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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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音響再生産の文化的起源 ジョナサン・スターン『聞こえくる過去』刊行!  Cultural Origins of Sound Reproduction Translation of Johonathan Sterne『The Audible Past』 Has Come Out !
 注目すべき書物が出版された。ジョナサン・スターン『聞こえくる過去 音響再生産の文化的起源』(インスクリプト)、音響研究、聴覚文化論の必読文献とされるJohonathan Sterne『The Audible Past Cultural Origins of Sound Reproduction』の全訳である。
 何しろ大部の書物ゆえ、まだ冒頭部分をひとかじりしただけなのだが、それでも本書が極めて充実した内容を持っていることは窺い知れる。今回はその点に絞って、レポートさせていただきたい。
聞こえくる過去1
ジョナサン・スターン『聞こえくる過去 音響再生産の文化的起源』
(訳=中川克志、金子智太郎、谷口文和)


 出版社であるインスクリプトのページ(※)に、本書は次のように紹介されている。
 ※http://www.inscript.co.jp/b1/978-4-900997-58-5

音響再生産は、人間の耳をメカニズムとして模倣することから始まる。それまでの口に耳が取ってかわる。音についての理解と音響再生産の実践に、転換・転倒が起こったのだ。
そして、技術は私たちの聞き方をいかに変えたのか──。
視覚のヘゲモニーに覆いかくされながら、今も続く「耳の黄金期」。『聞こえくる過去』が語る物語は、音、聴覚、聴取が近代的な文化的生活の中心であり、その生活においては、音、聴覚、聴取は、知識、文化、社会組織の近代的な様式の基盤であることが示される。
本書は、オートマタ、聴診器、電話、レコード、ラジオから缶詰製作や死体防腐処理技術等までを含んで、音響再生(音響再生産)の技術・思想・イデオロギーを分析し、ヘッドフォンによるデジタル音源の聴取に代表される現代的聴取の体制の起源と系譜をたどり、音響技術史にとどまらず、メディア論、感性の歴史、近代性の歴史と哲学に新たな視点をもたらしたジョナサン・スターンの代表作である。「音とは、乱雑で政治的な人間の活動圏の所産である」。視覚の特権化を廃し、音の経験に歴史的・社会的・文化的な外的要素を導入することによって、包括的な音の歴史と哲学を描きだした本書は、フーコーの考古学、マクルーハン、キットラー、クレーリーの系譜に新たな地平を拓き、近代の近代性を問いなおす、人文学の記念碑的著作である。図版資料収載。


 これを読んだだけでも魅力的な書物であることがわかるだろう。そして、もしこの紹介文に対し、「ふふん」と鼻を鳴らして、冷ややかな批判的眼差しを向ける方がいるならば、むしろそうしたあなたこそ、本書を手に取るべきなのだ。
 たとえば「技術は私たちの聞き方をいかに変えたのか──」という箇所に「巷に蔓延する一面的な技術決定論ではないのか」との疑いが生じるかもしれない。しかし、スターンは次のように述べている。
 技術の神格化とは、「電話が私たちの仕事のやり方を変えた」とか「フォノグラフが私たちの音楽の聴き方を変えた」といった主張の背後に潜んでいる信仰なのだ。衝撃の物語は、正当にも、技術決定論の一形態として広く批判されてきた。衝撃の物語は因果関係に関する貧弱な見解から生ずるのだ。【本書19ページ】
 音響再生産技術に対して私たちが最も大切に抱いている信仰 − 例えば、音響再生産技術は音とその発生源を分離したとか、録音は死者の声を聞かせてくれる等々 − は、その技術の衝撃を記述する無垢な経験的記述ではなかったし、今もそうではない。それらは人々が音響再生産技術に託した願望だった。この願望は、技術革新と利用のための計画となった。【本書20ページ】
 あるいは「視覚のヘゲモニーに覆いかくされながら」とか「視覚の特権化を廃し」というフレーズに、視覚と聴覚の安易な二項対立、そして前者に対して後者の「復権」を図るというお決まりの脱構築の戦略を感じ取るかもしれない。しかし、それはスターンの姿勢ではない。彼は「聞くことと見ることの差異はしばしば生物学的、精神的、肉体的な事実だと考えられ、音の文化的分析のために必要な出発点であるとほのめかされる」として、一連のリストを「視聴覚連禱」として掲げる。【本書28ページ】
 その一部を参考として以下に掲げよう。

  ○聴覚は主体を巻き込み、視覚は遠近感を提供する。
  ○音は私たちのところにやってくるが、視覚はその対象へ向かう。
  ○聴覚は内面的なものに関わり、視覚は表面に関わる。
  ○聴覚は外側の世界と肉体的に接触する必要があり、
   視覚は外側の世界と距離を取る必要がある。
  ○聴覚は私たちを世界のなかに巻き込む感覚で、
   視覚は私たちを世界から分離する感覚である。

 そして彼は次のように付け加える。「視聴覚連禱」は聴覚(と、さらには話し言葉)をある種の純粋な内的要素を示すものとして理想化するが、それは宗教的な教義に由来するイデオロギー的なものであると。【本書29ページ】 一連のリストが「連禱(Litany)」と名付けられているのは、それがキリスト教的観念に由来することを示すためにほかならない。実際、彼はこの点を突いて、ウォルター・オングの主張を批判し、オング『声の文化と文字の文化』はときには科学的知見の要約のように読めるかもしれないが、オングの初期の著作は、諸感覚に対する彼の主たる興味が神学的関心にあると表明している旨を指摘している。
 しかし、ここで素晴らしいのは、スターンが一連の視聴覚連禱に「キリスト教的」とのレッテルを貼って、えいやっと乱暴に放り捨ててしまうのではなく、次のように述べていることだ。
 おそらく視聴覚連禱の最大の間違いは、聴覚と聴取を同一視していることだ。聴取は方向づけられた後天的な活動である。それは紛れもない文化実践なのだ。聴取は聴覚を必要とするが、たんに聴覚に還元されはしない。【本書33ページ】

 と、ここまで見てきただけでも、本書において思考が実に注意深く深められていることに気づくだろう。本書を読み進めることにより、読者は、私たちが普段、暗黙に前提としてしまっており、あまりにも当たり前なので、もはやそのことに気がつきもしないようなイデオロギー的な条件設定に気づかせてくれる。これは大きな魅力だ。本書が研究者にとって「必読文献」とされるのも納得できる。
 だが、私にとって本書の魅力はそれだけではない。これまで様々な箇所で自分が行き当たっていた課題、そしてそこに至る体験や思考の道筋が、至るところで本書と交錯しているのだ。
 たとえば、金子智太郎と虹釜太郎が主催する「アンビエント・リサーチ」でオートマタについて知り、次いで金子智太郎が通訳を務めたフランシスコ・ロペスのワークショップにおいて、「オートマタがつくられた時には、音響再生産技術を可能とする個々の技術は出揃っていた。にもかかわらず、音響再生産技術が確立されるのはもっと後のことになる。なぜ、その時ではなく、この時だったのか」という問いを投げかけられることになる。その時に思いついた答は、ジャック・デリダが「現前の形而上学」として批判する「自らが話すのを聞く」という回路にとって、音と発生源を分離したアクースマティックな音のあり方自体がタブーだったからではないか‥‥というものだった。
 これに対し、本書もまた「フォノグラフ(と、さらには電話)をつくる基本的な技術は、それらが実際に発明されるよりも少し前に存在していた。それではなぜ、音響再生産技術はまさにそれが登場した時代に登場し、他の時代には登場しなかったのか」という問いを掲げている。【本書12ページ】
 さらに「視聴覚連禱」と関連してデリダが参照されているのは先に触れた通りだが、それだけでなく、音響再生産技術を「音を発生源から分離させ、アクースマティックな音をつくりだす」ものとして定義すべきかどうかの議論において、直接言及はされないが、同様の問題群が再び参照されることになる。その結論としてスターンは、ピエール・シェフェールやマリー・シェーファーの論にもかかわらず、あえて対面のコミュニケーションや個人間の直接性を真正なものとして優位に置き、そこからのズレとして音響再生産技術を位置づけるのではなく、そうした聴覚の超越論的主体を必要としない定義、すなわち「変換器」によって音を何か別のものに変えて、さらにその何かを音に戻すという定義を採用するに至る。【本書34〜37ページ】
 このほかにも、以前にミッシェル・ドネダについて論じる際に引用した「アヴェロンの野生児」の事例(監督のフランソワ・トリュフォー自身が主人公の博士を演じた映画『野性の少年』の元ネタとして知られる)が採りあげられていたり、メルロ=ポンティだけでなく、マルセル・モースについて言及されていたりと、本当に興味は尽きない。

