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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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「演奏機械」と「音響機械」のカップリング 「タダマス20」ライヴ・レヴュー  Coupling of "Playing Machine" and "Sound Machine"  Live Review for "TADA-MASU" 20th
 益子博之と多田雅範による四谷音盤茶会の記念すべき20回目(丸5年の継続!)のレヴューをお届けするが、何時にもまして主催者側の意図とはすれ違ってしまっていることを、まずはお断りしなければなるまい。というのも、明らかに今回の山場として設定され、その後に発表された2015年ベスト10でも上位に位置づけられているMette HenrietteとMatt Mitchellの演奏に、どうにもこうにも耳の焦点が合わず(実はこれに先立つ時間帯に『松籟夜話』の打合せをしていて、物音や気配的な演奏やドローンに耳を澄ましていたことが、原因のひとつかと思われる)、あれこれと試行錯誤を続けるうちに、あろうことか取り逃がしてしまったのだ。前者については、チェロの軋みが点景としてフォトジェニックな美しさを放ちながらも、もどかしいほどに遠く感じられ、それを何とかたぐり寄せようとするうちに、続くサックスの音色は頭の上を通り過ぎてしまった。一方、後者はと言えば、会場である喫茶茶会記のアルテック・スピーカーが、前回からエンクロージャーを変更してソリッドさを増し、今回はさらにセッティングを詰めたようで、以前の一定の距離をおいて音像が居並ぶ音場構成から一変して、Mitchellの打鍵がびしびしと私の眉間を叩き続けるその向こうに他の音を窺うといった状況で、とてもではないが演奏の全体像を把握することが出来なかった次第である。


 それでは何が最も響いたのかと言えば、前半の終盤に続けてかけられた、いずれもソロによる3作品である。ここではそれらを中心に印象を書き留めておくこととしたい。
 まずJon Irabagonのソプラニーノ・サックスによる『Inaction Is an Action』では、とてもサキソフォン演奏とは思えないうなり声や鶏のけたたましい鳴き声が鳴り響いた。後ろの席からは音盤の再生中から誹謗中傷が聞こえてくる有様で、これまでにもJoachim Badenhorstのソロをはじめ、所謂「ジャズ」的でない演奏も数多く披露してきた「タダマス」にあっても、これはかなり異色だった。益子による解説もIrabagonが本来の持ち楽器ではないソプラニーノに挑戦した点を強調していた。
 続く徳永将豪『Alto Saxophone 2』は題名通りアルト・サックスのソロ。本作は本ブログでもディスク・レヴューで採りあげている(*)。鳴りしきる管がその張り裂けんばかりの強度をそのままに、ぐーっとねじ曲がっていく様が圧巻。益子は4〜5年前にリリースされた彼の第一作の時点からチェックしていたようで、当時からフレーズを全く吹かず、サウンド/音色の変化だけの演奏で、弱音で吹きながらそのまま膝を着くと音色ががらっと変わった‥‥と当時のライヴの様子を語り、それに対して本作ではまるでモジュレーションのような音色の変化が聴けると説明した。
 さらに吉田野乃子『Lotus』はやはりアルト・サックスのソロで、ここではひとり多重録音によるトラックが選ばれた。「身の詰まった」ボディを感じさせる音色が隙間なく押し寄せる様は、思った以上に重量感がある。ホスト役の多田と益子の間では、この演奏が「塗り絵」的であるかどうかについて議論が交わされた。
 *http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-380.html

 後半最初はIngrid Laubrock『Ubatuba』からの長尺の演奏だから、明らかに次のMatt Mitchellのやはり長尺の演奏につながる流れで、ここは明らかに先立つBen Monder『Amorphon』、Mette Henriette『Mette Henriette』からの展開をいったん中断して、ソロ3作品をシリーズで差しはさんだ構成となっている。それが私には、楽器と演奏者の身体の関係を問うものとして聴こえた。どういうことか。

 Ibaragonの演奏は、Michel Donedaの気息音と同様リードを振動させることなしに、ソプラニーノのまっすぐな管に休みなく息/声を吹き込み続けるものだった。それは胸郭を震わせるような低音のうなり声から、声帯の振動を伴わない素早い息の流れまで、驚くほど幅広いスペクトルに渡る。この演奏をソプラニーノ・サックスのソロととらえれば(おそらく、この場にいた聴衆のほとんどがそう聴いたはずだが)、それは楽器の機能を否定した、あるいは裏返したダダ的なパフォーマンスと映ることだろう。だがその内実はむしろ、ヴォイス/ブレス・パフォーマンスを繰り広げる身体に共鳴管を接続したところにあるのではないか。ここで管は「抵抗」であり、素早く姿を変える声/息に対し、突き刺さったトゲのように「動かないもの」であり続ける。素晴らしくクレヴァーな踊り手である山崎広太は、自らの即興ダンスの秘訣について「必ず身体のどこかの部分を動かさずに遊ばせておくこと」と述べている。その不動の部分が、15ゲームの空いた升目のように作動するのだろう。ここでのソプラニーノのまっすぐな管も同じことではないか。

 徳永の演奏についても、楽器と演奏者の身体の接続に着目すると、新たな視界が開けるように思う。通常、楽器は演奏者の身体の一部となり、演奏者の意図をサウンドに変換して外界へと解き放つ。ここで内と外の境界はサックスのベルの近辺にある。だが徳永の場合、むしろサックスは演奏の場のアコースティックに深々と差し込まれており、その半ば以上を空間の振動特性に支配されている。彼はマウスピースを通じてサックスに息を吹き込んでいるのではなく、サックスを通じて広大な空間に息を吹き込んでいるのだ。「演奏機械」と「音響機械」のカップリング。その境界/平衡点は沸き立つ力が拮抗する恐るべき闘争の最前線であり、内と外の力のバランスを巡って戦線は凄まじい速度で遷移し、あるいはじりじりと鍔競合いを繰り返す。我々が目撃する倒壊/転倒していく音響構築物やモジュレーションによりねじ曲がる音流は、言わばその結果、ないしは波及効果に過ぎない。

 吉田の演奏についても、サックスを絵筆のような道具と見立ててしまえば、多重録音による作品制作行為は、それ自体「塗り絵」的なものとならざるを得ないだろう。だがしかし、吉田の放つサウンドは見目麗しい音の塗り絵を描くには、あまりにも存在感というか、「肉」の手触りが強過ぎる。一介の「歯車」としては過剰なのだ。それはアンサンブルのあり方にも見られる。益子もまた、この演奏について、サックスの音ではなくまるでアコーディオンのように聴こえるとコメントしていたが、実際、音の立ち上がりがあまりにも一糸乱れず揃い過ぎている。本来なら、そこでの微妙なズレがアンサンブルの厚みやスケール感をもたらすのだが、反対に精密極まりないミニチュアみたいに聴こえる。さらに持続音が構成するハーモニーとは別に、ちらつくように振動する内声が仕込まれていたことに注目したい。この部分は「一糸乱れぬ」持続とは対照的に、まるで幾何学庭園のように整序された音響構築の中に、もつれや綻びに関わる動きをもたらしており、それがやがて次第に高まり、滔々と流れ行く「音楽」とは別に、その傍らで小鳥の群れの囀りのように響きながら、演奏の全体をより魅力的にしていたと思う。それは演奏者の意図しない細部なのかもしれないし、あるいは当初「塗り絵」として想定していた作業を進めるうち、プレイバックを聴き返して、この不思議な眩暈のような感覚に気づき、遊び心からそれをふと拾い上げてみたのかもしれない。いずれにしても「塗り絵」の枠線からはみ出す部分ではあろう。


 これら3作品の「はみ出し方」に比べると、Ingrid LaubrockからMatt Mitchellに至る流れは、いかにも折り目正しく「ジャズ」の枠内に収まっているように思えてしまう。これに先立つMette Henrietteは、そうした枠からこそはみ出してはいるものの、クラシック・ミュージックや民族音楽の要素を加えたら、あるいは音響的なアクセントを付加したら‥‥と説明可能な、言わばあらかじめ指定席としてリザーヴされた「枠外」にとどまるように思われる。

 最後に発表された「タダマス」の選ぶ2015年ベスト10(※)のラインナップを見ると、今回のMatt MitchellにMette Henriette、同じSimon Jermyn参加作品でもHoward PeachではなくSimon Jermyn's Trot A Mouse、「ジャズ」への憧れに満ちたJen ShyuとRema Hasumiと、いつになく「ジャズ」色が強いように感じられてしまう。「ジャズ、完全復活!」などという威勢のいい売り文句もどこかから聴こえてくることだし。
 ※http://gekkasha.modalbeats.com/?eid=955038

 しかし、にもかかわらず、私の益子・多田への信頼は揺らぐことはない。先に挙げたソロ3作品を、数十枚から選び抜いた10枚に入れてしまう、いや入れざるを得ないバランス感覚というか、扉を閉ざして純粋種だけの閉域をかたちづくってしまうことへの反発ないしは違和が、そこには自分の足で揺るぎなくすっくと立っているからである。
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撮影:原田正夫


第20回四谷音盤茶会
2016年1月24日(日)
綜合藝術茶房喫茶茶会記
益子博之、多田雅範  ゲスト:山田あずさ



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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 01:48:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
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