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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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『松籟夜話』番外篇 来場御礼  Thank You for Coming to Listening Event "Syorai Yawa" Extra Chapter
 9月27日に開催した『松籟夜話』番外篇について、参加者からいただいたご指摘や感想を踏まえ、振り返ってみることにしたい(敬称は略させていただきます)。
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本番前の打合せ風景  撮影:原田正夫


 開催当日のうちに、中村匠一がFacebook上にアップしたリポートは、次のような、一見、得意分野のオーディオに引き付けながら、的確に核心を射抜いたものだった。

 津田さんと共にサウンドユニット「スティルライフ」を組まれている笹島裕樹さんのトークと紹介音源も交えながら、会は進行していったのですが、改めて私達ありふれた音楽ファン(又はオーディオマニア)が「フィールドレコーディング」というカテゴリでひとくくりにしてしまっている音楽、あるいは表現にも様々な側面があるのだな、と実感しましたね。
 津田さんと笹島さんから聴かせて頂いた音源で共通すると感じたことは、例えば音を出している主体=つまり通常の音楽で言えば歌手など が音響装置を通じてリスナーのところに「来てくれる」のがいわゆる「オーディオで聴く音楽」であるのに対して、お二方が紹介してくれた音源を聴いていると、このスペースごと、その音が発せられている場所にワープするような、部屋の空気が入れ替わっていくような、そんな感覚を覚えるということになりましょうか。
 勿論、そのお二方の表現手法にも違いがある。福島さん曰く「ある意味対極」と言えるくらいの違いがあるようで、周囲の風景、空気も含めてそれを全体的に包むように記録し、イコライジング等にあたっても、その質感を出来るだけキープするようなスタンスを大切にする津田さん、その風景の中で「これ!」と思ったものにフォーカスを定めて、その質感を掘り下げていこうとする笹島さん、という感じなのですかね。確かに、聴かせて頂いた音源からは、私も似たような印象を受けました。
 ただ、これも福島さんが言われたように、「違うからこそ、ユニットとして成立するところもある」のもとても理解できて、同じ景色を見ても、その人が見たいと思う場所は人それぞれ違うのはある意味道理であり、逆に言うと「この人はこの景色のそういうところを見ているんだ、自分には気づかなかった」という新鮮な感動が創造に繋がっていくところもあるのかもしれません。
 例を挙げれば、今日津田さんがかけて下さったベトナムの山岳民族の葦笛や共鳴胴のない弦楽器の演奏のディスクなどは、民族音楽の録音で有名な「オコラ」レーベルの音源とは異なり、その演奏自体に思い切りフォーカスを合わせた録音ではないので、演奏そのものの音量は微小で、さりげないものです。でも、そのさりげなさが、その周囲の空気、環境ノイズと合わさることで、目の前に展開する景色がある。津田さんの言われる「その場所に行く」感覚が、確かにそのディスクには収められているんですね。
 そういう意味では、今回の影の功労者は、やはり「月光茶房」の主であり、今日の音響も担当された原田さんと言えるかもしれません。「月光茶房」のメインスピーカーでもあるソナス・ファーベルというスピーカーは、私達オーディオマニアにとっては、歌手が「来てくれる」というイメージに最も合致する一品とも言えるでしょう。特に今日使われたミニマ・ヴィンテージなどは、女性ヴォーカルが「迫ってくる」くらい声と弦の色気には定評のあるスピーカーだと思います。
 が、そのミニマ・ヴィンテージをFAPSのサイドプレススピーカースタンドにセットし、リスナーに正対させずに、部屋の対角線上と言っていいほどの間隔をあけてセッティングすることで、かくも部屋の空気全体を入れ換えてしまうようなエアー感が得られるのか、というのは私にとっても驚くべき体験でした。
 私は幸運にも、フランスのサックス奏者、ミッシェル・ドネダの演奏を白線、茶会記、そして今日と三回にわたって聴く機会を得たのですが、白線ではドネダの音は周囲の環境音の中に自然に同化していくのに対し、茶会記ではノイジーなまでに強烈な主張と直線性を見せていたことを思い出します。そして、今日聴いたドネダの音は、その獣のうなり声にも似たような迫真性のあるサウンドを保ちながら、それが周囲の環境音と隔絶されたような異質さを感じない。その風景の中にあって、ドネダという人が確実に「自分はここにいるのだ」という証としての音のパワー、そういうものが感じられるのです。
 プレーヤー兼アンプのAURAの「ノート」も含めて、私のようなにわかオーディオマニアが持つ先入観とはまた違う世界を見せてくれる。これもまた、原田さんの感覚の素晴らしさ、面白さであり、こういう場に居合わせることは耳だけでなく「感性の枠」も一つ一つ外しながら広げていく機会なのだな、と改めて感慨しきりでありましたね。
というわけで、今日も音に始まり、音に終わった一日でありました。お休みなさいまし。
                              【抜粋による掲載】
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『松籟夜話』番外篇本番中  ※別にこっくりさんをしているわけではありません(笑)
撮影:原田正夫


