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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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バスター・キートン走り、ヨゼフィーヌ歌う、ジョン・フェイヒーのギターに伴われて ARICA『Ne ANTA』演劇レヴュー  Buster Keaton Running, Josephine the Singer ( or Mouse Folk ) Singing with John Fahey Playing Guitar Theatre Review for ARICA "Ne ANTA"
 薄暗がりに白尽くしの舞台装置が浮かび上がる。白い壁、窓にはカーテン、その右側にベッド、左手前に冷蔵庫、床は手前へと広がり右手に伸びてドアにつながる。L字型をした白い床がくっきりと黒に縁取られて、そこには黒い壁がそそり立っていそうだ。でも確かそれは舞台の黒い床面が見えているに過ぎないはずだ‥‥。ほぼ2年半前(2013年3月)に森下スタジオで観た初演時の記憶がふつふつとよみがえる。
 場内が真っ暗闇になり、やがて舞台が冷蔵庫内を思わせる冷ややかな白い光に照らし出されると、ベッドにはもじゃもじゃ頭で、白いパジャマに色褪せた赤いガウンを羽織った男がひとり腰掛けている。時間を引き戻されるような強烈なデジャヴュが起こる。だが、その後に私が経験したのは、2年半前とは全く別の事態だった。



 事態がいかに「全く別」であったかを示すためには、初演時(その時は『ネエアンタ』というタイトルだった)の様子を説明しておかなければならない。詳しくは拙レヴュー(※)を参照していただくとして、ここでは作品の流れ/構造を簡単に振り返っておこう。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-221.html

 「ねえ、あんた‥」と、ベッドに腰掛けたまま身動きひとつしない男に、女の声が語りかける。男の身体はそれに「反応」し、少しずつ動き出し始める。突如、部屋の照明(吊るされた裸電球)が点滅し光度を落とす。この「暗い時間」に薄暗くなった室内で男は立ち上がり、窓へと向かい、カーテンを開け閉めし、冷蔵庫のドアを開け閉めし、次いで開いてしまったドアを閉め、再びベッドへと戻って腰を下ろすと、照明が再び明るさを取り戻す(「明るい時間」)。男がこのように動いている間、女の声は止んでいて、男がベッドに戻るとしばらくして、また声が聞こえてくる。以下繰り返し。男が動いている間、不思議な現れ方で古いドレス姿の女が現れ、また、正面の壁がベッドごと客席側へ押し出される(吊るされた裸電球もまたこちらへと近づく)。
 すなわち、この作品は基本として分割と反復によって構成されている。それゆえ前回舞台のレヴューもまた、女の声と男の身体とこれらの分割/反復を軸として構成した次第である。そして、これに付け加えられる音もまた分割と反復によって構成されている。女の声がしている間、他の音はしない。女の声が止み、ドアが開くときらきらとしたノイズが流れる。途中から低音の機械の動作音に似たノイズが加わり、これは冷蔵庫を叩いたり、ドアを勢いよく閉めると止まる。さらにもうひとつ。スライドを多用したブルージーなギターが流れる。
 驚くべきことに、後から振り返って確かめてみても、前回と今回の舞台で、こうした分割と反復の仕掛けはほとんど変わらない。では何が様相を一変させていたのだろうか。それは山崎広太の身体、安藤朋子の声、藤田康城の音響の三者三様のダンスにほかならない。


1.ダンス1 山崎広太の場合
 男の身体は空間にはまり込んだように、つまりは舞台装置の一部であるかのようにそこにある。前回舞台のレヴューでそれを私は「動こうとしないのでも、動くまいとじっとしているのでもなく、以前からそこにあった置物のように空間にすっとはまり込んでいる。これはダンサーの身体ならではの業だ。」と書いてある。これに修正の余地はない。まったくその通りだ。
 女の声が流れ始めても、身体はそれに反応しない。前回の舞台では、ある時点で彼はふと身体を左に向けた。「やがて男はゆっくりと左手方向を向くが、ヴィデオの再生をジョグ・ダイアルで操作するように、時折ふっと動いて、それ以外は動いているかいないかの超微速度で移ろっていく。そうした動きにもかかわらず動作は滑らかで段差がない。連動して動く身体の各部を巻き戻していく印象。これもやはりダンサーならではの身体技法と言えよう。」
 まったく何の動きもないわけではない。ずいぶんしてから、右足の爪先がすっと動いた。それだけ。しかし、それが覚えたことのない衝撃をもたらす。パントマイムのパフォーマーがよくやる演目に、顔を白塗りにしてマネキンに扮し、じっと動かずにいて、時折すっとポーズを変えるというものがある。その時の動きは先に記した「ジョグ・ダイアルで操作する」感触と似ている。言わば、ある平衡状態から別の平衡状態へと何の抵抗も感じさせず移行する。移るべくして移る。そこでは身体の各部は完璧に連動しており、各部の微調整が瞬時に行われ、一切の「もたつき感」を与えない。
 今回の右足爪先の動きは違う。それは他の身体各部の動きを全く伴わない。そこだけの動き。木の葉がはらりと散るように、花がぽとりと落ちるように、身体の一部が音もなく、前触れもなく、ただ欠け落ちる‥‥そんな風なのだ。

 女の声が止み、裸電球が明滅して、男が立ち上がり、窓へと向かう動きは変わらない。自分の意志で歩むというより、否応なく引き付けられていくような、抵抗とそれに抗う力といった摩擦を感じさせない歩行。しかし、窓辺から冷蔵庫へ、冷蔵庫との「格闘」からドアへと向かう動きは大きく異なっていた。
 前回舞台のレヴューで、私はその一連のプロセスについて次のように述べている。

 「明るい時間」に語りかける女の声は、男の身体に様々な事実や関係性を投げかけていく。それらは意味や文脈の重さで男の身体を縛り付けようとする。しかし男=山崎の身体はこれに抵抗する。声の流れる「明るい時間」には空間にぴたりとはまり込んで声をやり過ごし、「暗い時間」には意味/文脈の重みに抗いながら動作を反復する。それゆえドアへと向かう最後の行程は大変な力業となった。暴風雨に幹がしなり枝が折れ葉々が引きちぎられるように、多様な力線の交錯に翻弄される身体(実際、その動きは「暴風に向かって歩く人」のパントマイムのようだった)。そのプロセスは堆積するテクストの重みを洗い流す高圧シャワーでもあっただろう。

 ここで身体の運動はテクストの「重力」への「抵抗」として眼差されている。しかし、今回の舞台では、次章「ダンス2 安藤朋子の場合」で詳しく見るように、テクストが声のダンスによる変容を被っており、その結果、「重力」は弱まり、山崎の身体の動きは、ずっと奔放なものとなって、もはや「抵抗」とはとらえ難い「怪物的」なものへと変貌していた。
 私にとって山崎のダンスの原イメージは、ほぼ20年前にシンガポールで観た姿にさかのぼる。前回舞台のレヴューで私はこの体験について次のように綴っている。

 山崎はさほど広くないステージの端から端まで優雅な足の運びですたすたと歩き、そうした下半身に乗せて運ばれる上半身においては、多方向からの力線に刺し貫かれ突き動かされる高速の運動を、恐ろしい高密度に圧縮して重ね合わせてみせた。機銃掃射に跳ね上がり痙攣する死体を思わせる仕方で、コマ落としのフィルムのようにぶれ、輪郭を多重化する身体。それはたとえばジョン・ゾーンのゲーム・コールズによる速度と強度、切断と衝突に満ちたソロ演奏の視覚的等価物とでも言うべきもので、徹底して物語の次元を欠いたブロックの接合である。

