■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

梨(複数)と音楽(複数)と Les Trois Poiresへの期待  Les Poires Et Les Musiques Les Attentes pour Les Trois Poires
 津田貴司がバンド(?)を始めると言う。初のライヴが3月19日(土)に水道橋FTARRIで行われる。FTARRIのライヴ情報ページによると、メンバーはtamaru (ベース・ギター)、hofli [津田貴司] (エレクトリック・ハープ)、kazuya matsumoto [松本一哉] (パーカッション)の3名。
 
 彼から、こんな便りが届いた。

あたらしくトリオ編成の活動をはじめます。
ユニットと言えるほど定期的な活動ができるかは未定ですが、久しぶりに「楽器を演奏する」トリオです。
これまで綺羅星のごとき数々の音響彫刻作品をリリースする一方、長きにわたってベースギターによる独自の演奏を追究してきたベテランtamaru。このほど全篇野外録音、パーカッションと自然音との共演という内容のソロアルバム『水のかたち』をspekkからリリースしたkazuya matsumoto。そして私はこのところソロ演奏の際に使用してきたエレクトリックハープによって、これまでにない硬質で鉱物的な演奏を目指します。

 津田に聞いてみると、tamaruとはすでに15年来の付き合いだと言うし、松本とも以前に彼の企画で2回ほど共演したことがあるとのことだから、今回の「バンド」の構想は、彼の活動の中で、時間をかけて徐々に形になってきたものなのだろう。
それでも傍目から見ていると、『松籟夜話』番外編でtamaruの音盤をプレイすることになり、tamaru本人も会場に来てくれたことや、先日の『松籟夜話』第五夜でもジム・オルークの音源に照らし出されて、やはりtamaruのトラックをプレイしたこと。さらにはTomoko Sauvageの7年ぶりの帰国の機会をとらえたライヴにおける彼女と津田のデュオに、飛び入り風に松本が参加したことなどがあり、短い時間でぱたぱたと切り替わっていく光景の中、自分の眼の前で今回の「バンド」の組み立てが出来上がり、ぽーんと飛び出してきたような興奮を覚える。

 tamaruも津田=hofliも松本も、下手をすると「アンビエント」というコンビニでいろいろ売ってるサプリメントみたいな「機能性音楽」のジャンルにくくられかねず、こうした事態に対してはそれぞれに反発してもいるのだが、今回の「バンド」は、彼らの音楽と「機能性音楽」としてのアンビエントの決定的な違いを明らかにしてくれることだろう。

 これまで津田=hofliの音楽については、このブログでも何度となく触れてきた。松本については先に挙げたTomoko Sauvage, 津田貴司とのライヴについてレヴューしているので(※1)、ぜひ参照していただければと思う。tamaruについては、彼の音楽ではなく映像作品について言及したことがある(※2)。
※1 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-385.html
※2 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-333.html

 その際の言及から一部を抜粋してみよう。

 続いての画面はよくわからない。細かい市松的な模様が向こうへと起伏を持ってなだらかに続いているように見える。粒子が荒れていて、ウイルスの電子顕微鏡写真みたいにも見える。陰影があるようでないようで、光源の位置のよくわからない明るさが希薄に漂っている。立体なのか平面なのか、大きさや距離、奥行きもよくわからない。ただ、その前の鯉の画像と比較して、時間の流れていない感じが際立っている。しかし、動きがまったくないわけではない。ミクロにちらつくような、溶け広がってにじむような動きが、背後に潜んでいるように感じられる。ピントが合ったりずれたりする感覚があり、画面全体が静かに息づき脈動しているようにも思われる。しかし、それは観客の視覚の問題かもしれず、暗がりを見詰めていて暗くなってきたかと思うと、知らず知らずのうちに眼を細めていた‥‥といった感じにも似ている。「AHA動画」を眺めているみたいに、気づかないところで何かが姿を変えているようにも思われ、落ち着かないことこの上ない。すべては運動の只中にあるというベルクソン的なヴィジョン? あるいは腐食のようなミクロで緩慢な変化? そうした疑念と不安が画面全体に薄く薄く溶け広がり、輪郭は震え滲みちらつき、ミクロな脈動が全景に波及するようでいて、再び見直すと何事もなかったように整列している。

 細部で常に何かが立ち騒ぎ、全体を不安定に流動化させているようでいて、決定的なことは何も起こらない宙吊りの時間。カタストロフなきサスペンス。それはレヴューの中で種明かしされているように、静止画像の画調を変化させながら、それをハイビジョン・ヴィデオで撮影するという、びっくりするほど簡素な仕掛けで生み出されているのだが、それでも先に述べたようなミクロな変容は、映像を懸命にスキャンし続ける視線が、そこで出会う(映像から投げかけられる)無数の問いに答え続けるところにしか、開かれることはないだろう。