 「来てくれる音楽」と「その音が発せられている場所にワープする音楽」という対比が興味深い。後者を単にオーディオで言うところの「臨場感」、たとえばコンサート・ホールのアコースティックの再現ととらえてしまうと、ここで開かれている思考の可能性を矮小化してしまうことになるだろう。中村は慧眼にも、この感覚をさらに「部屋の空気が入れ替わっていくような」とパラフレーズしている。この空間に包み込まれる、あるいは聴き手の身体が空間に埋め込まれる皮膚感覚こそは、フィールドレコーディング作品の聴取を深めていく際のポイントにほかならない。
 スティルライフの〈演奏〉は、そのことをくっきりと際立たせる。彼らの演奏は、周囲の環境音を俯瞰目線で見下ろし、のっぺりとした一枚の音の絵画に見立ててしまうことがない。視線を下降/潜行させ、〈環境音〉が生成する根元のところまで降りて行って(この時、演奏者の身体は空間に深く埋め込まれることになる)、虫の音や鳥の声、水音や風の唸りと同じ水準、同じ目線の高さから音を放つ。ここで音を放つこととは、周囲を探査/聴診すること、すなわち「聴く」ことを深めることにほかならない。チューバ奏者の高岡大祐が落とし込みの釣り糸で、水底の起伏や形状、潮の流れ、魚の所在を探るように。眼に見えぬものがまざまざと触知され、皮膚感覚に浮かび上がる。釣り糸の先端まで伸びていく指先。それに比べれば浮子(うき)という仕掛けが、いかに多くの情報を、世界の豊かさを遮断し、浮子の揺れという視覚記号へと貧しく変換しているかがわかる。それは音を音高(ピッチ)だけを頼りに聴くようなものだ。

 さらに中村は、そのことを通じて、スティルライフの二人、津田と笹島の眼差しの違いを的確に感じ取っている。ライヴ・リポートということもあって、当日の私の発言をなぞった記述となっているが、「周囲の風景、空気も含めてそれを全体的に包むように記録し、イコライジング等にあたっても、その質感を出来るだけキープするようなスタンスを大切にする津田さん、その風景の中で「これ!」と思ったものにフォーカスを定めて、その質感を掘り下げていこうとする笹島さん」という対比は、彼ならではの表現で、これまた実に正確なものだ。
 これについては、『松籟夜話』番外篇当日のアフターアワーズに、参加してくれた多田雅範が、笹島がかけたDavide Mosconiによるスコットランドの霧笛のフィールドレコーディング作品について、その「凝視の強度」を賞賛し、それはまさに「笹島的」なもので、まんじりとせず瞬きすらしないで、じっと揺るぎなく見詰め続ける笹島の視線を、彼の作品やスティルライフの演奏にいつも感じていたと語っていた。この二人の〈視差〉が、スティルライフによる演奏、世界のとらえ方を立体的に浮かび上がらせている。

 その後に続くソナス・ファーベル「ミニマ」を巡る記述は圧巻だ。ここではオーディオに対する深い理解が、そのまま聴取に関する思考の深化につながっている。オーディオという「音を再生する技芸(アート)」は、聴くことなしには成り立つはずも無いものだが、実際には「製品の音質比較」を超えて、このように聴くことの核心に迫る営為は稀だと言わねばならない。特に3種類のオーディオ装置の違い(当然、部屋の音響環境の違いもそこには含まれてくる)が、ドネダの音を「視差」の下に浮かび上がらせる様は興味深い。
 ここでなくもがなのコメントを付せば、2台のスピーカーを左右に思い切り開いて設置し、さらに角度を外に振った、『松籟夜話』当日のあのセッティングは津田貴司によるものである。私が準備に到着した時点で、もう椅子は並んでいたものの、当日になって出入り口から外に運び出せないと判明した作業用大テーブルの置き場と、スピーカーのサービスエリアの狭さが課題となっていた。そこで大テーブルを「ステージ」側、出演者たちの背後にL字型に持って来て、対角線に沿って椅子を並べ直し、スピーカーがテーブルに押し出されて間隔が開いたところを、さらに「えいやっ」とばかりに向きを外振りにしたのだった。
 ソナス・ファーベルはエンクロージャーを響かせる、言わば「楽器型」スピーカーである。それゆえ音は前方だけでなく、全方位に放たれる。エンクロージャーを宙に浮かせるかたちでセッティングする今回のスタンドは、底面を制動しないため、この特性がさらに強く発揮される。それをあたかも無指向性のスピーカーのように操ってしまった津田の手腕は見事だった。自身、ライヴで反射板付きの拡散型スピーカーを用いており、ギャラリー白線の反射板スピーカーの潜在能力をいち早く見抜いた彼ならではのことだろう。参加者が入ると音が吸われて響きが貧しくなるのでは‥との懸念も、音を壁に沿わせて放ち、背後に立てかけたテーブル面が反射板として機能するセッティングの効果で、めでたく杞憂に終わった。
 「3箇所のドネダ」について言うと、厳密にはギャラリー白線とビブリオテカ・ムタツミンダは『Montagne Noire』、喫茶茶会記は『Everibody Digs Michel Doneda』とプレイした音盤が異なる。『Everybody‥』は「タダマス」のゲストが「ガラスを引っ掻く音と同じ」と称した激烈な音だった。雨音すら「音楽的」に聴かせてしまうところがあるアルテックのヴィンテージ・スピーカーが、「異物」ゆえに「消化」できず、そのまま吐き出したような音だった。
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鼎談とCDとオーディオと  撮影:中村匠一


 一方、先ほど登場した多田雅範は自身のブログで次のように書いている。

 


松籟夜話番外篇に出かけた。


スティルライフのお二人に、それぞれ選曲、選盤をしてもらい、スティルライフの魅力の謎に迫るというか、いや、「光源によって照らす」とか巧い表現をしていたな、


わたしはミュージシャン個人にはまったく興味がない会いたくも話したくもないが、雑誌でmusician file をやったように最初の音楽は?耳に影響を与えた10枚は?、もとい、出会った好きな10トラック!


なんとまあ、鈴木昭男、さかな、ドネダから、霧笛やら、・・・、良き音楽家は、良きリスナーでもある、という格言どおりの見事な聴取の強度に裏打ちされたトラックたちが会場に鳴り響いたのであった。