 それはひとことで言えば、身体に多様な像をスーパーインポーズすることである。ある意味、そのこと自体は今回も変わりない。しかし、かつてのジョン・ゾーンの演奏と同様、そこで投げかけられる像は、すべて研ぎ澄まされた鋭利な断片で、高度情報社会を満たす様々な記号にまみれながら、そうした意味を脱ぎ捨て、純粋なマテリアルへ、速度へと化すことを夢見ていた。今回の山崎のダンスに、そうした純粋速度への信仰/憧れは見られない。加速することで情報の密度を上げ、さらに集積の度合いを高めようとするまっすぐに張り詰めた欲望が、ここではぐにゃりと変質している。確かに超高速でプロセッシングされたように、多種多様な断片が高密度で集積されている。だが、その中に以前には考えられなかったような滑稽さをはらみ、あるいは意味の重さで文脈を脱臼させ、あるいは身体の運動自体を無重力的に減速させる動きがふんだんに含まれているのだ。
 一様な加速に収まらずぽろぽろとこぼれていく特異点。前後を切断するように突然に差し挟まれるシンボリックなポーズ。身体の他の部分と切り離されてただ前に這い進む足裏。引き伸ばされ遅延していく時間の流れ。動作の中断により中空に置き去りにされる筋肉。不自然に折れ曲がり身体の軸線を見失わせる骨格。何度となくリセットされる展開。未曾有の事態に落ち込みながら、状況をどこまで把握しているのかわからない「笑わぬ喜劇王」バスター・キートンを思わせる無表情。目的から切り離され一瞬立ち尽くす動作。足場を失って宙に浮く身体。
 しかし、それは自らを「ダンス」として舞台上の俳優の存在から切り離そうとはしない。山崎の身体は一連の動作としてしかるべき距離を移動し、冷蔵庫の扉を開け閉めして、開いてしまったドアを閉める。俳優がダンスを演じるのではなく、日常的な動作に、つまりは舞台上の時間/空間に、果ては観客の身体的記憶にダンスの息を吹き込むこと。


2.ダンス2 安藤朋子の場合
 今回の舞台が前回とはまるで別物であることを直感したのは、流れてきた女の声を耳にした瞬間だった。そこで声は身体を引きずり、揺すぶり、大きく伸びをして、子どものように跳ね回り、ふうわりと宙に浮かんでいた。
 女の声について、前回舞台のレヴューで私はこう記している。

 抑揚をやや平坦にした、どこか息の漏れるような力ない発声。現代詩の改行のように本来あるべきでないところにブレスが配置され、声が一瞬止まり、意味に沈黙のナイフが入って、呼吸の運びはうわずるように宙に浮き、メッセージを宙吊りにする。まるで自動機械が話しているようにも聞こえる。テクストの内容は男の過去や現在を暴き続けるが、この声のつくりがそこに恨みや後悔といった情念の入り込む余地を与えない。ちらしに印刷された解説は、女が男と以前に付き合っていて、その後別れ、今はもう死んでいる可能性を指摘するが、虚ろに響くこの声の感触を、そうした関係性の網の目に解消してしまうことはできない。あるいは声は男の頭の中だけで鳴っていて、私たちはそれを覗き込んでいるだけなのかもしれない。だがやはりこの声を、男の自責の念がつくりだした幻聴と片付けてしまうこともできない。どうにも始末しようのない厄介な存在(まるでゴロンと横たわった身体/死体のように)として、女の声はただそこにある。

 「声がただそこにある」境地から、何かを演じる声へと、表現の「乗り物」へと、声がその立ち位置を後退させてしまったわけではない。俳優が多様な声音を使い分けたとか、声に様々な感情を込め、反映させたとは聞こえなかった。ここで声は自ら身体を持ち、舞台装置の一部のように座っているかと思えば、ふと立ち上がり、何物かに引き付けられるように歩み出し、身体を撓め、語を宙に吊り、ポーズを取り、コミカルな仕草をし、時の流れを滞らせ、また何事もなかったように再び始める。しかし、それが自己満足的なヴォイス・インプロヴィゼーションに堕してしまうようなことはない。常に声の運動はテクストとの緊張関係の下にあり、彼女の声はしかるべき語や文脈を経過していく。つまりは山崎の身体の場合と正確に同じ意味合いにおいて、安藤の声もダンスしているのだ。
 ガス漏れや隙間風を思わせる息音。「あー」と語にならない曖昧な「声漏れ」。歯切れの良いスタッカートな発声。ずずーっと音を立てて吸い込まれる息。足を引きずるような語り。おだやかなマルカート。幼児化したようなコケティッシュな口ぶり。弾むような息遣い。息も絶え絶えなかすれ声。喉に貼り付く舌。陰鬱な沈み込み。歌い上げるような高揚。別人格に憑依されたかと疑う一本調子。声に一瞬付加されたエコーにより姿を現す暗い深淵。
 それは多種多様ではありながら、数多のヴォイス・パフォーマーたちが競うように披露する声の表現領土の拡大とは、まったく異なっている。それは言うなれば声の「動かないダンス」であり、貧しく切り詰められた「聞こえない歌」にほかなるまい。こう書きつけながら私は、フランツ・カフカの描いた、ネズミ族の歌姫ヨゼフィーネのことを思い浮かべている。

ふるえるむね/ふりあおぐめ
ぞっとするほどそらした/かお/ねじれたかたち
(中略)
ちんもくのなか/ちからないこえが
どうにかして/こっちへこようと/もがいている 【訳:高橋悠治】

 「声のダンスによりテクストが変容を被った」と前章で述べた。それはダンスに注力することにより声の伝達力が弱まったということではない。テクストをより多孔質のものへと変容させた‥‥とでも言おうか、例えば先に述べた「この声の感触を、そうした関係性の網の目に解消してしまうことはできない」傾向はさらに強まった。「声は男の頭の中だけで鳴っていて、私たちはそれを覗き込んでいるだけなのかもしれない」どころか、女の声は男の存在する時間/空間とはまったく別の層に存在していて、それらをパラレルに見渡しているのは我々観客だけなのではないか‥‥との疑念すら生じさせる。それだけ強い独立性/自立性を、彼女の声は手に入れていた。



3.ベケット/ARICA
 こうした身体や声のダンス化、あるいは後に見る女の身体の登場や音楽の使用は、ベケットの原作に対する行き過ぎた恣意的な解釈なのだろうか。演劇に明るくない私に、それを判定する資格はない。しかし、私なりに原作との関係を振り返っておきたい。
 今回の『Ne ANTA』(前回舞台では『ネエアンタ』)は、サミュエル・ベケットによるテレビ・ドラマのシナリオ『Eh Joe』に基づいている。このドラマは英国BBCでの放映のために書かれたものだが諸般の事情で制作が遅れ、先にドイツでベケット自身による演出の下、制作・放映された。

 シナリオを見ると、テレビ・ドラマゆえ、キャメラについての指定までなされていることがわかる。冒頭、男がベッドに腰掛けており、立ち上がって窓のところに行き、カーテンを開け閉めし、また戻る。男の動作は冒頭のこれ1回きりで、しかもこの部分は男の背後から撮影するよう指定がある。以降、女の声が流れ続け、男は動かない。表情も基本的に変えない(パラグラフの途中で眼をつぶるなという指定まである)。ただし、キャメラに対し9回に分けて男へと寄っていくよう指示されている。もちろん音楽はなし。
 女の声による告発が降り注ぐ中、身動きもせず、黙って打たれ続ける男。そこには当然、宗教的な意味合いが生じてくる。さらにテレビという「何を見せるか」よりも「何を見せないか」が主な機能であるメディア、限定されたキャメラの動き、クローズ・アップの使用‥‥ということになれば、女の告発に対する男の葛藤が主題となってくるだろう。変わらない表情の中に生じる僅かな徴候を通じて内面を覗き込む‥‥。実際、ネット上にアップされている上演はそのようなものだった。

 見せないものを数多く生み出すことにより視線を縛りつけようとするテレビ・ドラマを、演劇の舞台という「何でも見ることができる」=「何を見ればよいかわからない」メディアに翻案する際に、どこまで「忠実度」が求められるべきだろうか。言い方を換えれば、選び抜かれた数少ないルールによって構築された「ベケット・ゲーム」の面白さを、一際まばゆく輝かせるためには、一体どうすればよいか。シナリオだけを金科玉条と奉るのではなく、そこで下敷きにされた「暗黙のルール」(ここではテレビというメディアの特性)まで考えに入れて、構造変換を試みる必要があるだろう。
 ARICAは賢明にも、男と女の設定だけ借りて来てベケット原作と称するような陳腐な愚は犯さなかった。ベケットの真髄が禁欲的なまでの厳密さにあることを熟知していればこそ、キャメラのクローズ・アップ指定すら、舞台装置の壁が4回に分けて前方へ迫り出してくるという指定に変換され、さらにこれを基盤として、男の動作を冒頭の1回だけから、セットごとの4回に増やし、反復により構造をさらに強化している。もともとのシナリオにおいても、キャメラの移動は女の声と重なってはいけないとされ、「分割」による構造化が明確に意図されていることがうかがわれる。
 女の声について、シナリオは次のように指定している。「低い声で、はっきりと、よそよそしく、色づけを少なく、完全に一定のリズムで、通常より少しゆっくりと」。前回舞台の安藤の声は、これをほぼ忠実に守っていると言えるだろう。
 さて、「動かない身体」と「変化のない表情」という指定を守りながら、内面を覗き込ませるのではない舞台をどう構築するか。この解けるはずのない問題に対し、「動かないダンス」をする身体を見せればよい‥というあり得ない回答をARICAは用意することになる。もちろんそれは山崎との出会いがあればこそだろう。それゆえ演出担当の藤田が初めて山崎に語りかける言葉は、「動かないダンスに興味はありますか?」という問いかけとなった。
 こうした発想の基に成立した前回舞台『ネエアンタ』を今回『Ne ANTA』として再演するにあたり、先に見たように、「動かないダンス」の「動く化」ではなく、動くことも動かないことも含めて「ダンス化」することの徹底が図られた。それが安藤の声にも及んだと考えることもできるし、あるいは男の身体と女の声の二つの層を、共にダンス化することでぶつけ合わせ、またリレー化するという演出的発想もあっただろう。その背景には、やはりベケット作品である『しあわせな日々』の上演で、安藤がヴォーカリスト(声使い)としての自らの資質に改めて目覚めたということも、大きく影響しているように思う。


4.ダンス3 藤田康城の場合
 「音」もまたダンス同様、ARICAによる舞台化に際して導入された新しい要素である。「音」は、女の声が流れる「明るい時間」ではなく、「暗い時間」にのみ限定して放たれる。このことにより、聴覚のレベルでは女の声と「音」が時間軸上棲み分けるように対比され、一方、「暗い時間」においては男の身体の運動と「音」が共存しながら、視覚/聴覚の対比の下に棲み分けていることがわかる。
 前回も今回も「音」は次の3種類が用意されている。
 a ドアが開いている間に放たれ、閉まると止む。きらきら輝く砂粒のようなノイズ。
 b 男が窓付近にいるうちに鳴り始め、冷蔵庫の開け閉めにより鳴り止む低音の機械動作音を思わせるノイズ。
 c 上記abと重なるように流れ、aと同時に鳴り止むギター音楽。及び最後、舞台上の女がベッドを押し戻す際に流れるフリー・ジャズ。

 今回、a・bとも前回より音量も大きく、輪郭もはっきりとして存在感を増したように感じられた。これはわざわざ持ち込んだという黒い二階建てエンクロージャのPA(Taguchi製?)の貢献もあるかもしれない。
 しかし、前回より著しく増強されたのはcである。前回の舞台の「音」について、私は次のように述べている。

