身を切る乾いた雨の雫 − 狩俣道夫『ノーアンブレラ、ノータンギング、イフ ノット フォー ザ ルーム』ディスク・レヴュー Piercing Dry Raindrops − Disk Review for KARIMATA Michio "no umbrella, no tonguing, if not for the room"
2016-03-15 Tue
近藤秀秋から以前に本ブログでレヴューした自作『アジール』(※)に続き、再び便りが届いた。狩俣道夫の初CDをリリースすると言う。彼の名前は近藤の話によく出て来たので覚えていた。譜面にも即興にも強い、とても優れた、だがまだよく知られていない、まさにアンダーレイテッド・ミュージシャンとして。※次のディスク・レヴューを参照。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-364.html
数日後に届いたCD『no umbrella, no tonguing, if not for the room』(Bishop Records EXJP020)は全編無伴奏フルート・ソロ。構成は「rain」あるいは「umbrella」と題された複数のフリー・インプロヴィゼーションによる短いトラックが並べられ、そこに「God Bless the Child」、「波浮の港」(中山晋平作曲)の曲演奏が差し挟まれる。
冒頭の「rain #1」から、ほとばしる息の速度に一気に耳が惹きつけられる。塊として射出された息が、部屋の空気を貫き飛び去る。水平な息の軌跡が沈黙を切り裂く。次第にクレッシェンドする音の広がりが寸分狂わぬ円錐形を描く。アブストラクトな(だが実際には何よりも具体的な)サウンド・ペインティング。一瞬の立ち上がりの見事さ、触れれば切れるような輪郭の鋭さ、その内部を走る息の層流/乱流の鮮やかさは、卓越した演奏技術の賜物であると同時に、彼の演奏の核心に迷いなく的確にフォーカスした録音の成果でもあるだろう。
これは息の舞踏と呼ぶにふさわしい。ステップの切れ味のみならず、素早く自在に、かつ優美に撓む音の身体の曲線ゆえに。だがそれはセシル・テイラーが自らの演奏を「10本の指のバレエ」と称したのとは、いささか意味が異なる。セシルにあっては鍵盤上を跳躍する指の動き自体が、そのままバレリーナの身体に重ねられていたのに対し、狩俣の演奏においては、彼の演奏する指先や唇、舌の動きは、あくまで裏方に過ぎない。ここでプリマは、眼に見えない、だが耳には鮮やかな軌跡を彫り刻む、息の流れにほかならない。それは着地点、接地点を持たない中空のダンスなのだ。
と同時に、この精霊舞踏の背後に、何者かの黒い影が時折ふっと浮かぶことに気づく。ふと漏れる溜め息、咳き込み、押し殺したうなり声、息を吸う間合い、何語ともつかぬつぶやき、音にならない息遣い。管に息を吹き込むと同時に唸ったり、声を出したりという奏法はある。サックスでも行われるが、フルートの場合、ほとんど全編、それで押し通す奏者すらいる。だが、ここでは、フルートの領域と「声」の領域は厳しく峻別されている。息と声がほとんど同時に放たれる時ですら、それは別の空間に位置している。これは演奏者の意図であると同時に、プロデューサーである近藤の狙いでもあるだろう。先に描写した息の舞踏に、身体の重さを持ち込まないために。そうした「潔癖さ」は近藤のソロ『アジール』に通ずるものがある。
無論、両者が没交渉であるわけはない。「rain #4」のインプロヴィゼーションで、言い出しかねるように口ごもり、どもるフルート演奏においては、背後に潜む何者かが一線を踏み越えて姿を現しそうになりながら、こみ上げる吐き気を耐えるようにして、素晴らしく軽やかな息のダンスがその前を横切っていく。
あらかじめ作曲されたコンポジションの演奏においては、書かれたメロディを解釈/再構築するというよりも、息の舞踏がアブストラクトな散らし描きからラジオ体操を思わせる規則的な律動へと転じた繰り返しの中に、曲の推移がいつの間にか映り込んでいる‥‥という具合。これは思ってもみなかった鮮やかな解決であり、見事な達成と評価したい。
その一方で、短い即興演奏である「rain #1〜#4」とコンポジション演奏の間を埋める位置づけと思われる「umbrella #1〜#3」及び「on the blue corner of the room」の演奏が、散乱と構築の綱引きの結果、むしろコンポジション演奏以上に叙述的になっており、その分、いささか中途半端となっているように感じられた。もちろんこれは私が「rain」の鋭角的な美学に強く魅せられていることによる「反動」なのかもしれない。
タイトルやジャケットを飾るヴィジュアルは、日本語で言うところの「シュール」で、かつての「アングラ」の匂いを強く放つものとなっている。そこにはどこか、文化基盤ないしは記憶を共有する者たちへの親密な「目配せ」が感じられると言ったら言い過ぎだろうか。この国の「フリー・ジャズ」が生まれ落ちた、生暖かい湿気に満ちた暗い裏路地の記憶へと、これらのイメージが結びついているようにすら思われる。私が前述の「umbrella #1〜#3」及び「on the blue corner of the room」に感じた中途半端さも、もしかするとここに連なるものかもしれない。
逆に言えば、タイトルやジャケットが醸し出す、そうした「どこか懐かしい匂い」の中で本作に耳を傾けるとしたら、「rain」の鮮やかな切断が、コンポジション演奏のきっぱりとした達成が、曖昧な記憶、陰ったノスタルジアの下に、セピア色に減速されてしまうのではないか‥‥と私は恐れている。ぜひ、そうした先入観にとらわれずに、この演奏の乾いた速度に耳を傾けてみてほしい。

『no umbrella, no tonguing, if not for the room』(Bishop Records EXJP020)
次で一部試聴可
http://bishop-records.org/onlineshop/article_detail/EXJP020.html
https://www.youtube.com/watch?time_continue=56&v=72aaYTgp3Vk
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