 津田が今回の「バンド」の活動開始に際して立ち上げたFacebookページ(※3)で、2007年に行われたtamaruへのインタヴュー(※4)を紹介している。
※3 https://www.facebook.com/events/1572808179709038/1577418705914652/
※4 http://japanimprov.com/tamaru/tamaruj/interview.html

 そこで津田は「現在の演奏スタイル(振動しているベースの弦に指を触れることによる高次倍音奏法)は、この時点での演奏ともすでに大きくかけ離れているわけですが、演奏活動の芯にある姿勢は今も変わらないように思います。」とコメントしているのだが、実際、インタヴューに眼を通すと、非常に興味深い発言に出会うことができる。

 ボリュームペダルでゆっくり立ち上げたベースギターのロングトーンを、タイムの長いディレイに供給していく。供給の継ぎ目が判りにくいように繰り返して、シームレスなドローン風サウンドにする、というのが、現在の自分の演奏における中心的なスタイルです。これは、思いついたことをいろいろと試すうちに辿り着いた手法です。
 時おりエフェクターが増えたり減ったり、マイナーチェンジを施すことはありますが、基本的に同じセッティングで、同じスタイルの演奏を長く続けています。その理由は2つあります。
 ひとつは、この演奏が自分に対して問題提起をしてくるためです。演るたびにいろいろ発見がある、飽きない、いまだに面白い、などの言い方を全て「問題提起」と言ってしまっていいと思います。このセッティングは、演奏と出音の関係や、演奏の中での呼吸について考察することを求めてきますし、重畳するディレイ音による微分音ハーモニーや、倍音構成や定位の不可思議な変化は、自分が予期しないものとの対話のようです。また、調性感/無調感および拍意識の揺らぎや、持続音によるドラマツルギーの構築/放棄など、即興行為の立ち位置の問題として考えさせられるところも多くあります。
 もうひとつの理由は、時に表現の探究が、スタイル更新への執心にすり替わってしまう危険性を感じているため、自分はスタイルというものに対して慎重に接しているということです。ただ、それでも変わっていってしまうもの、変えざるを得ないものはあると思います。

 即興で演奏するということが、いつの間にか「事前の準備なしに演奏する」ことにすり替えられ、かつそのこと自体にもうすでに至上の価値が存しているかのように語られ、しかもその内容は聴衆の期待を裏切ること、すなわちtamaruの発言において賢明にも慎重に遠ざけられている「スタイル更新」(いや闇雲な消費と言った方がいいだろうか)への傾向でしかないような時代にあって、この発言は重く確かな手触りを与えてくれる。即興演奏とは、セッティングにより開始前から保証されるようなものではなく、飛び立った後に出会う無数の問いに、その都度答えていくことなのだと。この点において、tamaruの「芯」はいささかも揺らぐことなく、見事に持続していると言えよう。

 「エッジが立った」とか、「ハード・エッジな」ということがどういうことなのか、当然のことながら、それはもはや大音量を出すとか、ノイズを垂れ流すとか、ステージで暴れるというようなことではたどり着きようもない地点なのだが、そのことに明瞭に遭遇するまたとない機会となるのではないかと期待する。

 だが、それにしても、なぜ「三つの梨」なのだろう。trois, poiresという単語を見ると、エリック・サティ「梨の形をした三つ(の小品)」が反射的に浮かんでしまうのだが。「家具の音楽」的な静謐な佇まいのうちに、毒を仕込んだサティと共謀して、サプリメント的な癒しの「アンビエント」への反発/攻撃を標榜しているのだろうか。それとも梨の、ユーモラスな丸みを帯びながらも、よく見るとジャガイモのようにごつごつとした凹凸をたたえた輪郭を、林檎のすっきりと硬質な輪郭と対比させているのだろうか。林檎の目の覚めるような赤みや黄色みに比べ、梨の肌は黄緑のような薄茶色のような鈍く金色に光るような、曖昧に入り混じりながら、互いに打ち消し合う沈んだ色合いをしている。それらが三つ並んだ静物画は、ちょうどジョルジョ・モランディの埃にくすんだ柔らかな色彩の壜たちの集いを思わせる。
 先に触れたtamaruの映像作品の中でも、私は次のようにモランディを引き合いに出している。不思議な符合ではある。

 画面上の事物の、揺らぎをはらみつつも空間にはまり込んだような静謐な佇まいは、ジョルジォ・モランディ的な魅力をたたえている一方で、その揺らぎはとても視覚では受け止めきれず、手指の間からこぼれていく微細な豊かさを誇っている。

譴ィ・狙convert_20160228211250 梨2 梨3
梨4 梨5 梨6
梨(上段)とモランディ作品(下段) ちなみに上段左端はセザンヌによる。


2016年3月19日(土)
『Les Trois Poires』
tamaru (ベース・ギター)
hofli [津田貴司] (エレクトリック・ハープ)
kazuya matsumoto [松本一哉] (パーカッション)
水道橋FTARRI
19:30開場 20:00開演
1500円



スポンサーサイト


ライヴ/イヴェント告知 | 21:22:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad