながら、ドラムの「踏み外し」感が際立つ。「タダマス」常連ドラマーの一人であるMarcus Gilmoreは、ここで階段の踏み板を自在に抜き差ししてみせる。その手つきは一切の力みを感じさせない軽やかなもので、一見似ているように思われるMark Guiliana「不整脈ドラム」の「ズンドコ感」とは遠くかけ離れている。「ジャケットは図形楽譜的なものではないか」との、やはり図形楽譜を用いたりもするKris Davisの個人レッスンを受けた経験のある小林豊美の発言に、なるほどと思う。

ただ9 最近、「タダマス」出演がとみに増加しているTomas Fujiwaraは、「タダマス」イチオシのMary Halvorson(el-g)にMichael Formanek(cb)と自身を加えたトリオを核とした編成で登場。ドラムの不均衡なリフにギター・エフェクトを重ね、さらにフルートが乗るのだが、やはりHalvorsonはリーダー作以外の方がいいんじゃないかと思う。リズムの揺れどころか、サウンドはすっかり輪郭を喪失して不定形の流動質と化しており、むしろ音色が揺らぎながら移り変わる。トランペットのフレージングがやたらムーディ(死語?)だったりして、ことさらに難しいことをしなくても、自分たちのやりたいことはできる…という確固たる自信が感じられる。「最小限の変態で最大限の効果」というところだろうか。益子が「本来、Anthony Braxton門下の人たちだが、むしろThreadgillとのつながりが感じられる」と指摘した通り、確かにアンサンブルへの出入りやON / OFFの感覚がThreadgillの生成原理との結びつきを感じさせる。

ただ10 最後にかけられたRema Hasumiのグループは菊地雅章TPTトリオの二人のT、すなわちTodd Neufeld(g), Thomas Morgan(b)を擁し、益子は「仮想菊地雅章グループ」と紹介していた。実際、菊地の最期を看取ったのはHasumiとNeufeldだったとのことだ。かけられた曲では、前半、トロンボーンの分厚いたなびきが中央に居座り、これに対して鋭い突っ込みを見せるギターとベースの老練な碁打ちを思わせる的確な石の置き方は、なるほど例の二人だと感心するのだが、Hasumiによる謡の用い方を含め、全体としてはあまりぴんと来ない。ただしこれは、菊地雅章の晩年の演奏に他では得られない輝きを認めているものの、彼の活動の全容やジャズ史への貢献についてはほとんど興味がない、私の関心の偏りにもよるだろう。


 いつになく長いレヴューとなった。「タダマス」当日にかかった全作品に言及するのも初めてのことだ(ただしいつも同様、レヴューの内容は私の興味関心の範囲に限定されており、イヴェントの全容を伝えるものではないことに注意されたい)。これは別に「タダマス」の会場である綜合藝術茶房喫茶茶会記店主である福地にハードルを上げられたから(※)ではなく(笑)、理由はそれだけ「タダマス18」が充実した内容だったことに尽きる。シンクロ率で言ったら、今回は80〜90%だろうか。
※http://gekkasha.jugem.jp/?cid=42168 20150728分「タダマスにて旬を逃す」を参照
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 これまでずっと「タダマス」は、毎回、ミュージシャンをゲストに迎えていて、益子・多田かたちづくる聴取の平面に対し、それとは異なる演奏者の視点からコメントを求められいたし、彼らもまたほとんどの場合、そこから益子・多田の方へ歩み寄ろうとはしなかった(希有な例外として外山と蛯子を挙げたい)。しかし、今回のゲストである小林は、ミュージシャンとしてのコメントをこなしながら、むしろそれより先にまずは一人の聴き手として、益子・多田とテーブルを囲んでいたように思う。デュオ+ソロではなく、トリオとして機能していた度合いとしては、今回が史上最高だったのではあるまいか。
 最近、様々な方面からNYダウンタウン・シーン、あるいは同時代的なジャズ・シーンに注目が寄せられ、それらの期待に応えたり、あるいは不適切な憶説に反論したりと、「タダマス」も結構揺さぶられたように思う。正直言って、「そんなの相手にしなくてもいいのに」と思ったことも何回かあった。しかし、6月に益子が恒例のNY定点観測に赴き、おそらくは現地のシーンの生な強度に触れて、日本国内のジャズ雀の囀りなどどうでもよくなってしまったのだろう。今回の「タダマス18」の成功は、強度の高い何をさておいても紹介すべき作品を選び抜き、それらの配列から自然とあるラインが浮かび上がり、それと「タダマス」本来の視点・立ち位置が相互に響き合い、照らし出しあうという原点に回帰したことにあると思う。やはり何をさておいても駆けつけ、耳を傾けるべきイヴェントである。たとえ選盤が好みに合わなくても、それはそれで何事かを如実に明らかにするだろう。そうした「異なる視点から眺めた風景」に気づかされること、触発されることは多い。ぜひ今後とも末永く継続していただきたい。
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 なお、当日のプレイリストについては、近日中に以下のページに掲載されると思いますので、そちらをご参照ください。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767
 ホストの一人である多田雅範による記述も参照のこと。
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20150726

 また、当日の様子の写真は多田雅範氏のブログ、池田達彌氏のインスタグラム、原田正夫氏、Hosoda Takeshi氏のFacebookページから転載させていただきました。
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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:48:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
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