 以下に本書の目次を掲げておくので、ぜひ参考にされたい。また、本書の訳者の一人であり、訳者を代表して「訳者解説」を執筆している中川克志が、次のページで本書の紹介をしているのが、やはり参考になるだろう(冒頭に掲げたインスクリプトによる紹介文は、ここでの紹介や訳者解説を要約する段階で、いささか内容を短絡させてしまったのではないだろうか)。
http://soundstudies.jp/c01/

 また、表象文化学会発行による『表象』09号(月曜社)が、特集「音と聴取のアルケオロジー」を組んでおり、言わば本書の出版に合わせたもののはずなのだが、「大学院生向けの論文ネタ指導」的な色合いが強いせいか、どうも読んでいてピンと来ない。少なくとも私には、この特集の内容を通して、本書の魅力を思い浮かべることはできなかったことを白状しよう。まあ、だからこそ、実際に本書を手に取って読み始めた際に、強い衝撃を受けたのだとも言えるのだろうが。

目次
ハロー!
 音の自然を再考すること─森、倒れた木、現象学について
 音響再生産とは何か 本書の計画
第一章 人の代わりに聞く機械
 委託、共感覚、音の外見
 耳科学、生理学、社会存在論
 ダイアフラム、発声器官、音の機械
 もう一度耳から機械へ:音響再生産の可能性の核心
第二章 聴取の技法
 間接聴診と医学の聴覚文化
 間接聴診─技法の社会的基礎と哲学的基礎
 聴こえるものが知りうるものになる─変わる医学知識の体制
 記号としての音
第三章 聴覚型の技法とメディア
 電信術─「古代と近代」
 広められた聴覚型の技法─もしくはヘッドセット文化小史
第四章 可塑的聴覚性─技術をメディアに
 男性による出産と赤ん坊の機械
 音が産業的問題となる─研究と技術革新の場
 音響再生産の市場形成─実験的メディア・システム
 中産階級の社交における差別化、利便性、様態変化
 可塑性、家庭空間、宣伝活動
 官僚制、介在、国民性
 結論─まずはメディア、その後に技術
第五章 音響忠実性の社会的誕生
 音響再生産のダイアグラムとしてのスタジオとネットワーク
 真正性をもたらすための人工的な工夫
 機能の美学と再生産という事実
 忠実性と純粋聴力の拡張
 電話テストからトーン・テストへ─信頼すべき機械たち
 可変的な真実性
 遂に真なる忠実性へ
 信頼の断絶
第六章 鳴り響く墓
 化学の力で素敵な聴取
 彼のマスタリングされた声
 未来に向けたメッセージ
 「死にゆく文化の声」─音響民族誌と保存の精神
 プロジェクトとしての永続性
結論  聞こえくる未来

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書評/書籍情報 | 19:39:12 | トラックバック(0) | コメント(0)
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