それは単に素晴らしい音楽にとどまるものではなかった。とも言おうか、音楽は孤独に光年を超えて聴くものであり、一瞬にして出会うもの、


そして、さらなる謎に向って開かれていて、そこには安易な納得や理解によって損なわれるものは無く、


まあ、とにかく形容することは困難であるが、意識が宇宙に向って開かれるような忘れ難い時間が訪れたのであった。


ヤングシルバーな孤独なリスナーであったままでは決して出会えない触発。
 


津田さん笹島さんの選曲紹介コメントを冊子にしてコンピCDを付けてほしいくらいだが、音楽は一瞬でいいのである。記憶は残る。


かれこれ50年もリスナーやってきて音楽らしい音楽にはそろそろ既視感ばかりで過ごしていた、


ドネダは鮮やかに鳴り(再生装置・環境もベストだった)、原田さん堀内さんと三人で行った京都先斗町の夜は鈴木昭男、こないだホソダさんに聴かせてもらったさかな、


益子さんも池田さんも中村さんも、


人生に必要なことはすべて起こる、座右の銘、ともちょとチガウ、宇宙のひかり。





 その場の印象も、かつての記憶も、問われぬままのひとり語りも、過去も未来も現在も組んず解れつ団子になって、勢い良く思考の坂道を転げ落ち、あるいは夢の岸辺に漂うような加速度と浮遊感はいつものことながら素晴らしいが、ここでは「選曲者の着眼点の伝播と発見、耳の人生のリレー」という、触発の連鎖/ドミノ倒しに着目したい。
 アーティストを、あるいは作品を紹介するのではなく、「聴き方」を提示したい‥という思いが、『松籟夜話』開始時からずっとあった。それはもちろん唯一の正解である「正しい聴き方」の伝授/指南ではない。作曲者/演奏者/制作者の「意図」をカッコに入れ、そこを「目標」とし、そこに係留された状態で聴く枠組みを解き放って、音を響きを聴くこと。だが、それは決してタブラ・ラサ(白紙)状態における聴取ということではない。音は響きを、響きは他の響きを呼び寄せ、類似や連関、対照の織り成す音響の網の目が織り上げられるだろう。そのようにして互いに照らし出しあう響きのネットワークの中で、音を聴くこと。
 「○○を灯台に見立て、そこから放たれる光筋を導きの糸としながら、その照らし出す音響を聴いていく」と、『松籟夜話』では特集アーティストの位置づけを説明しているが、「スティルライフによるスティルライフ」と言うべき自作自解となった今回は、この枠組みがとりわけクリティカルに作用したように思う。
 「××リスペクト」といった安易極まりない仕方で元ネタを披露し、元ネタの権威で自ら作品/演奏の価値を高めようと、自作自解に熱を上げる動向とは正反対の道を歩んでいるにもかかわらず、自ら関連音源を紹介することが、結果として「元ネタ紹介」と受け止められてしまうのではないか‥との不安は、準備段階からスティルライフの二人と私の間で共有されていた。そこはスティルライフを説明するために音源を当て込むのではなく、紹介するに足るだけの高い強度を有した作品を選び、むしろスティルライフのイメージを四方八方に引き裂くつもりでよいのではないかと、二人に選盤を託した。その結果が前回紹介したプレイリストであり、さかなからDevide Mosconiに至る広大な振れ幅を有することとなった。そうした振れ幅の大きさは拡散を強く意識した結果であるわけだが、その一方で、切り分けのために導入した三つの視点、素材の質感、場所性あるいは場所を演奏すること、想像的サウンドスケープの対比的な枠組みを超えて、あるいは津田と笹島の立ち位置や手つきの違いを超えて、各音源の間に幾つもの類似/照応の線が走っていたことには、改めて驚かされた。
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ビブリオテカ・ムタツミンダの大きなウインドウを飾るスティルライフ
撮影:原田正夫


 今回の『松籟夜話』を聴きに来てくれたミュージシャン/アーティストであるtamaruは、次のように感想を述べてくれている。「ああいう風に、自作の熱心なリスナーに対して系統立てた説明をし、理解を深めてもらう、あるいはいろいろ興味を拡げてもらうというのは、送り手と受け手の絆がないと、なかなか成立しないと思うんですが、今時そうしたアクセスのベースがあるのかと、結構驚きました。マジョリティなら、むしろ驚かないんですが。実際、あの晩のお客さんたちは、外れなく受け取った様子を感じました。」
 これは嬉しい指摘だ。以前に音盤レクチャーとして『耳の枠はずし』をやった時に、ひとつの場所に集って同じ音源を聴きながら、その体験の同一性ではなく、耳の視点/視線の差異の方に注目し、互いに触発し合いながら聴き方を深めていく〈耳の公共性〉のあり方について考えたことがある。話し手から聴き手への一方通行になりやすいレクチャーの場では、プレイする音源が話し手のメッセージの〈乗り物〉になってしまいやすいのに対し、津田と私とのやりとりの中で進められ、ロジックやメッセージの一貫性よりも、各音源の強度の方に軸足を置く『松籟夜話』の方が、原理的に差異を扱いやすいだろうというぼんやりとした予感はあった。
 そうした開かれたあり方、触発の連鎖が、今回の「スティルライフによるスティルライフ」においては、「作者による正解発表(本来の意図の説明)」から際どく身をもぎ離し、前述の通り、むしろもっともらしく仮構された統一性を引き裂く方向に作用していた。これは先に挙げた三つの視点と、『松籟夜話』がもともと掲げるキーワード「環境/音響/即興」の関係に触れた際に述べたことだが、「環境/音響/即興」とは、決してx軸・y軸・z軸といった互いに独立した軸線ではなく、今回のテーマで言えば「素材の質感」という視点の下に、「正弦波だから、物音だから音響だ」といった硬直した音響観を〈即興〉や〈環境〉のヴェクトルによって引き裂くという関係なのだ‥‥ということと関連しているだろう。

 津田貴司と「游音」でいっしょに活動し、今回、未発表音源をプレイさせていただいた松田文は、今回の『松籟夜話』に参加した感想として「〈音に映り込んだもの〉という視点が良かった」とし、「作者の意向とは別に映り込んだものを聴くという姿勢」を評価してくれたと言う。そうした〈映り込み〉を不純物として排除し、作者の意図へと純粋化していくよりも、空間による音響の侵食/変容やこうした〈映り込み〉を併せてひとつのものとして聴いていった方が、一人ひとりの聴取体験が豊かになるばかりでなく、より強い触発の連鎖、その波及効果が得られるのではないかと思うのだ。
 松田文からはもうひとつ、「マヤ族の笛は、合ってないどころかものすごい一体感だと思って聴いてた。笛の扱い、雅楽や神楽と同じ耳の使い方で成り立ってるんじゃないかな」との感想をもらっている。これはまったくその通りだと思う。イヴェントの場では、そのピッチのズレ感に着目したやりとりとなったが、それは先に述べた「ピッチのみで音を測りとろうとする貧しさ」に属している。むしろ、笛の音がコンダクトしていると言うか、離れたところで演奏するバンドの音が、脳内に笛の音として映り込んでいると言った方がいいのかもしれない。
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先ほどのパネルの元写真  撮影:原田正夫


 末尾になるが、ゲストのスティルライフの二人、津田貴司と笹島裕樹、会場を提供して下った原田正夫(月光茶房)に心から感謝したい。どうもお疲れさまでした。それにしても近々に自作の正式リリースを控えたプロモーションの場で、あれだけ自作からの音源と、それに関連して紹介する音源について、分け隔てなくフラットに言及できるというのは大変なことだと思う。それは公正さへの意識と言うより、作品づくりのための制作作業への集中の中で、きっぱりと過去を切断し、自分たちを引かれた一線の「向こう側」へと押しやるという、「変化への倫理」とでも言うべきものではないだろうか。かつて『夜のカタログ』をリリースした時も、彼らは不可逆な変化を遂げた。津田貴司のソロ作品『十二ヶ月のフラジャイル』のよく晴れた冬の日の早朝を思わせるぱきぱきとした覚醒感は、まさに「向こう側」へと突き抜けたことの結果にほかなるまい。実際、10月4日、Ftarri水道橋店における『archipelago』リリース記念ライヴでの彼らは、以前とは比較にならないぐらい堂々とし、自信に溢れていた。これについては、次回以降のブログにライヴ・レヴューを掲載したいと考えている。


 『松籟夜話』、まだまだ続きます。次は12月かな。
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今回の旅路の入口  撮影:原田正夫
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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:20:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
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