 その「暗い時間」に流れる音には前述の「きらきら輝く砂粒のような音」だけでなく、ざわめきを伴う持続音や音響的なブルース・ギター(ローレン・マザケイン・コナーズを思わせる)の断片の反復等が重ねられていく。時間を差別化するための舞台装置的なアンビエンスや記号的な効果音ではなく、かと言って情感やメッセージを濃密に担うこともない、精密に設計され巧妙に仕組まれた、たいそう魅力的でありながら決してどこかに着地することのない「どっちつかずの音」。

 藤田に確認したところ、ジョン・フェイヒー『Womblife』を中心に構成したとのことだった。今回もフェイヒーの様々な音源から選定しているという。そのため、一見、サウンドの手触りは共通しているのだが、その立ち位置は明らかに異なっている。今回、フェイヒー音源に基づく「音」の使い方は、明らかに「どっちつかずの音」から踏み出している。もともと『Womblife』はフェイヒーがジム・オルークと共同作業を続けていた時期の作品であり、ミュジック・コンクレート的な手法が多用され、荒涼とした広がりを錆びたギターが渡っていく光景にフォーカスしながらも、様々な音響やエレクトロニクス操作がミックスされることにより、響きは空間に侵食され、血を滲ませ、混濁しながら辺り一面に沁み込み、いつまでもいつまでも止むことなく鳴り続けているような感触を与える。ブルーグラス/ブルースの持つヴァルネラビリティと、他者に横断され、その痕跡を刻まれることにより、さらに魅力的に輝く資質を最大限に引き出したものとなっている。
 前回の使用法が空間に「緩衝材」として充填する方向であったのに対し、今回の「音」の使い方は、そうした混濁や横断性、すなわちそれ自身がはらむ交錯や衝突を前面に押し出すことにより、声のダンスや身体のダンスとは明らかに別の、独立した層を動きながら、両者との対比をより鮮明なものとし、両者を構造的に結びつける役割を果たしている。
 だから、今回の舞台では、フェイヒーの「音」は山崎のダンスの背景となっていない。それは「伴奏」ですらなく、言わば山崎の身体と対等にぶつかり合っているのだ。この喧噪が安藤の声のダンスのテクストの運び手にとどまらない「過剰さ」を支えている。また、前回舞台ではある種逃れ難く必然と思われた、女の声と舞台上に現れる女の身体の結びつきを、今回はいったん切断し得ていたように思う。すなわち、前回は「音」が背景に退いていたことで、私は「女が既にこの世のものではなく、声の主である死んだ女であろうことはたやすく想像される。しかし、にもかかわらず、声と女の身体を結びつけるものは何もない。むしろ舞台上に現れる女の身体は、声との関係を持つこと、声の重みを背負うことを注意深く回避している」と書き付けながらも、男の身体とバランスを取るために、女の声だけでなく、女の身体が召喚された感じを否めないでいた。しかし、今回は男の身体と女の声、「音」の三者が、先に見たように独立した層をかたちづくってバランスし、舞台上に現れる女の身体は、ドアを開け、冷蔵庫を押し出し、ベッドを押し戻す動作に見られるように、舞台装置の「機械仕掛け」の一部と見なした方がいいように思われる(そうすると最後の場面で安藤の身体が垣間見せる、エロスが豊かに香り立つエクスタシーのダンスは、ダンス4ということになるだろうか)。

 もうひとつ付け加えるならば、この「音」の層の自立は、最後に用意された「舞台崩し」としてのフリー・ジャズの使用を説得力のあるものとしていたように思う。前回のドラム・ソロ(鈴木勲トリオ『Blow Up』最後のジョージ大塚によるソロだという)は、今回、管楽器の分厚い咆哮(Peter Brotzmann『Machine Gun』からだという)に換えられており、ベケット的閉鎖空間を打ち破り、祝祭的な解放感を与える「ファンファーレ」として、場内に高らかに響き渡っていた。

ARICA / Ne ANTA inspired by Samuel Beckett
2015年11月5日〜8日
シアタートラム

演出:藤田康城
テクスト協力:倉石信乃
出演:安藤朋子・山崎広太
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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:36:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
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