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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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サウンドの幾何学、多層による構成 「タダマス19」レヴュー  Geometry of Sounds, Multi-layered Composition Live Review for "TADA-MASU 19"
タダマス19-5_convert_20151031231957

 10月25日(日)に開催された「タダマス19」について、ホストのひとりである多田雅範は自身のブログに、こう記している(※)。
 ※http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20151025

 Badenhorst, Jozef Dumoulin の才能を再認識。
Jen Shyu の奥深い多様性の発見、と、彼女に集う Thomas Morgan, Dan Weiss, John Herbert ネットワークの確認。
Benoit Delbecq ピアノトリオの現在性と高み。
Tim Berne の健在。
Mary Halvorson 謎めく個性という存在から、汎ジャンル的横断といった事態以上の何か新しいサウンドを見せてくれる巨大な存在になるブレイクスルーを記録しはじめたのではないかという観測。
(中略)
 それにしても、Thomas Morgan が出向くレコーディング、関心を持つ音楽、共演するミュージシャンたちの系といったもの、これらはすべて金色に輝く。Thomas Morgan が触発した演奏家たちはいやおうなく変化するだろう(必ずしも高度になるかはわからないけれど)。

 綺羅星の如く列挙されるミュージシャンの中で、改めてThomas Morganが名指される。彼は多田にとって、いやNYダウンタウン・シーンをはじめ、狭義の「ジャズ」の先端部分の定点観測たる「タダマス」にとって(ということは、とりもなおさず当該シーンにおいても)、本当に特別な存在だ。そして狭義の「ジャズ」の熱心な聴き手とは言えない私にとって、彼は「タダマス」がなかったら出会っていなかったであろうミュージシャンである。その意味で私にとっても特別な、かけがえのない存在である。今回の「タダマス」リポートは彼を中心に語ることとしよう。
 というわけで、今回のリポートもイヴェント全体の正確な報告/要約とはなっていないことを、あらかじめお断りしておく。なお、当日のプレイリストについては、次を参照していただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767


タダマス19-1Jen Shyu & Jade Tongue / Sounds and Cries of the World
track 3: Mother of Time
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=k7Um5RBX_ds
 口数少なく物静かな語り口ながら力強く弾むベース(Thomas Morgan)。その前後をパタパタと埋めながら、あちこちで砕け、ラインをもつれさせて、危うい不均衡へと傾いていくドラムス(Dan Weiss)。なだらかに溶けていくように時を引き伸ばすヴィオラ(Mat Maneri)。宝石のように硬質な音色を思慮深く響かせるトランペット(Ambrose Akinmusire)。声は入り組んだ響きの積み重なりの中から、か細く立ち上がり、傷つきやすさをドレスの裾のように閃かせながら、誘うように声音を裏返させていく。そうしたコケットリーをはじめ、ジャズ・ヴォーカルの「定型」をフェイクしているように聞こえる英語による歌唱から韓国語に転じると、とたんに響きが濁り、重さを増して、浮かぶように身を翻し漂っていた声音が、着地して歩むようになる。ノンブレスのトランペットや泡立つように細やかなシンバルの連打が、それと反対方向にアンサンブルの重心を引き上げる。

 Steve ColemanのアンサンブルFive Elementsの一員として活躍したJen Shyuは、この後に続いて紹介されたJohn Hebert / Rambling Confessionsにも参加し、また違う顔を見せていた。多田が「奥深い多様性」と称する所以である。実際、月琴や伽倻琴を奏でながら、よりパフォーマティヴな歌唱を、英語、韓国語、インドネシア語等の多言語により行う彼女のパフォーマンスは、確かに多様であるかもしれない。だが、私にはむしろコケティッシュなフェイク感がいつもあることが気になった。「タダマス19」の場で、聴衆として参加していた中村匠一が『Sounds and Cries of the World』の彼女を「高音を鼻にかけるように裏返すところがJoni Mitchelに似ている」と評し、対して『Rambling Confessions』における彼女を「今度はRickie Lee Jonesみたい」と形容するのを聞いて、なるほどと感じたことは、このこととつながっていると思う。ひとつにはここに現れている多様性が、キャラクターの交換可能性のように(つまりは極めて薄っぺらなものに)感じられること。もうひとつには、このフォーク/ポップスとジャズを往還する歌い手二人が、ジャズ・ナンバーを歌う時に見せる(「偉大なるジャズ・ミュージック」へのリスペクトの現れかもしれないにせよ)、ジャズ・ヴォーカルのスタイルへのすり寄り傾向(例えば中村の言うようなJoni Mitchelの歌い方が最も顕著に聴き取れるのは、ジャズ・ナンバーを採りあげた『Mingus』や『Shadows and Light』ではあるまいか)が、より顕著に彼女に見られることである。

 『Sounds and Cries of the World』の聴きどころは、むしろその場できめ細やかに編み上げられていくアンサンブルの生成にあるだろう。極端に微細に砕けていくドラムス。輪郭を曖昧に流動化し、溶け広がるヴィオラ。対して硬質な輪郭を鋭く際立たせながら、ひっそりと場所を取らないトランペット。このように大きさも形も異なるサウンドの切片が互いに入り組み、交錯しながら、ほとんど瓦礫のように積み上げられていくにも関わらず、そこには声の居場所がきちんと確保されており、さらには外の空気の通う隙間があって、青々とした麦畑を渡るように風が吹き抜けていく。それを主導しているのは、明らかにThomas Morganのベースにほかならない。
 彼のベースのしなやかさを何にたとえよう。「無駄な音を一つも出さないと、バークリーの学生だった頃から言われていた」と、「タダマス」で最初に彼のことを紹介する時、益子が言っていたことを思い出す。絞り抜き、削り込まれた音。しかし、そうしたイメージとは裏腹に、彼の音は厳しさを感じさせない。ひりひりとした緊迫感やそそり立つ荘重さとは無縁で、いつもすっとそこにある。素速さを感じさせるよりもさらに速く、ふっと立ち上がるとともに、セトルメントと言うのだろうか、音はふっと立ち下がり、速やかに静まって、波紋を残さず、響きの水面を乱すことがない。ふっと現れ、ふっと消えてしまう音。John Hebertは「タダマス」にもたびたび登場する優れたベース奏者だが、ここで聴かれるベースのピチカートにはごりっとした手触りがあり、響きにマテリアルな輪郭、角や厚みを感じさせ、それにより空間/時間を彫り刻む様が荘重さをもたらす。それに比べThomas Morganのベースは実体感が希薄で、まるで陽炎のようだ。
 以前の「タダマス」でゲストに招かれた山本達久が「Thomas Morganていじめられっこぽいですよね。オレがクラスメートだったら絶対いじめてるな。その点、Stephan Crumpは男らしくてカッコいいですよね。男前だし」と言っていた。確かに外見上の印象もその通りで、Morganは線が細く影が薄い。
 だからこそ、Thomas Morganはあのように澄み渡った幾何学的空間を生み出せるのだ‥‥と言ったら、レトリック過剰な逆説に聞こえるだろうか。私にとって彼のベースは、Barre Phillipsの演奏が示す幾何学的明澄性、すらすらと書き下ろされる証明の明晰さ、淀みなさの延長線上に位置している。幾何学上の「点」の定義は、幅も長さも大きさもない‥というものだが、Morganのベースにはまさにそうした、時間/空間上のポイントを正確極まりなくクリティカルに指し示す、研ぎ澄まされた抽象の力があるように思う。幅も長さも大きさも、輪郭も重さもない「点」だからこそ、その近傍に自在に音を呼び込み、ミクロからマクロまで絶妙な距離感の下に、緊密に音の運動を組織することができる。
 ここでMorganの周囲に生じているアンサンブルの生成は、Henry Threadgillがつくりだす、幾つもの異なる速度の輪が巡りながら、螺旋を自在に出入りし、次々に新たな層/断面を見せていく組織的流動性の相同物にほかなるまい。

タダマス19-2Liberty Ellman / Radiate
 そのThreadgillのアンサンブルの一員であるLiberty Ellmanのグループは、Jose Davila, Steve Lehmanら、他にもそこでの「同僚」を含み、音のかけらが明滅を繰り返しながらぐるぐると巡り、その隙間を走り出る音の流れが全体を更新していく様は、確かにThreadgill的である。しかし、Ellman自身のソロになると、そうした流動変化がぴたりと止まってしまうあたり、いささか底が浅いと言わざるを得まい。益子がThreadgillにおいては演奏がその場で生み出されていくのに対し、ここではあらかじめ書かれたものをなぞっているに過ぎない旨を指摘していたが、その通りだろう。Threadgillの音楽に感じられる、まだ見えない世界へと踏み出し、彼方へと手を伸ばす感覚はここにはない。


タダマス19-3Joachim Badenhorst, Dan Peck / The Salt of Deformation
 バス・クラリネットとチューバのデュオを基調としながら、そこに多重録音も含め、様々な響きが重ねられ、差し込まれる。足下から霧が沸き上がるような濃密な息のたゆたい/浮き沈みに、半ば闇に沈んだモノトーンなつぶやきにも似た詠唱が加わり、風切り音とも風自体のうなりともつかぬ響き、遠い鳥のさえずりを思わせる速い軋みが投影され、チベット密教の祭儀にも似たぞっとするほど深い鳴りが、底の方をゆっくりと通り過ぎていく。即興演奏的な構成感というよりは、むしろデヴィッド・シルヴィアンが好みそうな美意識が香る。「多重録音により異なる奥行きの空間が組み合わされていて、耳の焦点が合わない」という多田の指摘はまったくその通りで、かつての「心霊写真」的演奏もそうだが、Badenhorstの「演奏」が、フリー・インプロヴィゼーションの「記録」を離れ、エレクトロ・アコースティックな音響構築やフィールドレコーディング的な眼差しへと踏み出していることがわかる。

タダマス19-4Benoit Delbecq 3 / Ink
 Fred Herschとのダブル・トリオによる優雅な達成が、まだ記憶に新しいDelbecqは、ここでプリペアド・ピアノを自在に操って、硬く目の詰んだ木片を打ち鳴らし、重く固くしこる低音のくぐもった打撃と対比させながら、複合的なラテン・ビートを組織するかと思えば、通常の打鍵においては、蜘蛛の巣をかがるような繊細極まりない音響の交錯を奏で、かつての盟友Jean-Jacques Avenelに捧げている。あのダブル・トリオの核心は、表層をどこまでも滑らかに滑走する音響が、フレーズの変奏の線的な継起(というジャズ・ピアノの定型)を離れ、細やかな交錯により編み上げる平面全体を連続的に変化させていくことにあった。ここでも演奏は線を浮き上がらせることなく、編み上げられ、もつれほころんだ面や層において息づいている。


第19回四谷音盤茶会
2015年10月25日(日)
綜合藝術茶房喫茶茶会記
益子博之、多田雅範  ゲスト:カイドーユタカ
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今回、Altec&Goodmanのユニット構成はそのままに、エンクロージャを模様替えしたスピーカー。
ドライヴァー・ユニットの下に敷かれているのは小林秀雄全集の1冊。
なお、イヴェント時の写真は原田正夫氏のFacebookページより転載させていただきました。
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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:31:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
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